【映画】「四月の余白」感想・レビュー・解説
これはまたホントに、色々と考えさせられる映画だったな。吉田恵輔監督作は『ミッシング』ぐらいしか観たことないけど、『ミッシング』も「正しいと間違いの境界」みたいな話を絶妙に描いていた。そして本作『四月の余白』も、良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかを考えるのがとても難しい作品だ。ディベートとか哲学対話のテーマにしても良さそうな、スパッと答えを出せない問題が色々と描かれている。
本作では様々な問題が描かれるが、その中でも最も本質的なものは、「謝っても心を入れ替えても、過去は消えない」という、作中で何人かの人物が口にしていた言葉だろう。本作ではこの点がかなり多層的に描かれていく。
で、ここからの話は立場を明確にしないとややこしくなるので、基本的には「被害者ではない立場」として話をしよう。個人的には、「被害者が加害者を恨むのは当然だし、赦すかどうかは被害者次第」だと考えているし、それで良いとも思っている。だから、あくまでも法律は守らなければならないが、僕は「被害者は加害者をどう扱おうが別に自由」だと考えている(法律を守る限りは)。
しかし、「社会」はそうではないだろう。というわけで、ここからの話は基本的に「社会が加害者をどう扱うべきか」に絞る。
で、基本的な僕の考えを書くと、「『犯罪者は全員死刑にする』という法律を作る努力をしない以上、社会は犯罪者を受け入れるべき」となる。
もし世の中に、「犯罪者は全員死刑になるべきだし、それが実現するように活動をしている」という人がいるなら、その人は「社会は犯罪者を受け入れない」と主張しても良いと僕は思う。理屈が通っているからだ。刑罰に「死刑」だけでなく「有期刑」が存在するということは、「罪を犯した者が社会に戻ってくること」が前提の制度設計であり、そしてその制度を受け入れている(変えるための努力をしていない)のであれば、「罪を犯した者が社会に戻ってくること」も受け入れざるを得ないだろう。
これが僕の基本的な発想だ。
そしてそうであれば、「どうやって罪を犯した者を社会が受け入れられるようにするか」を誰かが考えなければならない。「放っておけば自然と社会に馴染める」というなら問題はないが、もちろんそんなはずがないだろう。そこには様々な手助けが必要になる。
そしてその一翼を担っているのが、本作で言うと西健吾である。元半グレメンバーで元受刑者、そして今は更生施設を運営する人物だ。
西は「罪を犯した者」というよりはむしろ「罪を犯す前の者」に手を差し伸べているという感じだが、まあ状況は近いだろう。実際に本作では、寮生で鑑別所に入ってた澤海斗を改めて引き受けたりしている。罪を犯しそうな者、そして罪を犯してしまった者が、社会の中でどうにか上手くやっていけるように集団生活を率いるのが西の役割である。
で問題は、「西がかつて、聞くに耐えないような犯罪に手を染めてきた」という事実である。例えば、澤の父親は足に障害を負って杖をつく生活をしているのだが、実は若い頃西に膝を潰されたのだ。また本人がテレビドキュメンタリーのインタビューの中で、「ヤクザの手首を切り落とした」みたいな話もしていた。相当ムチャクチャなことをやっていたようである。
そして、「それは問題ではないのか?」という話が当然出てくる。つまり、「過去に酷い犯罪を行った者に、子どもの更生なんか出来るのか?」というわけだ。
まあ確かにそれはその通りである。が、僕は前述した通り、「罪を犯した者(犯しそうな者)が社会に馴染めるように誰かが手助けしなければならない」と考えているし、それを誰もやらない以上、西のような人間がそのような活動をすることに十分価値はあると考える。
それに、こんな風にも思う。「罪を犯した者(犯しそうな者)が、罪を犯したことのない者の話など聞くだろうか?」と。聞く場合もあるだろうが、「お前に何が分かるんだ」と話を聞こうとしない人間の方が多いような印象がある。もちろん、「罪を犯したことがある者の話なら聞くのか」と言えば、本作の澤のように聞かない人間もいるだろう。ただ、確率は上がるんじゃないかと思う。
とは言えこの点に関しては、また別の観点から西に指摘をする者がいた。彼女は、「寮長はやられた側の気持ちが分からないんだよ」というわけだ。この指摘ななかなか本質的だなと思う。西にしても、やってやられてという感じだっただろうが「やられた経験」もあるとは思うが、「やられっぱなし」ではなかったはずだし、だからそういう人間の気持ちはきっと理解できないだろう。彼女の訴えは切実で、これはこれで重要な指摘だなと思う。
ただもちろん、「すべての人間の気持ちが分かる人」なんていないわけで、この点において西を責めるのもまた酷かなと感じはする。
とはいえ、西の振る舞いのすべてを許容できるわけではない。個人的に嫌だなと感じたのは、「西が寮長として出演したテレビでミーハーな振る舞いをしていたこと」である。勘違いしてほしくはないが、別に「罪を犯したことがある人間は人生を楽しんではいけない」みたいな主張をしているわけではない。じゃなくて、「『子どもたちを更生させる』という、彼にとってもある種の『償い』と言っていいだろう活動が評価されて注目を集めているのに、その状況で得られるプラス要素をさも自分だけの手柄であるかのように享受している」という事実が嫌だったのだ。
これが例えば、彼が趣味で絵を描いていて、その絵が評価されてメディアに取り上げられた、みたいなことなら別にミーハーでも何でもいいと思う。しかし本作で描かれているのは「子どもを構成させる寮長」として評価されているという状況だ。にも拘らずミーハー的な振る舞いはダメだろう、と思う。西にとっても「償い」的な行為のはずなのだから、この点に関してだけは自制心を持たなければならないと思う。西の振る舞いで僕がかなり嫌だなと感じたのがこの点である。
一方作中では、「西が暴力を使ってでも子どもを更生させようとする」というそのやり方が度々問題として取り上げられるのだが、この点に関しては正直、西の主張・行動に理があるよなと感じる。
彼が言っていたように、「教師に対して『こいつは暴力を振るってこない』と生徒が思えば、生徒の下に教師が付くみたいな状況になってしまうし、それでは何も変えようがない」というのは確かにその通りだと思う。「暴力」をどう定義するかにもよるが、個人的には「ビンタ」や「ちょっと殴る」みたいなことは、必要だと思えばすればいいと思うし、「どんな場合でも暴力は禁止だ」みたいな主張はちょっと無理があるよなと思う。
全然話は変わるが、以前『アフガン、たった一人の生還』という本を読んだことがある。2005年にアフガンで行われた作戦で、世界最強と言われる米海軍特殊部隊ネイビー・シールズ所属の部隊4人が無数のタリバン兵に囲まれ、その絶体絶命の状況から1人だけ奇跡的に生還したという実話を、生還した本人が書き記した作品だ。『ローン・サバイバー』というタイトルで映画化もされている。
そしてその中で、「交戦規則(ROE)」に対する不満をかなり強く主張していたことを覚えている。どうやら今は変わっているみたいだが、当時のROEでは「非武装の民間人を攻撃することは完全に禁止」だったのだ。しかし彼らは実際、「非武装の羊飼い」を見逃したためにタリバン兵に囲まれてしまった。その羊飼いがタリバンに密告したからだ。部隊の面々は羊飼いを見かけた際、殺すかどうか検討した。しかしやはり、ROEに違反するということで見逃さざるを得なかったのだ。そしてそのせいで、部隊は壊滅的な被害を被ってしまったのである。
というわけで大分話は飛んだが、先程の「どんな場合でも暴力は禁止だ」は、「非武装の民間人を攻撃することは完全に禁止」というROEに近いものがあるなと感じる。いや、無理やろ。「教師が暴力を振るってこない」となれば、そりゃあ生徒はナメて掛かってくるし、それじゃあ、澤のような人間を抑えることも出来ないだろう。
だから少なくとも僕は「必要な暴力はあるはずだ」と考えているし、暴力を完全に否定するような主張をするつもりはない。
というか僕としては、作中に何度か出てくる「草野先生に文句を言う保護者」の方に怒りを覚えることが多かった。学校内での暴力事案や、草野先生自身が生徒に手を出してしまったことについて保護者と関わる機会があるのだが、その際に「教師なんだからちゃんと指導してくれないと」「教師なんだから対話で解決するのが当然でしょ」みたいなことを言ってくるのだ。
マジでムカつくなこいつら。
こういう保護者は何故か、「親の自分は悪くない」という前提に立って話をするんだよな。意味が分からん。そりゃあ、教師が悪い状況ももちろんあるだろうが、「100%親は悪くない」なんて状況もまずないはずだろう。ホントにこういう親の方が、「暴力で子どもを抑え込む西」より遥かに問題だろうと思う。
一方、澤の母親は「自分が悪い」と思いすぎている。「息子が問題行動を起こすのは自分に責任があるんだ」と考えすぎていてしんどくなってしまっているのだ。それはそれで問題だよなぁ、と思う。この辺りのバランスはもう少し上手く取れるといいんだけど。
また、もう1つ印象的だったのが草野先生の言葉だ。彼女は、最初に担任を持ったクラスの同窓会に呼ばれた話をする。一番の問題児だった生徒は今は構成して、職人として不良を何人も抱えながら仕事をしているらしい、と語った後で、「同窓会の時に話しかけてくれた女の子のことをまったく覚えていなかった」と話し始めるのだ。
家に帰って卒業アルバムを見て思い出したそうだが、同窓会の間はまったく思い出せなかったという。その場は上手くやり過ごしたものの、その女性からは「先生のお陰で高校生活が楽しかった。良い先生に出会えて良かった」と言われたそうだ。自分は、まったく覚えていなかったのに。
それで彼女は、「だから、澤くんのためにこんなに時間を使っていいものか、分からないんです」と言っていた。優等生で手がかからなかったからこそ覚えていない生徒と、問題児だったからこそ印象に残っていた生徒。本来はどちらも同じぐらい力を注ぐべきなのに、どうしてもバランスが悪くなってしまう。それでいいのだろうか、と。
この話に限らず、草野先生は色んなことに悩みを抱えている。もちろん最大の問題は、「澤海斗を始めとした問題児が授業妨害をする」ということで、さらに彼らに虐められている生徒が不登校になったりもした。しかしそういう「誰もが思い悩むだろう問題」だけではないところでも彼女は引っかかってしまう。
例えば、草野先生は西と相談し、澤を施設で預かってもらうことにしたわけだが、その決断を同僚の教師から「ダメな奴は隔離するのが正解ですよね」と褒められる。しかし草野先生は、本当に澤の更生になると考えてその決断をしたのだ。しかしそういう説明をしようとすると、「うんうん、分かってる分かってる」みたいな感じでいなされてしまう。彼女にはモヤモヤが残るシーンである。
というような感じで本作は、良いとか悪いとか正しいとか間違ってるとか簡単に言えないような物語に仕上がっている。ホントに、どういう風に育ってきたかとかどんな経験をしてきたかによって、本作の捉え方は全然変わってくるだろう。というか、そういう多様な捉えられ方がされるべき作品だなと感じた。
内容に入ろうと思います。
受け持つクラスに澤海斗がいる草野冬子は、内藤悠ら海斗と共にいる面々に手を焼いていた。これまでにもあらゆる問題を起こし、つい最近も、確証こそないが、夜中に校舎に忍び込んで学校中の蛇口を出しっぱなしにして校舎中を水浸しにする騒動を起こした。地元の悪い連中とも付き合っているようで、どう対処したらいいか分からずにいる。
そんな時、「みらいの里」という更生施設を運営している西健吾の講演会に足を運び、そのことがきっかけで海斗・悠の対処をお願いする流れになった。西は結局金属バットでボコボコにされたのだが、鑑別所帰りの悠よりも海斗の方がより狂気的だということをすぐに見抜く。そして、親とも相談し、海斗を「みらいの里」で預かってもらうことにしたのだ。
とはいえ、悪さばかりしていた海斗が、更生施設に行ったからって大人しくするはずもない。次々に問題を起こし、ついには寮生に大怪我を負わせる事態にまで発展してしまった。後に彼は別の事件を起こし捕まるのだが、西と草野が面会に行った際、「人が痛くても、俺は全然痛くないっすよ」と、他人の痛みが理解できない発言をしていた。一生残る障害を負わせた相手にも、悪かったなどとはまったく思っていないようである。
西はそんなハチャメチャな海斗に対しても、真摯に向き合い続ける。どれだけ問題を起こしても、どれだけ殴られても、彼は海斗を諦めずに味方で居続けるのだが……。
というような話です。
色々印象的なシーンはあったが、寮生の1人が「寮長は初めて話が通じる大人だった」みたいなことを言っていて、僕はそれを観ながら、以前観た映画『あんのこと』を思い出していた。『あんのこと』も良い悪いを単純に判断できないややこしい物語なのだが、この中でも、河合優実演じる主人公が似たようなことを言っている場面があった。
個人的には、ここに結構問題の本質があるんだよな、と思っている。つまり、「信用できる大人がいない」ということだ。
もちろんこれは、大人だけの問題ではなく、子どもの方にもややこしさがある場合がある。昨日観ていた『情熱大陸』で南沙良が取り上げられていたが、彼女も「子どもの頃は、自分も他人も誰も信じていなかった」みたいに語っていた。子どもがそういうモードでいる時には、大人が何をしてもダメだろう。実際に彼女の両親は、「私が何をしても良いとも悪いとも言わず、ただ見守ってくれていた」と話していて、「たぶんそれが正解だったんだと思う」みたいに言っていた。というわけで、大人の努力でどうこう出来ない状況も多々あるとは思う。
が、当然大人側の問題というケースもあるだろう。僕も子どもの頃は親も教師もメチャクチャ嫌いだったタイプだが(生活圏で会う大人を大体憎んでいた)、だからこそ僕は、「特に自分より年下の人には、『この人は本当のことを言っている』と伝わる存在でいよう」という意識をかなり強く持っている。上手く伝わっているかは分からないが、そう悪くはないだろうという感触はあるかな。
大人は、自分もかつて子どもだったという事実をすっかり忘れて、「子どもに信頼されないようなこと」を平気で言ったりやったりする。そういうのって嫌だなと、大人になってからも僕は感じていたし、そういう大人が多いとそりゃあ子どもも捻じ曲がっていくよね、とも思う。
あと、これは本当に大きな問題だと思うが、「澤海斗みたいな人間とどう関わればいいのか?」は難しいなと感じる。結局のところ、西のやり方が正解なんだろうな、という気はするが、問題は、誰しもが出来るわけじゃないということだ。やはり、「誰にでも採り得る普遍的なやり方」はないんだろうか。まあ個人的には、「社会がもう少し暴力を許容する」という状況になれば、少なくとも今よりはマシになるかなとは思うが、まあそれも無理だろう。「暴力を絶対に許容しない」というスタンスは、ほとんどの状況で良いことだと思うが、すべてではない。そういう難しさも突きつけられるよなぁ、と思う。
で、物語の後半で号泣していたある人物の独白を踏まえると、「狂気的な人物を制御できない学校には、行かなくていい人間もいると思う」と結論するしかないなとも感じた。「ある程度の安全」が確保できない以上、人によっては「学校」が「危険な場」になり得るし、そういう人が我慢してまで学校に通わなければならない理由もないと思う。今ならフリースクールとかオンラインの学校なんかも色々あるだろうし、「マジでみんな、じゃんじゃん逃げようぜ」って思う。
で、それは草野先生に対しても感じていて、草野先生こそ逃げた方がいいだろう。無理すぎる。っていうかホント、今「学校の先生になろう」って人はどういう動機なんだろうなとか思ってしまった。理想とか信念みたいなことだけじゃ、全然やってけなくない? ってか、先生、厳しすぎない? 少子化で学校が減るより先に、先生のなり手がいなくて教育が崩壊するんじゃないかなとも思ってしまった。
などなど、色んなことを考えさせられる作品だった。これは観て良かったなぁ。
あと、どうでもいいが、エンドロールを観ていて「制作:日誠不動産」ってなってて、「そういう変わった名前の制作会社なのか?」とか思って調べたら、やっぱり不動産会社っぽい。日本語の場合は特に、それなりにエンドロールをちゃんと観るタイプなのだが、なかなかない表記なので気になった。
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