【本】斉木香津「日本一の女」感想・レビュー・解説
僕がよく言う話がある。
今は、LINEやらFacebookやらTwitterと言ったSNSが凄くたくさんある。これは、「気の合う仲間」を見つけるのにとてもよい環境が整っているということで、一面的にはとても良いことだと思う。以前であれば、生まれた場所の近くで同志を探すしかなかったはずだけど、今ではやろうと思えば、地図上のどこにあるのかも知らない国の人とだって会話を交わすことが出来る時代だ。
さて、しかし、その同じ状況を、とても悪く捉えることも出来る、と思っている。
SNSが発達したことによって、「気の合う仲間」を見つけやすくなって、「同質性の高い人たち」とのやり取りだけで日常を埋め尽くすことが出来るようになってきた。以前なら、物理的に到達できる範囲内で友達を見つけるしかなかったから、多少のズレがあっても、お互いがどうにか工夫して関係性を築いていくしかなかっただろう。でも今は、「気の合う仲間」を比較的簡単に見つけ出せる(少なくとも、そのためのツールが存在する)時代だ。だから、「合わないな」と感じた人と無理に関わらなくてもどうにか生きていけてしまう時代になっている、と僕は思う。
そしてこれは、とてもとても恐ろしいことだな、と思う。
アインシュタインの名言は様々に知られているが、その中に、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクション のことを言う」というものがある。これは本当にその通りだと思う。僕は「普通」という言葉を使うのがあまり好きではないのだけど、それは、一人一人「普通」は違うと思っているからだ。自分とは違う考え方・行動をしている人を、「普通ではない」と括ってしまうことは、僕にはちょっと難しい。相手には相手がそれまでにコレクションしてきた偏見があって、それによってその人なりの「普通」が構築されている。だから、「自分とは違うんだな」と思っても、「普通じゃないからありえない」という風にはなるべく考えないように努力しているつもりだ。
昔だったら、「自分の普通が実は普通ではなかった」と気づく瞬間は、きっとたくさんあっただろうと思う。何故なら、同質性の高いわけではない人と関わるしかなかったはずたからだ。恐らく、考え方も価値観も違う相手と関わっている、という前提も今より共有されていただろう。そうやって、同質性の高いわけではない相手とうまいことやり合っていく中で、少しずつ色んなことを微調整していきながら大人になっていくのだと思う。
でも現代は、異意識的に「同質性の高い人」とだけ選択的に関わることが出来てしまう。そうなってくると、「自分の普通が偏見であった」と気づく機会は激減する。何故なら、周りも同じような考え方をする人ばかりだからだ。そうではない、「同質性の低い人」は、意識的に視界から排除出来てしまう時代だからだ。
SNS絡みで色んな問題が社会問題になることがあると思うけど、その一端はこういう部分に根っこがあると僕は思っている。自分が関わっている仲間の価値観がすべてで、その外側は存在しない。「無視している」という感覚でさえなくて、きっと彼らにとってはそれは「存在しないもの」なのだと思う。SNSは確かに便利だと僕も思う。でも、使っている人間の意識を、ゆっくりと変質させていく。使っている人間が気づかない内に。
僕は、LINEもFacebookもやらず、Twitterはほぼ発信・閲覧用で、コミュニケーションのためにはほぼ使っていない。これは、かなり意識してそうしている。僕は比較的、誰とでも合わせられてしまうので、SNSのような「同質性の高さ」を求められる環境では、相手に色々合わせたりしてしんどくなることがわかっているからだ。
僕は、自分でこういうことを言うのはちょっと恥ずかしいけど、世間のごく標準的な一般的な考え方からは外れてしまうことが多い。「変人」を気取ってる、なんて風に思われてもまあ別にいいんだけど、自分が当然と考えることがどうも相手に伝わらない(伝わらないと僕が感じる)ことが多い。別にどっちが正しいのか決着をつけたいわけでもないから違ってても別にいいんだけど、なんだかなぁと思うことはよくある。
で、もし僕が、「同質性の高い人」ばっかりと関わってると、そういう自分の感覚が薄れていってしまうような気がしてちょっと怖い、というのもあったりします。自分では意識しない内に、周りの意見に合わせてしまうようなことが起こりうるんじゃないかな、と。正直それは、僕にとってはホラーみたいなものです。いつの間にか記憶が書き換えられている、みたいなのと大差ないですからね。
「いいね」とか「RT」とかは、自分の考えを理解してくれている、伝わっていると実感できる指標なんだろうし、それが可視化出来るようになった世の中というのは面白いなと思うこともあるんだけど、でもその一方で、「いいね」とか「RT」でないと相手からの共感を感じられなくなっている人も出てきているだろうし、そうなってきてしまうともう本末転倒だろう。自分の考えや意見を、他ならぬ自分自身が認めてあげる。そういう練習を積み重ねる機会が、SNSの登場によって一気に奪われてしまったのかもしれない。
そういう時代にあって、自分の考えや意見を自分自身で認めてあげるというのは、とても難しいことなのかもしれない。でも、たぶん、そういうことを意識的に練習していかないと、これから、とてもしんどくなっていくんじゃないかなぁ、という予感がある。
本書の主人公のサダは、自分の考えや意見を自分自身以外の誰に認めてもらってもしゃーない、と思っているような、自分のことを自分で認めていればそれでいい、と思っているような、尋常ではないぐらい強い女性です。
菜穂子は、盆休み前に実家に戻った。表向きは、ひいばあちゃんの三十三回忌に顔を出すためということにしているが、三十三回忌はまだ一週間も先のことだ。母親からも怪訝な顔で見られた菜穂子は、特にすることもなくブラブラしている時に、菩提寺に行ってみることに決めた。
そこには「上の坊さん」と呼ばれている隠居に近い僧侶がいて、菜穂子は話しかけてみることにした。ひいばあちゃんであるサダに似ていると言われた菜穂子は、親族の誰もが悪口しか言わないサダについて話を聞かせてもらいたいと思った。
そこから上の坊さんは、サダ本人はその周辺の人間から聞いた話を再構築して、菜穂子に長い長い話を聞かせることになる。
穀物商を営んでいる家に生まれたサダは、まるで猿のような顔をしていた。妹は絶世の美人と評判で、サダは常に妹との差を見せつけられて育ってきた。サダは、本人も、そして結果的には相手も望んでいなかった嫁ぎ先へと収まり、農家仕事をすることになる。
しかし、生来の気の強さから嫁ぎ先の生活にうまく馴染もうとしないサダ。姑とも衝突ばかりであったが、容姿に恵まれなかった代わりに子供の頃から頭を使ってきたサダは、ほぼ独力で精米所を始める。「女太閤」と呼ばれるようになったサダの生涯を描く。
サダという女性の生き様は、なかなか爽快です。正直、あまり関わりあいになりたくはないタイプです。自分の考えを曲げず、嫌われてもへいちゃらで、誰の意見にも流されない。それは時として、子供の将来を狂わしもするが、しかし、概ねサダの判断はうまく行く。
本当は、もう少しうまいことやれば、物凄く大人物になれるだろう。しかし、サダはそれをよしとはしない。無用な嘘をついて気に入られる・成功するぐらいなら、嘘はつかずに嫌われた方がまし、と考える女だ。周りに合わせないことで鼻つまみ者扱いされ、結果的にサダの首を締めることになっても、サダは気にしない。それよりも、自分を偽ることなく、潔く生きていくことにより上位の価値を置いているのだ。
サダの生き方は、サダが一人で生きていくのであれば100%完璧で問題ないと感じる。これほど自分を強く持って生きていられるのは、本当に羨ましいと思う。世間の基準とはズレがちなんだよなぁ、と思っている僕だけど、でもやっぱり自分の考え方だけでグイグイ押し切って生きていくのは無理。なんだかんだ言ってうまいこと周りと合わせつつ生きている。この強さ、揺るぎなさに憧れる人は結構いるのではないか。
しかし一方で、サダのような生き方は、周囲の人間に様々な影響をもたらすことになる。「安易に流されること」はよくないが、「まったく協力しない態度」はやはり褒められたものではないだろう。その判断基準をどこに置くかはともかく、サダはそれが振りきれている。他人の指図に従うことは、すべて安易に流されることだ、と思っている節がある。自分だけが正しいと決め、周りの意見に耳を貸さない。この態度はやはり難アリだなと感じる。
とはいえ、やはりサダの生き方は凄い。
『一人だけ違うことをしている私を悪者にするのは簡単だ。だが、ほかの全員がやっていることのほうが間違いかもしれないと、なぜ疑おうとしないのか。私一人に罪を押しつけても、自分たちのやっていることは変わらないはずなのに』
戦局が悪化し、住民一体となってこの苦難に立ち向かっていこう、という時代であっても、サダはこんな風に考えて他人と関わろうとしない。その判断の是非を問うことはとても難しいが、しかし最終的にサダは、サダなりに幸せに死ねただろう。ごく一般的な価値観では幸せとは言いがたい晩年だっただろうが、きっとサダ本人はそう感じなかったに違いない。ならば、サダの勝ちだろうと思う。死ぬ時、あるいは死の間際にこれまでの人生を後悔せずにいられるなら、まあそれで十分だろうなという感じはする。
個人的には、富松がとても好きだ。もっと言うと、富松とサダの会話が好きだ。富松というのは、サダが始めた精米所の一切を取り仕切る番頭のような男で、非常に有能だ。サダは、この富松という男と喋る時だけは、自分の考えていることを素直に口にすることが出来る。
『勘かあ。勘と言われると、空から降ってくるみたいじゃけど、そういうんじゃねえんで。なんかこう、いろいろ見て、いろいろ考えて、なんにも言わんでおくと、どんどん溜まっていくじゃろう。なんかあったときに、そういうのがたくさん、たくさん組み合わさって、こたえになって出てくるときがあるんじゃ』
サダがある予想をした時に富松が「若女将は勘がいいけん、当たりそうですなあ」と言った時の、サダの返しだ。こういう話をサダは富松以外にはしない。伝わるわけがない、と分かっているからだ。富松とサダの関わりは、なるほどそこでもう一回出てくるか、という場面が最後に出てきて、そこもまたいい。なんというか、サダが自分の間違いを認めることが出来る数少ない相手だったのだろう。
個人的には、サダがそういう人物に出会えて良かった、と思う。サダの孤独の半分は、サダの頭が良いことが原因だと思う(これは、相対的に、ということ。サダの頭が良いのもそうだけど、サダの周りにいる人間の頭があまり良くないせいで、相対的によりサダの頭が良いことになる)。そこを埋められる人間の存在は、一つ救いだと感じた。
現代は、同質性が異様に求められる時代だと思う。しかも、それがいいかどうかはともかく、国全体で一つの同質性が求められた戦時中とはまた全然違い、無限のグループが個々に同質性を要求し、そのグループが複雑に重なり合っているという、とても複雑怪奇な同質性が求められる時代であると思う。サダもサダが生きた時代で非常に浮いた存在だったが、現代でサダのように生きようとすればより色々と大変だろうと思う。
しかし、複雑に絡まりあった同質性の枠から抜け出すためには、行動に移すかどうかはともかく、発想としてはサダのような考え方があってもいい、と思う。「自由」というのは時代によって様々な捉え方がなされるだろうけど、一側面ではサダの生き様は圧倒的に自由だ。「自由」という意味を捉え直すためにも、サダの生き様に触れてみるというのはアリかもしれない。是非読んでみてください。
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