【映画】「アスファルト・シティ」感想・レビュー・解説

なるほど、そんな話になっていくのか、と感じた。映画の最後に、次のような文章が表示されたのがとても印象的である。

『近年、救急隊員の自殺が急増している。
その数は、殉職者数を上回るほどだ。』

「えっ?」と感じるかもしれないが、本作を観終えた後だと「なるほど」と感じさせられてしまうだろう。そして、凄く嫌な言い方をするが、「なるほど、自殺せずに残った者が救急隊員をやっているのだな」という理解をすると受け取りやすくなる作品でもある。予告や映画冒頭からはちょっと想像もつかなかった展開なので、思いがけず深い問いを突きつけられる作品で驚かされた。

さて、今回の感想でも僕は、「ストーリー上のネタバレ」はしないつもりだが、しかし、僕がこれから書くつもりの内容を「ネタバレ」と感じる人はいるかもしれない。なるべく、本作そのものからは遠く感じられるような書き方をするつもりではあるが、「まったく何も知らずに本作に触れたい」と思っている人は、以下の文章を読まない方がいいだろう。

さて、僕はしばらくの間、「死んでもいい命はあるか?」という問いについて考えてみたいと思う。で、先に、「厳密な議論」から始めることにしよう。

「死んでもいい命はあるか?」という問いに、厳密な議論で答えるのであれば、日本人は全員「YES」と答えざるを得ない。何故なら我々は「死刑制度」を容認しているからである。もちろん、「死刑制度に反対している、あるいは反対のための行動を起こしている」みたいな人も中にはいるだろう。しかし民主主義国家では基本的に物事は多数決で決まるわけで、「『死刑制度』が存在する社会」で生きているのであれば、「『死刑制度』を容認している」と判断されても仕方ないだろう。

なので、「厳密な議論」をするのであれば、先の問いに対する答えは例外なく「YES」である。

しかし僕は別に、そんな「厳密な議論」をしたいわけではない。あくまでも、「個人レベルでどんな風に思うか?」みたいな話をしたいだけである。というわけでここからは「厳密な議論」からは離れるが、そうだとしても僕は先の問い、つまり「死んでもいい命はあるか?」という問いには「YES」と答える。

僕が度々思い出す事件がある。父親からの虐待で5歳ぐらいの女の子が命を落とした事件だ。この事件では確か、女の子は冷水を浴びせられたり、食事を与えられなかったりした。そしてそれらは「何かの罰」として行われていたようだ。

その後裁判で、命を落とした女の子が父親に宛てて書いた「嘆願書」みたいな文章が提示されたようで、その内容がテレビのニュースで紹介されていた。正確な文章は覚えていないが、「これからもっと良い子になります。◯◯もするし、△△はしません。」みたいなことが書かれていたはずだ。そして僕はそれを報じるニュースを観ながら泣いてしまったのを覚えている。

酷すぎるだろ。何をどうしたら、そんな鬼畜なことが出来るのか、僕にはまったく理解が出来ない。

他にも色んな事件が日々報じられ、その中には「何をどうしたって同情の余地など一切ないだろう」と感じさせるようなものもあったりする。そういう時、「こいつは世の中から消えるべきだろう」と思う。「死んでもいい命」である。

あるいは、僕は基本的に「安楽死賛成派」なのだが、何らかの理由で切実に「死にたい」と考えている人がいるとして、やはりその人にも「死」を与えてあげるべきではないかと考えている。これもまた「死んでもいい命」である。

こんな風に僕は、「死んでもいい命はある」と考えている。

しかしそうだとして、大きな問題は残る。それは、「じゃあ、それを『人』が判断していいのか?」ということだ。この点に関しては細かく見ていきたいと思う。

僕は基本的に、「『システム』が判断するのであればOK」だと考えている。その「システム」を考えているのは「人」なので、結果的には「人」が判断しているということになるのかもしれないが、ここで重要なことは「個人」が決めているのではないということだ。

例えば「死刑」の判断は、「刑法」や「裁判」という「システム」の中で判断される。「刑法」を作ったのも「裁判」を行うのも「人」だが、しかし「システム」という制約の中で判断を行うわけで、そういう形であれば「『死んでもいい命』かどうかを判断すること」は許容されるべきだと思っている。

ちなみにちょっと脱線するが、こんな風に書いてはいるが、僕は「現行の死刑制度には反対」である。というのは「冤罪の可能性」が否定できないからである。この点についてはややこしいのでこれ以上深入りはしないが、僕の中では矛盾はない。

さて、話を戻すが、「『死んでもいい命』かどうか」を「システム」が判断するなら僕はいいと思う。しかしその判断が「個人」に委ねられるとしたら、やはりそれは許容範囲を超えていると思う。

この話で言えばやはり、「やまゆり園事件」が思い起こされるだろう。障害者施設で19人もの人を殺した犯人は、「意思の疎通が出来ない重度な障害者は不幸だ」という判断で犯行に及んだとされている。他人を見て「あいつは不幸だ」と感じることは別に全然問題ないと思うが、しかしその判断を元に相手の命を奪うとなれば話は全然変わってくる。「不幸なら殺していいのか?」という話もあるが、一旦それは置いておいて、仮に「不幸なら殺していい」としても、「不幸かどうか」など他人には判断出来ないはずだ。

というわけで、僕の結論はこうである。「『死んでもいい命』はあるが、『個人』ではなく『システム』がそれを判断する場合のみ、『死んでもいい』という判断に根拠が生まれる」。本作を観ながら僕は、こんなことを考えていた。

内容に入ろうと思います。

NYの消防局で新人救急救命隊員として働き始めたクロスは、最初の出動の日、大混乱の中、思うように動けなくなってしまった。銃撃戦で多数の傷病者がおり、ほとんど何も出来なかったのだ。

その後クロスは、優秀な隊員であるラットとバディを組み、夜のNYの街を奔走することになる。そこはまさに、社会問題のるつぼである。オーバードーズで倒れていた女性から「病院なんかに連れて行くな!」と罵倒され、ならず者たちのリーダー格らしい人物を担架で搬送している時には「絶対に助けろ!」と言いながら彼らの救護・搬送を邪魔するような動きをする(マジであいつらなんだったんだ?)。コインランドリーでは、寒さを凌いで仮眠を取っていたホームレス女性(別に体調に問題はない)の相手もしなければならない始末である。

クロスは、医学部への進学を目指しており、勉強時間を確保しつつ金も稼ぐという目的で救急救命隊員として働き始めた。もちろん、医学部を目指すぐらいだから「人を助けたい」という動機は持っているし、しんどい救急救命の現場でも、常に目の前の患者の命を助けようと奮闘していた。

しかし、そんな”高潔”な理想が打ち砕かれるような現場ばかり経験することになり、クロスは次第に疲弊していく。そんなある日のこと。明らかに夫からのDVにより怪我を負った女性の手当ての最中、「転んだだけだ」「喋らずに治療しろ」と邪魔をしてくる夫に苛立ったラットが手を出してしまい、謹慎処分を食らうことになった。クロスは別の隊員とバディを組むことになったのだが……。

というような話です。

さて、冒頭で書いた話とは別に、観ながらもう1つ感じたことがある。それが、「『ミスをした』という事実に対して罰を与えるべきか?」である。

以前、『ハドソン川の奇跡』という映画を観たことがある。有名な、「ハドソン川に不時着し、乗客乗員全員を救った」という実話を基にした話である。そしてこの中で、「『ハドソン川に着水』という機長の判断は果たして正しかったのか?」と指摘される場面が出てくる。

というのも、シミュレーションによると、残りの燃料で十分、近くの空港までたどり着けたはず、という結果が出たからだ。ハドソン川に着水したことで機体は使えなくなってしまった。そうなると、保険会社も絡んでくることになる。もしも機長が、本当であれば空港までたどり着けたのに判断ミスでハドソン川への着水を決めたのだとしたら、それは問題ではないか? というわけだ。

さて、この話がどう決着するかはここでは触れないが、『ハドソン川の奇跡』を観ながら僕は、「それがミスだとして、緊急的な状況において即座の判断が求められる状況であれば、その判断ミスは咎められるべきではない」と感じた。日本では(もちろん世界でもだと思うが)時々、医療事故によって医師が訴えられることがあるが、「全力を尽くした上でのミス」であれば仕方ないのではないかと感じてしまう(もちろん、悪意あるミスもあると思うので、その判断のために裁判に持ち込まなければならないという事情も理解しているつもりではあるが)。

人間なのだから「ミスをしない」というのは不可能で、しかもそれが「瞬時の判断が要求される緊急時」であればなおさらだと思う。もちろん、先程も書いたが、「元々技量がなかった」とか「睡眠不足など明らかな不備があった」など「責められるべきミス」もあるはずなので、「すべてを免責しろ」などと主張したいわけではない。ただ僕は、少なくとも日本の社会においては(本作を観る限りアメリカもそうみたいだが)、「『ミスをした』という事実に対する評価が厳しすぎる」ように思う。「それは本当に責められるべきミスなのか?」という判断を挟むことなく、「ミスしたんだからお前が悪いだろ!」という捉え方になってしまう雰囲気は、僕はちょっと好きになれないなと思う。

もちろん、それはそれとして、「自分が何か辛い状況に置かれた時に、『誰かのせい』にしないと辛くて耐えられない」みたいなこともあるだろうし、別にそれは僕にも全然理解できる。だから、当事者本人が「ミスした人」を恨んだり非難したりするのは許容されると思う。ただ今の世の中では、全然関係ない人が「ミスした人」をよってたかって責め立てる感じがあり、本当にそういう世の中に対しては「クソだな」としか思えない。嫌な社会だよ、ホント。

というわけで、全然本作の内容に触れていないが、今回はこういう感想で終わりにしようと思う。冒頭からしばらくは「救急隊員のしんどい現実」と「アメリカの社会問題」の詰め合わせという感じで、そして中盤から「考え応えのある問い」が突きつけられる感じになり、思った以上に惹きつけられる作品だった。

あといくつかどうでもいいことを。

まず、「けんけんぱ」って遊びはアメリカにもあるんだな、ということ。日本とアメリカで別々に生まれたのか、あるいは一方から一方へと伝わったのかはよく分からないが、同じような遊びをしてるんだなぁ、と思った。

あと、作中に「死ぬ時は死ぬ」という字幕が表示されたのだけど、たぶんその時のセリフは「Go away anyway.」だったように思う。「Go away anyway.」ってなかなか面白い響きだな、と思ったのと同時に、ふと、「死ぬ時は死ぬ」って日本語はメチャクチャ変だな、とも感じた。「食べる時は食べる」とか「遊ぶ時は遊ぶ」みたいな表現は、日本語では当たり前だけど、シンプルに文章だけを捉えると(つまり、「日本語を学んでいる途中の外国人視点で考えると」)、まったく意味不明じゃないだろうか。何かが省略されてこうなっているのかもしれないけど、じゃあ何が省略されているんだろう。パッとは思いつかない。みたいなことを感じたりした。

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