【映画】「ドライブ・マイ・カー」感想・レビュー・解説
面白かった。だからビックリした。ビックリしたのは、個人的な理由だけど。
普段やらないことだけど、どうも評判が良い作品だと感じたので観ようと思った。良い映画だった。
村上春樹の小説を読むといつも、「自然な不自然さ」を感じる。
村上春樹の小説は、設定も展開もセリフも、とても不自然だと思う。それは、僕らが生きているこの世界に存在するとしたら、ということだ。普通にはあり得ない設定、普通にはあり得ない展開、普通にはあり得ないセリフに彩られていて、「リアリティ」という言葉と対極にあるような世界でありながら「ファンタジー」というのともまた違う、謎の世界が生み出されていると思う。
ただ、その「不自然さ」は、村上春樹が作り出すその世界の中ではとても「自然」に感じられる。読者が「自分の生きている世界」に留まっている以上、村上春樹の作品は「不自然さの塊」みたいな作品にしか感じられないだろうが、村上春樹の作り出す世界に飛び込んでいくと、それがさも「自然」であるように感じられてしまうのだ。
そしてこの「自然な不自然さ」を、この映画からも感じた。それは、凄いことだと思う。生身の人間が演じる「映画」という作品の中で、こんな「自然な不自然さ」を醸し出せるものなのかと驚かされた。
例えば登場人物たちは、とても普通の状況ではあり得ないような、僕らが日常生活の中で聞けば不自然としか感じられないようなセリフを口にする。そのセリフを普通に口にすれば、やはり「映画」という枠組みの中では浮いてしまうだろうと思う。
ただこの映画では、それを違和感に感じさせない工夫がされているような気がした。
この映画では、主人公の家福悠介は演出家であり、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の舞台演出を手掛ける。その本読みの過程で「感情を無くしてセリフを言え」と、役者たちにその意図も伝えないまま指示を出す。役者たちは相当な棒読みで本読みを続けていく。
また、自身も舞台俳優である家福は、「ワーニャ伯父さん」のワーニャ役としても有名であり、妻に自分以外のセリフをテープに吹き込んでもらったものを車で流しながら、自分の役のセリフを口にするのが習慣になっている。そしてそのテープに吹き込まれた「セリフの言い方」が、とにかく平坦で棒読みで感情を感じられないものなのだ。そして、運転中だからということもあるだろう、そのテープを聞いている家福も、棒読みでセリフを口にする。
こんな風にこの映画では、様々な形で「感情を乗せない、棒読みのままセリフを口にする場面」が結構たくさん出てくる。
そしてだからこそ、登場人物が感情を感じさせないようにセリフを口にする場面への違和感が消えていくように思うのだ。
この映画では、家福ともう1人、色んな事情から家福のドライバーを短期間務めることになる渡利みさきがメインで描かれるのだが、この2人がとにかく感情を感じさせない、平坦で色のないセリフ回しをする。そしてこの2人が、現実離れした不自然なセリフを多く口にするのだが、その平坦で色のない口調だとその不自然さをほとんど感じずに済むのだ。
つまりこういうことだ。映画全体で、平坦で色のないセリフが登場する場面が多々あり、観客はその状況を当たり前のものとして受け入れる。そして、主役となる2人がデフォルトで平坦で色のない話し方をするので、現実感の乏しい不自然なセリフが違和感あるように聞こえない、というわけだ。
これは僕が勝手にそう感じただけで、そんな意図はないのかもしれないが、僕は上手いなぁ、と思った。
そして、そういう映画だからこそ西島秀俊という俳優が上手くハマったのだなぁ、と感じた。これは、冒頭で書いた「個人的な驚きポイント」とも関係する話だ。
何の映画か忘れたが、昔何かで西島秀俊の演技をガッツリ観た時、「メチャクチャ下手な役者だなぁ」と感じた。別に僕は、演技のイロハを学んだこともないし、役者の演技の良し悪しを判定できる人間だとは思っていないが、テレビや映画に多数出演する「役者が本業の人」で、これほど演技が下手だと感じたことのある人はいなかったので、その映画を観てメチャクチャ驚いたことを覚えている。
それ以来、西島秀俊の演技を観る機会がある度にその印象が更新されることはなく、僕の中ではずっと「凄く下手な役者さんだなぁ」というイメージのまま来てしまっていた。
だからこの『ドライブ・マイ・カー』も、当初は観る予定がなかった。西島秀俊が主演、という時点で、うーんちょっとなぁ、と思ってしまったからだ。
しかしこの映画では、先ほど説明した通り「感情のない、平坦で色のないセリフ回し」であることが非常に重要だった(と僕は思っている)。そしてまさにそれは「棒読みが求められる」ということだと思うし、それは僕がイメージする「西島秀俊の下手さ」と非常にマッチするのだ。
僕はこの映画から「自然な不自然さ」を感じたと書いたが、まさにそれは西島秀俊という役者に対しても言えることかもしれない。西島秀俊という役者は、僕らが生きているこの現実にいると、どうしても「不自然さ」を感じさせてしまう。しかし、村上春樹的な世界では「自然」なのだ。
まさに、この映画の主演にピッタリの役者だと言っていいのではないかと思う。
この映画は3時間と、普通の映画と比べてかなり長いが、この長さも「自然な不自然さ」を実現するには必要だったと思う。この映画の「自然な不自然さ」をするりと受け入れるためには、言ってしまえば、「観客をある種の催眠状態に陥らせる」必要がある。そのための仕掛けが、前述したような「妻のテープの音声」や「チェーホフの芝居の本読み」などだ。そしてある程度時間を掛けて「催眠状態」を作らなければ、普通であれば違和感としか受け取れないような「不自然さ」を「自然」に見せられない。
逆に、きちんと観客を「催眠状態」に陥れているからこそ、後半の警察が登場する場面も、全体の雰囲気が壊れずに済んでいるのだと思う。警察という存在はまさに「現実の権化」みたいなもので、警察が登場することで途端に「現実味」が増すということはあると思うが、この映画では、長い時間を掛けて観客を「催眠状態」に持っていっているので、警察が出てきても「催眠状態」が解けず、「現実の権化」が現れても「自然な不自然さ」は健在のままだった。
また、そんな「自然な不自然さ」に覆い尽くされた作品だからこそ、チェーホフという、正直いつの時代の人なのかもよく理解していない大昔の人が書いた戯曲のセリフさえ、作中世界の中に違和感なく溶け込んでいく。つまり、「役者が口にするチェーホフが書いたセリフ」が、『ドライブ・マイ・カー』という作品世界の中で直接に作用する存在になっているのだ。「家福悠介が口にするセリフ」と「家福悠介がワーニャ役として口にするセリフ」が同列の存在として世界に作用できる、というわけである。
これもまた驚異的な世界観だと思う。そして、そんな普通ならあり得ないことが「自然な不自然さ」として存在することが可能な雰囲気を絶妙にまとう映画であり、よくこんな作品が成立したものだと感心させられた。
ワンカット長回しみたいな場面が結構あり、長回しの場面に限らず全体的に動きが少ない映画なのだけど、全然画が持つ。役者が喋っているだけでほとんど動きを感じられないような長回し場面でも、惹き込まれる。一番印象的だったのは、高槻が「前世がヤツメウナギの女子高生」のストーリーの続きを喋る場面。これは、語られる物語そのものも興味深いし、それを高槻が”知っている”という状況も興味深いし、高槻の目が潤んでいて、ちゃんとは覚えてないけどほとんど瞬きをせずに淡々とまくし立てていたような状況も興味深いし、全体的に凄く惹きつけられる場面だった。
物語的には、「家福と音の夫婦の不可思議な関係性」が冒頭でダダダッと展開され、しかしその背景が明かされないまま淡々と物語が進み、予想もしなかった場面でその「不可思議な関係性」が少しずつ紐解かれるという展開が面白いと思った。さらに、家福が直面することになる「現実の不可思議さ」に、思いがけない形で関わりが生まれることになるドライバー・渡利ともつれ合うようにして対峙していく様も素敵だ。
渡利が語る「なぜ運転が上手いのか」の話も、手話の女優の存在感も、ほとんど説明がなされないけどなんとなくイメージできるラストも、とにかく様々な場面が、抑制された描写なのに非常に雄弁で、セリフとして語られている以上の想いや感情に渦巻いている作品だと感じた。
また、非常に「余白」の多い物語だというのも印象的だった。なんというのか、普通の映画だったら削られているんじゃないかと思うような、「余白」としか呼びようのない場面が多かった気がする。
最近では、特にYoutubeなどで、会話の間さえ削ってテンポを上げるようなやり方が当たり前になっていて、そういうスピード感が重視される印象があるが、この映画では、会話の間をむしろ足してるんじゃないかとさえ感じるような雰囲気がある。そしてそれが、作品の雰囲気に合っているように感じるのだ。2時間の映画でも長く感じる作品に出会うこともあるが、この映画は3時間あっても長さを感じさせなくて、「余白」なのだけど必然性があるような、そういう見せ方がとても上手いんだろうなぁ、と感じた。
とにかく、とても良い映画だった。観て良かった。確かにこれは、評価されるの分かる気がする。
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