【本】柚月裕子「慈雨」感想・レビュー・解説
『いまここで、十六年前の事件と向き合わなければ、自分のこれから先はない。過ちを犯していたならば、罪を償わなければならない。そうしなければ、自分の人生そのものが偽りになってしまう。家族、財産、すべてを失ったとしても、それは過ちを犯した自分に科せられた罰だ』
何か失敗を犯す度、僕はずっと逃げ続けてきた。誰の迷惑も顧みず、いつだってその場から立ち去ろうとして、実際に立ち去った。責任を取る、などという行動が僕には取れないのだろう、と思っている。だから、責任がのしかかる行動を慎もう。今の僕はそんな風に考えている。
『われわれは神じゃない。人間だ。人間がやることに、完璧という言葉は存在しない。常にどこかに、微細とはいえ瑕がある。だからこそ、われわれ捜査員は、疑念を限りなくゼロに近づけなければならない』
取り返しのつかない過ちであれ、取り返しのつく過ちであれ、それぞれに対して自分なりの責任を果たすことは出来る。取り返しのつく過ちであれば、それを取り返せばいい。取り返しのつかない過ちの場合、責任の取り方は様々だろう。何をどうしても、失ったものは元通りにはならない。元通りではないもので、その失った部分を埋めることは出来ない。しかしそれでも、自分に何が出来るかを考えて実行する。それが責任を取るということなのだろうと思う。
『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。そう思っているのは、神さんも同じだ』
これまで、色んなことから逃げ続けてきた。逃げて逃げて、色んな人に迷惑を掛けながら、どうにか今も生きている。逃げる時の罪悪感は、いつももの凄いものがある。死んだ方がましなのではないか、と思うほどの罪悪感が全身を襲う。逃げなくても辛いし、逃げても辛い。そういう状況の中で、常に逃げることを選択してきた。
しばらくすると、その罪悪感は薄れていく。自分の中に確かにあった、あれだけ自分を苦しめた罪悪感が、ふと気づくと、もうはっきりとは思い出せないものになっている。僕の場合、取り返しのつかない過ちはしたことがないはずだから、そこの違いももしかしたらあるかもしれない。取り返しのつかない過ちを犯していたとしたら、やはり一生罪悪感は薄れないままだろうか。分からない。分からないけど、僕は自分のことを薄情な人間だなと思う。一時の罪悪感を乗り越えさえすれば、次第にそれは薄れていく、ということをきっと経験で理解しているのだ。だから僕は、常に逃げるという選択をする。
『同僚から誘われて近場の山にトレッキングに行ったときも、有名な写真家が撮った神々しい山の写真集を見たときも、美しいと神場が感じるのはわずかな時間で、眺めているうちに荘厳たる景色は、梅雨時の鬱蒼とした山中を這いずり回ったときの記憶に取って代わられる。どんなに素晴らしい山の景色も、神場のなかでは、十六年前の純子ちゃんの遺体発見時へと繋がる』
どれだけ時間が経っても罪悪感が薄れない場合、人はどう行動すべきだろう。自分の行動一つで状況を変えることが出来る。そういう可能性があったとしたら、その方向に進めるだろうか。進めば自分の身が破滅すると分かっていて、その道を選ぶことが出来るだろうか。
『私は、あなたの妻になって後悔したことは一度もないわ。むしろ、刑事の妻であることを誇りに思っている』
その道を、選ぶことが出来るだろうか?
3月に警察を定年退職した神場智則は、警備会社への再就職が1年先送りになったのを契機と捉え、退職したらしようと考えていた四国八十八ヶ所のお遍路を実行に移すことにした。
自分が関わった事件の被害者の供養のためだ。
目的が目的だけに、当初は妻の香代子を連れて行く予定ではなかったが、香代子も同行を希望したために止む無く受け入れた。これまでの刑事人生で、妻には迷惑を掛けた。妻が一緒に行きたいというのなら断れない。
妻と共に霊場を巡りながら考えることは、これまでの自分の人生についてだ。片田舎の駐在所勤めに苦労したこと、刑事になってから出会った人々、娘である幸知との出会い、娘が元部下である緒方圭祐と付き合っていることを認めていないこと。陽気な妻とは対称的に無口な神場は、久々の妻との時間を過ごしていた。
しかし、やはりどうしても、心穏やかにとはならない。むしろ、霊場を巡れば巡るほど、神仏に救いを求める行為に疑いを挟んでしまう。
未だに悪夢を見る、16年前のあの事件。自分が犯したかもしれない“罪”に囚われ続け、刑事である自分の存在を揺るがし続けたあの出来事が、やはり神場の内側を占める。
現在進行形かもしれないのだ。
遍路中、緒方から度々連絡が来る。群馬県で、愛里菜ちゃんという小学一年生の女の子が陵辱され遺体で発見された。緒方はその捜査の進捗状況を、神場に報告しているのだ。
というような話です。
素晴らしい作品だった。久々に良い作品を読んだ。刑事を主人公にした、殺人事件を扱った作品だが、そういうまとめかたをすると作品の良さの大半がこぼれ落ちる。事件や事件の推移そのものに主眼のある作品ではない。この作品は、刑事という真実を追う者と、殺人事件という究極の事実が出会った時、その摩擦にすり減ってしまいそうになりながらも、刑事として、そして何よりも人として真っ当に生きようとする者たちの葛藤の物語なのだ。
この作品は明らかに、現実に起こったある事件をベースとしている。群馬県で起こった、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれている事件だ。知らない人も多いだろう。何故ならこの「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という呼称は、正式なものではないからだ。
この連続殺人事件は、警察は感知していない。いや、感知しているが認めていない、と言うべきか。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付けたのは、この事件を調査したあるマスコミ人である。それは、ノンフィクションという形で一冊の本にまとまっている。清水潔「殺人犯はそこにいる」という本だ。
「殺人犯はそこにいる」が“問い”だとすれば、本書「慈雨」は“答え”と呼べるだろう。いや、“答えであって欲しい”と書くべきだろうか。「慈雨」のようには、現実は動いていない。
どちらも、警察の恐ろしいミスが描かれている。それは、これまでの警察による捜査、そして裁判所による審判を根こそぎ覆す可能性のあるものだ。本書の中で警察の上層部が、『我々は、信頼を失うわけにはいかない』と語る場面があるが、まさにこのミスが公になれば、警察や司法の信頼は失墜すると言っていいだろうと思う。
「殺人犯はそこにいる」で描かれた現実では、そのミスに関わった人たちは、そのミスを認めるつもりはないように見える。実際にはどうなのか、それは想像するしかないのだが、少なくとも警察組織という大きな集合体は、このミスを出来る限り隠匿する決意を固めているだろう。このミスを認めることは、パンドラの箱を開けるようなものだからだ。一旦開けてしまえば、未来永劫閉めることができないかもしれない。その覚悟を決めることが出来る人間はそうそういないだろう。
本書「慈雨」は、その覚悟を決める者たちの物語なのだ。関わった者たちは、それぞれの立場で悩み苦しむ。16年前、自らが関わったある事件の顛末に、心を痛めている。しかし、16年前の結論を覆すことは、やはりパンドラの箱を開けるのと同じことなのだ。その箱を開けようとする彼ら自身にも、多大な影響を及ぼす。
彼らは、守るべきものと、自分が貫くべき正義との間で揺れ動く。彼らは、途轍もなく真っ当で、途轍もなく誠実な人間たちだ。刑事という、限りなく疑念を排除した真実を追わなければならない職業に就く彼らは、その責務を全うするために自らを律している。ごく一般的な人間よりも遥かに倫理基準が高いと言っていいだろう。
そんな彼らでも、16年間も決断出来なかった。犯したかもしれない過ちを自分の内側でぐるぐるとさせながら、すべきだと理性が告げている行動を取ることが出来ないまま過ごしてきてしまっている。ごく僅かな人間としか共有することが出来ない、その存在を明かすことすら躊躇われるほどの過ち。それを生涯抱え込まなければならない彼らの葛藤は、想像に余りある。
僕なら、逃げてしまうだろう。向き合うことすら避け、徐々に低減すると分かっている罪悪感を抱え込むことを選んでしまうだろう。無理矢理押さえ込んで蓋をしてしまえば、自分の人生から排除できるはずだ、という幻想にすがって、意識を向けないようにしてしまうだろう。僕は、警察上層部の判断を責めることは出来ない。そうすべきだ、と理性が告げる行動をどうしても取ることが出来ない。組織の中にいる個人がそう判断しても仕方ないと思えてしまうような、それは過ちなのだ。
仕方ない、などと言うのは本当なら駄目だ。仕方なくなんかない。ないのだけど、怖い。それが自分自身の過ちだとしたら、怖くて仕方がない。「殺人犯はそこにいる」を読んだ時は、被害者の無念や、著者の執念、そして警察という組織全体への苛立ちと言ったようなことしか感じていなかった。本書を読んで、警察という組織の中にいる個人に目が向いた。捜査に直接関わった者、捜査を指揮した者。実際にそういう人が、警察という組織の中にいるのだ。彼らが何を考え、どんな思いを抱えて生きてきたのか。本書「慈雨」を読んで、初めてそこに想像力を向けることが出来たように思う。
過ちから逃げ続けている僕が言うことではないが、僕は、間違っていることは正されるべきだと思いたいし、正義は出来る限り貫かれるべきだと思いたい。自分自身のことではないと思えるからこそ、外から偉そうなことを言うことが出来る。警察は、そのパンドラの箱を開け、正義を貫くべきだ、と。
しかし一方で、責任が個人に向いてほしくはないとも思う。日本の場合、組織全体の過ちも、特定の個人に押し付けておしまいにする傾向がある。もし、警察がこのパンドラの箱を開けるとしたら、責任を押し付けることが出来る個人をきちんと確保できてからになるのではないかと思う。組織全体を守るために、組織は時にそうした非情な決断を下す。
しかし、「殺人犯はそこにいる」や「慈雨」を読めば分かるが、これは決して個人だけの責任ではない。捜査手法という意味で、個人に帰せられる責任もあるかもしれない。しれないがしかし、警察という組織全体が負うべき責任も当然ある。『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。』という気持ちは、警察にいる一人でも多くの人に感じて欲しい、と思ってしまう。この現実を無視したままでは、警察は前には進めないのではないかと思う。
少し違う話をしよう。
冒頭で、本書はただの警察小説ではない、という話を書いた。ここまで書いてきたように、本書は、事件が起こり刑事が捜査する、というだけの物語ではまったくない。後悔と前進という二つの端を行ったりきたりしながら葛藤する者たちの物語だ。
しかし、さらに本書は家族の物語でもある。
詳しく書けない部分もあるが、神場の家族には様々に抱えてるものがある。神場自身、四国巡礼をするほど抱えているものがあり、妻の香代子も長い年月ずっと持ち続けていた葛藤がある。娘の幸知は、父である神場に緒方との交際を認めてもらえず、緒方も同様の葛藤を抱えながら、さらにほとんど手がかりのない事件の捜査に疲弊している。
そして、そのそれぞれの葛藤のどの根っこにも、16年前の出来事が関係してくるのだ。16年前の出来事が関係することを知っているのは神場しかいない。神場は、神場が抱えている葛藤が明らかになることで家族に迷惑を掛けることが分かっている。その上で神場は、その箱を開けるべきかどうか悩み抜く。
香代子も幸知も緒方も、神場が抱えているものの正体を知らない。その正体を知らないままでは理解できない言動や衝動を神場が繰り出す度、彼らは不安になる。神場が正義を体現する人間であることを、近くにいる者なら誰でも知っている。だからこそ、神場が思いやなむその姿に、神場が葛藤を押し退けて決断する姿に、彼の周りの人間も読者も打たれるのである。
特に妻がいい。妻の香代子は、駐在所勤務時代から神場と苦労を共にしている。刑事の妻である、という以外にも、香代子には苦しみがある。しかしそれら全部がないかのように、香代子は明るく振る舞う。
ここでは書かないが、物語のラスト付近、神場がある覚悟を伝えた時の香代子の返答は素晴らしい。こう言い切れる人は、男女合わせてもそうそういないだろう。自分の夫が抱えてきたもの、そしてやろうとしていること。それはあまりにも強大で、恐ろしいことであるのだが、それらを香代子は神場と一緒にすべて飲み込もうと覚悟する。香代子という女性が辿ってきた道筋や我慢してきたこと、飲み込んだり乗り越えたりしようとしてきたこと、それらが読む者の心を震わせるのだ。
ある事件が、地中で繋がる根のようにして様々な葛藤や後悔の素となり、作品全体を覆っていく。ほとんど他人に話さず、自分一人でその大きすぎるものを抱え続けた神場という男がどのように覚悟を決めるのか。その過程こそが物語の核そのものなのだ。現実の事件を下敷きとしながらも、それを人としての尊厳と家族としてのあり方を描く作品に仕上げる著者の力量は見事なものだ。あなたが神場と同じ立場に立たされた時、どう行動し、どう決断するか。そのことを想像しながら、是非本書を読んで欲しいと思う
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