【映画】「シェイプ・オブ・ウォーター」感想・レビュー・解説

自分と違うものを排除するのは、簡単なことだ。
「違う」という理由は、何故だかは分からないけど、周囲にも理由として認めさせやすい。
「俺とは」あるいは「俺らとは」違うんだ、という理由だけで、なんでも正当化されてしまうような可能性は、いつでもどこでもあり得る。

僕は願いとして、そうではない自分でありたい、と思っている。
「違う」以外の別の理由があるならまだいいけど、「違う」というだけの理由で何かを決断したり行動したりしたくはないな、といつも思っている。

というか、「違い」というのはそもそも、見方の問題でしかない。
猿と人間のDNAは、ほんの僅かしか違わない、と言われる。見た目は、まあ結構違うだろう。四足歩行とか尻尾があるとか体毛があるとか、結構色々違う。でも、DNA的にはほぼ同じだという。

つまり、見た目で判断すれば違うけど、DNAで判断すれば同じだ、ということだ。
そしてこういうことは、どんな場合でも考えられる。

とすれば、こう考えるべきだということになるだろう。
「違う」から排除するのではなく、排除するために「違い」の出る見方を採用するのだ、と。
彼らは恐らく言うだろう。いや、「違う」から排除するのだ、と。しかしそうではない。排除するために「違い」を見つけるのだ。そういう意識で無ければ、わざわざ「違い」を見つけるなどという方向に行くはずがない。

じゃあ本当の理由は何かと言えば、邪魔だとか気に食わないとかムカツクとかそういうことだろう。こういう理由は、すんなりとは周囲に受け入れられにくいはずだ。だから「違い」を見つけて正当化しようする。

人間の歴史なんて、そういうくだらない理由の積み重ねでしかないだろう。

そんなくだらない人間にはならないようにしたい。
なるべくそう願いながら生きている。

内容に入ろうと思います。
ソ連と宇宙開発を競っている冷戦時代のアメリカ。航空宇宙研究センターという研究所で掃除婦として働くイライザは、喋ることが出来ない。黒人の同僚・ゼルダと組んで所内の様々な場所の掃除を手がけている。
ある日この研究所に、新たな“対象物”がやってくることになった。イライザらは掃除中にその搬入現場に遭遇し、イライザは水の満たされたタンクに閉じ込められた謎の生物をチラリと目撃する。

その生物の警備担当だというストリックランドという男が、ある日研究室から血まみれで出てきた。どうやら指を噛まれたらしい。掃除を命じられたイライザは、そこで初めて謎の生物の全体像を見ることになる。
それまで判を押したような、家と職場を往復するだけの単調な生活を続けていたイライザだったが、その生物と関わるようになってから気分が明るくなっていく。お互い、声は出せないのだけど、ゆで卵をあげたり、音楽を聞かせてあげたりしながら、イライザは少しずつその生物とのコミュニケーションを深めていく。
しかしある時、衝撃的な事実を耳にしてしまう。宇宙開発でソ連に負け続けているアメリカは、水中と空気中どちらでも呼吸が可能なこの生物を生体解剖して秘密を探ろうとしている。
感情も知性もあるこの生物を殺させてはならない―。イライザは、同居する売れない画家であるジャイルズに助けを求め、救出作戦を練ることになる…。
というような話です。

アカデミー賞を受賞した作品ですが、受賞する前から観ようと思ってた作品です。ストーリーは、実にシンプル。舞台背景とか人物の性質とか色々剥ぎ取ってみると、出会って心を通わせあって危機から救う、という、非常に単純な構造の物語だと思います。

この映画に関しては、そのシンプルさはとても良かったと僕は感じます。というのも、物語の本質以外の部分での要素が色々多いからです。冷戦下のアメリカ、得体の知れない生物、口の利けない掃除婦、関係性が分からない年上男性との同居、裏で暗躍している風の謎の組織…などなど、この映画を支える要素というのが結構多いんですね。これらが、複雑な構造の物語の中に放り込まれていたら、ちょっと食傷気味になってしまっていたかもしれないけど、この映画は、ストーリーライン自体が実にシンプルだったので、特異的に描かれていくそういう様々な要素がゴテゴテしすぎずに済んでいるような感じがしました。


イライザは口が利けないので、最初は何故彼女が謎の生物に惹かれたのか、イマイチよく分からないままでした。でも、ある場面で彼女は、その理由を明確に話します。その理由が、なるほどなぁ、という感じで、僕の中ではその場面を前後に、映画の見え方がガラッと変わったような印象を受けました。

そのシーンまでは、「ちょっと変わった恋愛物語」的な感じでしか見てなかったんだけど、そのシーンを見てからは、「自分という存在をどう認めるのか」という見え方に変わりました。

ストリックランドが、掃除婦であるイライザとゼルダに向かってこう吐き捨てる場面があります。

『クソを片付け、小便を拭く女たちだ』

そういう時代だったということももちろんあるのだろうけど、彼女たちはただ「女性だ」というだけの理由で蔑まれているように見えます。またストリックランドは、強烈な成果主義、階級主義の世界で生きています。映画の中でメインの舞台となるのは、ストリックランドが支配する日常なので、ストリックランド的な世界観から見れば、自分と同じような土俵で闘っていない者、つまり女性だけではなく科学者や黒人なども蔑みの対象として含まれていくように思えます。

イライザの視点からすれば、ストリックランドの世界観の中では、女性であり、さらに口が利けないという意味で障害者でもあるので、自分をなかなか肯定しにくい。同居している男性との関係や同居に至った経緯などは映画の中ではっきりとは描かれていなかったものの(「夫婦」ではなく「同居」と判断したのは、画家がゲイであるかのような描写が一瞬描かれるため)、朝出勤前にバスタブで自慰をしている(んだと思う、たぶん)毎日であり、職場を離れた場所でも自分の存在をまるっと受け入れてくれるようなものはない。

彼女がその生物に惹かれたのは、もちろん最終的には恋心に昇華されるものなのだけど、最初は「自分を受け入れてくれている」という感覚だったのだろうと思う。彼女の日常を構成する人間たちからは、彼女にそういう感覚を与えてくれる者はいない。唯一、同僚のゼルダだけがそういう存在に近いが、イライザとゼルダの関係性は、イライザが喋れないという事情を抜きにしても、ゼルダが一方的に喋り倒すようなもので、受け入れる/受け入れられるという関係性とはちょっと違う。

その生物とは、言語的なやり取りは一切出来ない。イライザは喋れないし、その生物も喋れないようだし、仮に喋れても言葉が通じるとは限らない。触れたりするような直接的なやり取りもほとんどない。けれども、イライザには感じるものがあった。そしてそれは、後にイライザが説明してくれることによって、僕らにも納得できるものだと分かる。

誰かを、あるいは何かを肯定していくというのは、実は結構難しいことだったりする。無意識の内に、色んな考えや価値観に冒されていて、自然と否定の方向に進んでしまっていることというのはよくあることだ。自分以外の誰かがそういう行動を取っていれば分かるのに、いざ自分のこととなると簡単にはいかない。だからこういう映画を見て、改めて思い直すことは大事なのだと思う。それぞれ個人にはその個人なりの考えが様々にあって、それらは可能な限り尊重されるべきだし、そうであればあるだけ、自分も世界から尊重され得るのだ、と。

あと、見ていて気になったのが、謎の生物に最後まで名前(呼び名)がつかなかったこと。意図があってのことなのか、たまたまなのかは分からないが、イライザでさえ最後まで「彼」というような呼び方しかしていなかった。イライザとしては、ずっと一緒にはいられないと分かっていたからこそ名前をつけなかったのか、あるいは自分なんかが名前をつけるべきではないと考えたのか、あるいは名前などつけてもイライザは呼びようがないからつけなかったのか、あるいは他の理由なのか。色々考えられるなと思う。

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