【映画】「Black Box Diaries」感想・レビュー・解説
シェラトンホテルのドアマンとの電話のシーンでは号泣させられた。同じように感じた人は多かったのだろう、客席からもそれ以降、鼻をすする音が度々聞こえてきた。
さて、まず大前提となる僕自身の感覚についていくつか触れておこうと思う。
まず、「山口なんちゃらはレイプをしたんだろう」と思っている。これは「法律に抵触しているかどうか」とは関係ない。当時存在した法律に照らして犯罪が成立するかどうか、という話は僕にはどうでもよくて、「いわゆるレイプをしたんだよな」みたいな部分はまあきっと事実だろうと思っている。作中では詳しく説明されなかったが、かつて存在した「強姦罪」や「強制性交等罪」では「同意が無かった」というだけではどうやら犯罪にはならなかったそうだ。2023年の法改正で「不同意性交等罪」が成立し、犯罪の成立要件が緩和されたらしいので、今の基準では法律に違反するかもしれないが、当時の法律では犯罪にはならなかったかもしれない。しかしそんな話はともかく、「レイプであることは確かだろう」と思うし、だったら山口なんちゃらは何かしらの大きな不利益を被るべきだろうと僕は感じる。
そしてもう1つが、「僕は本作を許容する」という話である。この話は、「本作には法律的・倫理的な問題がある(そのため、現時点では日本でたった1館でしか劇場公開されていない)」という話に関係している。僕は本作を鑑賞する時点で「なんかトラブってる」ぐらいのざっくりしたことは知っていたが、鑑賞後にネットで調べてその問題の大枠は理解出来たと思う。その問題については後で触れるが、とりあえず僕としては、「法律的・倫理的な問題があるとしても、本作は広く観られるべき作品じゃないか」と感じたというわけだ。この点は正直難しい問題で、僕としても「100%そう断言できる」みたいな状態ではないが、色々総合的に判断して「これは公益性があるし、許容されてもいいんじゃないか」みたいに考えているというわけだ。
さて、改めて確認するまでもないと思うが、本作の監督であり被写体でもある伊藤詩織は、「TBSのワシントン市局長の男性からレイプされた」と顔出しで会見を行ったジャーナリストである。その後世界では、ハリウッドの有名プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインの問題などから「MeToo運動」が広まり、彼女はそのような世界において「いち早く声を上げた人」として認識されていたように思う。その後、自身の経験を綴ったノンフィクション『Black Box』を出版、そして今回ドキュメンタリー映画も公開となったのである。
さて、伊藤詩織の事件には、安倍元首相の名前も関わってくる。これも知らない人はあまりいないと思うが一応さらっておくと、「山口氏は、当時首相だった安倍晋三と仲の良かったこともあり、どこかで忖度が働いて罪に問われない幕引きになったのではないか?」という疑惑が存在するのだ。実際、山口氏に対する逮捕状は出ていたのだが、成田空港で逮捕に備えて待ち構えていた現場の捜査官に、上層部から「逮捕するな」と命令が下り、捜査官は目の前を通り過ぎる山口氏をただ見ていることしか出来なかったという話は、報道でも取り上げられていたと思う。国会でも、「仲の良い山口氏を助けるために安倍首相からの指示があったのでは?」みたいな疑惑が追及されていた。
つまり、「レイプ事件」に加えてさらに「政治」が絡んでくるというわけだ。そして、そんな問題の渦中に放り込まれることになったのが伊藤詩織というわけだ。これが大雑把な事件の状況・構図である。そして、そんな自身の体験を追い続けたのが本作『Black Box Diaries』というわけだ。
本作を観ながら色々と思うところはあるのだが、まずは冒頭で触れた「号泣させられたシーン」に触れておこう。それは、民事裁判の1審がもうすぐ結審しそうだというタイミングでのことだった。伊藤詩織と山口氏を乗せたタクシーがホテルの前に着いた時に、ドアマンとして働いていた男性から、当日の詳細な証言がメール(だと思う)で届いたのだ。伊藤詩織は彼に法廷で証言してほしいと考えるが、弁護士は反対した(これはこの話の本筋ではないのでざっくり書くが、彼の証言のために裁判を長引かせると裁判官が交代する可能性があるという理由だった)。が、彼女は色々考え、やはりドアマンに証言をお願いしようと電話する。
彼女は、「当日は公開のため、あなたの存在や証言がマスコミや傍聴席に伝わってしまう」と懸念を伝え、その上で「どうしても裁判官にあなたの話を聞いてほしいから証言をお願いしたい」と伝えるのだが、それに対してドアマンは、「気持ちよく出来ることは何でもやろうと思っています」と返すのだ。さらに続けてこんな風に言っていた。
【特に心配事はありません。名前も出してもらって大丈夫です。伊藤さんが味わった苦しみに比べたら全然なんてことはないので。
それに以前から、性犯罪の罪が軽いと思っていたんです。まさか自分がこんな風に性犯罪の裁判に関わるなんて思いもしませんでしたけど。だから僕は、あの日の当直が自分で良かったなって思ってるんですよ。】
凄いなと思う。彼はこの時点で、同じホテルでずっと働いている。それに、会社からは証言することを止められていたそうだ。しかしそれでも、色々考えたのだろう(事件後すぐに連絡しなかったことからその葛藤は窺える)、最終的には「自分の証言が何か役に立つなら」と、すべての不利益を被る覚悟で証言する決断をするのだ。
もし自分が同じ立場にいたら、同じ決断が出来るだろうか、と思う。僕も同じように「こんなの許せない」みたいな感じになるとは思うが、しかしそれでも、会社から止められている中で証言をする決断をするというのは結構な勇気だろう。簡単な決断ではなかったと思うし、しかし最終的には大きな一歩を踏み出したわけで、このシーンではボロボロ泣いてしまった。
一方、「酷いな」と感じたのが、彼女の元に届いた匿名のメールの内容である。伊藤詩織は、顔出しで記者会見を行ってから、様々な誹謗中傷に晒されていた。「ハニートラップだったんじゃないか」「被害者にしては、記者会見の時のスーツの胸元が大きく開いていた」など色々あったそうだ。彼女はそのような誹謗中傷に対して、「そんなことで屈してしまったら、『名乗り出たら誹謗中傷に晒されるだけ』という前例を作ることになる」と考え、踏ん張る決意を口にしていた。
さて、先の匿名のメールは、彼女がノンフィクションを出版した後に届いたもののようだ。そこには「同じ女性として恥ずかしい」みたいなことが書かれていた。覚えている限り内容を書くとこんな感じになる。
【同じ女性として恥ずかしいです。あなたは、自分に非がないとでも思っているのですか?
私は厳しく育てられてきたから、危険な状況を避けられます。
仮にあなたの言うことが真実だとしても、私は男性が気の毒に思えます。】
すげぇこと言うな、と思う。もちろん、これが本当に女性からのメールなのかという点には疑問符を付けるべきだとは思うが。
このメールの主は恐らく、「危険かもしれないと思って付いていったならあなたに責任があるし、危険に気づかなかったのだとしたらそれもあなたの責任です」みたいなことを言いたいのだろう。しかしそれはおかしな話だろう。これが「外国に旅行に行く話」なら男女関係ない話だから分かるが、性暴力に関して言うなら危険なのは圧倒的に女性の側で(男性が被害者になることもあると理解しているが)、「危険な環境が存在している」という事実こそ問題であるはずだ。しかしメールの主は「『危険な外的環境が存在する』という事実は許容した上で対処すべきだ」という話をしているはずで、個人的には問題の本質を捉え間違えているよなと思う。「熊が人を襲うこと」は確かに問題だが、それは「熊が山にいられない、あるいは都市部に下りてくる方が食料調達が容易」という状況を作った人間側の問題に端を発しているという話に近いだろうか。
「女の敵は女」とはよく言うが、本当にその通りだなという感じがするし、こういう「共闘出来なさ」みたいなものがより一層問題を複雑にしているという感じがする。
さて、改めて本作の特異さに触れておこうと思うが、本作は「性犯罪被害者自身が監督となって、自身にカメラを向けている」という構図のドキュメンタリー映画である。そして、こういう作品はかなり珍しいように思う。
性犯罪被害者に焦点を当てたドキュメンタリーはこれまでにも色々とあったと思うが、やはり「被害者を別の誰かが追う」という構図になるはずだ。そしてそういう構図である以上、どうしても限界が生まれる。これは性犯罪被害者に限らずどんなドキュメンタリーでも同じだとは思うが、「被写体にどこまで肉薄していいのか?」は難しい問題だし、それが性犯罪被害者となれば余計に難しい部分が出てくるだろう。
しかし、性犯罪被害者自身が監督であれば、その限界は無いに等しいと言っていい。本人が許容できるというギリギリまでカメラに収めることが出来るからだ。この点は、本作が持つ大きな特異さだと僕は思っている。
そして、それを踏まえた上で僕は、伊藤詩織が初めて顔出しで記者会見に臨んだ際の発言が、本作全体を貫いているなと感じた。彼女は記者からの質問に答える形で「何故顔出しで記者会見を行うことにしたのか」について説明するのだが、彼女はこんな風に話していた。
【私は、被害者が被害者らしく振る舞っていなければならないみたいな雰囲気に違和感を覚えていました。
私は何も悪いことをしていないし、このまま沈黙していたら法律も変わらない。だからです。】
この「被害者らしく振る舞わない」という彼女の宣言は、本作全体に通底しているなと思う。そして個人的には、それが凄く良かったように感じられた。
性犯罪に限らずだが、何らかの「被害者」を被写体として捉える場合、撮る側はやはり「被害者然りとした雰囲気」を望んでしまうんじゃないかと思う。ドキュメンタリー映画ではどうか分からないが、ニュース番組など短い時間で何かを伝える必要があるような場合には、まさに「被害者らしい映像」が求められるんじゃないだろうか。そして、被害者=監督である本作では、そういう問題もあっさりと乗り越えることが出来る。伊藤詩織は「被害者」としてではなく「伊藤詩織」としてカメラの前に存在し続けることが出来るのだ。
個人的には、彼女のそういう「被害者らしくない振る舞い」が伝わることはとても良いことじゃないかと思っている。伊藤詩織は色んな場面で「自分より後の世代のこと」に言及していたが、この「被害者らしい/らしくない」の話もその一環と言えるんじゃないかと思う。以前僕は『私はモーリーン・カーニー』という映画の中で「よき被害者」という表現が出てきたのを印象的に覚えている。実際にあった事件を元にした本作では、被害者であるモーリーン・カーニーが被害者然とした振る舞いをしない。そしてそのことについて裁判の中で「よき被害者」みたいな表現で非難(だったと思う)されていたのだ。やはり日本だけではなく(映画『モーリーン・カーニー』はフランスの映画だったはず)、世界でも同じような風潮があるんだなと思う。
本作を観た人の中にはきっと、「あんなに元気に振る舞えるってことは、実際に被害なんてなかったんじゃないの?」みたいに感じる人もいるんじゃないかと思う。それはまさに、「被害者は四六時中悲嘆に暮れているべきだ」みたいなステレオタイプに支配されていると言っていいだろう。ンなわけがない。人にもよるが、敢えて元気に振る舞っていないと自分を保てないような人だっているだろう。だから本作は、「被害者らしさ」みたいなものをぶち壊す1つのきっかけにもなるんじゃないかと思ったりもする。
さて、この点に関しては、伊藤詩織が「自分自身と向き合っていなかった」と語る場面があった。確か、民事裁判の準備がどんどん進んでいくさなかでの発言だったはずだ。
【これまで私がどうにか生きてこられたのは、ジャーナリストとして自分のことを客観的に捉えていたからだと思う。
でも、自分のことを被害者だと自覚すると、苦しくて耐えられない。まだ自分と向き合えてはいない。】
そしてその後も、日記の一部だろう(本作には、彼女が手書きしたのだろう英語で書かれた日記の一部が度々表示される)、「止まるのが怖いから走り続ける。自分と向き合いたくないから」という文章が表示された。
さらにもっと後のシーンでは、
【どう痛むに耐えたらいいのか、分からなくなってしまいました。】
と、号泣しながら語る場面もある。民事裁判の準備の中で自身の被害について改めて自覚し、さらに、加害者と裁判の中で対面しなければならないという状況を実感するようになり、どんどんと追い詰められていったようだ。その後彼女は、英文の日記でこんな風に書いていた。
【誰の中にもモンスターはいる。
でも、私の中のモンスターは私を殺さなかった。
これで彼と向き合える。】
どうにか、襲い来る不安感に打ち勝ったようである。
あと印象的だったのは、家族との関わりだ。映画のかなり冒頭、どういう状況での会話(あるいは電話)だったのか分からないが、彼女の妹が、「顔出しで記者会見をしたら、『被害者だ』ってレッテルを貼られちゃうよ。だからお姉ちゃんにはそうしてほしくない」みたいな音声が流れた。あるいは、伊藤詩織が父親との会話について語る場面もある。顔出しで記者会見するつもりだと父親に告げた際、こんな風に言われたそうだ。
【相談じゃなくて、もう決めてるんだろ?
それでも私は反対だ。
結婚して、子どもを生んでというような、普通の幸せを歩んでほしい。】
そしてそんな話をしていた場面で伊藤詩織は、「『沈黙』は私にとって幸せではない」と口にしていた。彼女に父親を非難する意図はなかったと思うが、「幸せ観」みたいなものの差異が浮き彫りになったと感じただろうし、この辺りの価値観の違いも難しいなと思う。
さて、映画を観ながら僕は、「そうか、そもそも民事訴訟をやってたのか」と思ったし、さらに「もう結果が出ていたのか」とも感じた。正直、日本では全然報道されていなかったんじゃないかな。そもそも、伊藤詩織が顔出しで記者会見した翌日も、テレビで取り上げたのは日テレだけ、新聞もかなり小さな扱いだったそうで、作中で行われていた記者の座談会みたいなところでは「むしろその扱いの小ささに違和感だった」みたいな話も出ていた。
で、本作で初めて知ったことは多かったが、中でも、「安倍元首相が銃撃された日に、伊藤詩織が起こしていた民事訴訟の最高裁判決が出た」という話には驚かされた。あまりにもな偶然という感じがする。
というわけで、内容の話はこれぐらいにしておこう。それでは続いて、本作『Black Box Diaries』の制作過程における問題点について触れておこうと思う。冒頭でも書いたが、この点に関しては映画鑑賞後にざっくり調べて理解した程度の知識しかないので、正しくないことを書くかもしれない。自分で調べてみてほしい。
ちなみに、ネットで検索すれば色々と出てくるが、情報がまとまったnoteを1つ紹介しておこう。
さて、問題点をざっくり書いておくと、「許可を取っていない」という点に集約されるだろう。これは、「防犯カメラ等の映像の使用」と「証言や録音データの使用」に関してである。
さらに、この問題を指摘したのが、伊藤詩織と民事訴訟を一緒に闘った弁護士だったというのもなかなか特異的と言えるんじゃないかと思う。彼らは、民事訴訟を闘うためにホテルから防犯カメラ映像を入手したのだが、その際に「裁判でしか使わない」という約束を交わしたそうだ(正式に書類が存在するらしい)。しかしそんな防犯カメラ映像を、伊藤詩織はホテル側の許可を取らずに無断でドキュメンタリー映画に使用したというのだ。これは法律的に大きな問題だろう。
また本作には、タクシー運転手や警視庁の捜査官など「本人の許可を得ずに映像や音声を使用している」みたいな状況も存在する。これも、肖像権など法律的にも問題かもしれないが、倫理的にもかなり問題があるだろう。そしてこのような点について、弁護士が指摘したのだという。
確かに、これは問題だと思う。ただ、そうだとしても本作の存在は許容されていいんじゃないか、というのが、本作を観た僕の感想だ。
さて、僕は「法律的に抵触していても、実害が少なければ、状況次第では許されるんじゃないか」みたいに思っているところがあるのだが、実は「防犯カメラ映像の無断使用」には大きな実害が存在する。それが、「民事訴訟において、今後防犯カメラ映像の提供がなされなくなるのではないか」というものだ。確かにこれは大きな問題だなと思う。
しかし、これは僕の認識が何か間違っているのかもしれないが、「警察の捜査」においては防犯カメラ映像は提出しなければならない(あるいは、今回の騒動によってその行為が制約されない)と思っている。で、伊藤詩織は「刑事では不起訴処分になったから、やむを得ず民事訴訟を起こした」のであり、刑事事件としてちゃんと立件されていれば「民事訴訟のために防犯カメラ映像を入手する」なんて必要もないわけだ。
つまり、「性犯罪を警察がきちんと捜査し、社会も断固としてそれを許さない」という状況になれば、ここで指摘されている「実害」は存在しなくなるのではないかというのが僕の理解である。そして、本作『Black Box Diaries』はまさにそのような方向に世の中全体を動かそうと意図する作品であり、だからこそ「法律に抵触していることは確かだろうが、それでも許容される余地はあるのではないか」と思う。
むしろ個人的には、倫理的な問題の方が大きい気がしている。正直、「いやいや、そんなん、許可取ったらいいだけやん」って感じてしまった。もちろん思考としては理解できるつもりだ。「許可を取る」という行動を起こせば、仮に「NO」と言われた場合には絶対に使えなくなってしまう。だったら、倫理的に問題があることは理解しつつ、とりあえず使ってしまおう、みたいな感じだったんじゃないかと思う。個人的には、ドキュメンタリーやノンフィクションを作る立場にいる人のスタンスとして、これはちょっと良くないなと思う。「制作のための素材を入手するという点においても、対象者との信頼関係を醸成して成り立たせている」みたいなことがドキュメンタリー・ノンフィクションの大前提だと個人的には思っているので、その点を無視しているという事実の方が、個人的には大きな問題に感じられるのだ。
しかしそれでも、「被害者自身が監督であり、普通なら踏み込めない領域まで『被害者』を掘り下げている」という本作の特異さや、「このような現状であると社会に訴えかける力強さやエモーショナルさ」みたいなものを総合すると、「マイナスも色々あるが、プラスが大きいので許容されてもいいんじゃないか」という気分になるというわけだ。
もちろんこの点に関しては、「証言者本人による指摘や、使用しないようにという要望」があれば厳正に対応する必要があるだろう。証言者の自由や権利を侵害してもいいという話をしたいわけではない。まあこの辺りは、「公開されちゃったら、その時点で『侵害』は発生しうるわけだから、その前に指摘・要望が出来なければならない」し、そのような環境を整えているようにも思えないわけで、この点にも問題はあるなという感じがする。
というわけで、冒頭で書いた通り「100%そう断言できる」みたいなことではないのだけど、色んな要素を自分なりに踏まえると、「不備は多いが、全体としては許容されてほしい」という感想になる。なかなか難しい問題ではあるが。
まあそんなわけで、こういうゴタゴタがあって、日本では未だに1館でしか上映がなされていないということになっている。個人的には「広く観られた方がいい映画」だと思うが、とはいえ、指摘されている問題点についても納得できる。今後本作の上映館が日本で広がっていくのかはなんとも分からないが、「現状への認識」と「未来が変わる期待」を考慮すると、やはり多くの人に目に触れるべき作品じゃないかなと思う。
ただ、本作においては「密室の出来事であり、『何が起こったのか』を立証することが困難」「日本が『性暴力被害後進国』と言われている事実」「日本の司法制度には国連からも是正が勧告されている」みたいな色んな状況を踏まえての判断であり、伊藤詩織のやり方が他のドキュメンタリー・ノンフィクションでも許されていいとは思わない。「やり方が間違っていること」は確かであり、これがスタンダードになるべきではないとは感じる。
さて最後に。配信で観る観客のことを意識しているのだろう。本作では冒頭でこんな文章が表示された。
【世の中には、性暴力の被害者が数多くいます。
本作では、性暴力についての描写があります。
どうか自分のペースでご覧ください。
苦しくなったら、深呼吸をしましょう。
これは、私が体験したことです。】
そして映画の最後にはこう表示された。
【すべてのサバイバーに本作を捧ぐ】
まさにこのメッセージが向けられた当事者たちにも、本作がきちんと届くような環境が早く生まれるといいなと思う。
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