【映画】「英雄の証明」感想・レビュー・解説

これは良く出来た映画だなぁ。こんな”些細な”物語を、よくもまあ「現代社会の問題を浮き彫りにする作品」に仕上げたものだと思う。

この映画の核となる部分は非常にシンプルだ。それは、「拾ったものを、落とし主に返したこと」である。もちろん映画では様々なことが描かれるのだが、それら様々なことはすべて、この「拾ったものを、落とし主に返したこと」に付随していく。物語のすべてが、そこに集積していくのだ。

「拾ったものを、落とし主に返した」なんて些細な出来事が、どうやって社会問題を突きつける内容になっていくのか。その物語の展開のさせ方はとにかく見事だと思う。

まずは、彼がいかにして「英雄」として祀り上げられるのか、その過程を見ていこう。今回の感想では内容にかなり触れたいので、まだ映画を観ておらず、詳しい内容を知りたくないという方はここで読むのを止めていただく方がいいと思う。

主人公のラヒム・ソルタニは、刑務所に収容されている。容疑は「詐欺罪」ということになっている。事業を行うために融資を受けたが、その金をビジネスパートナーに持ち逃げされてしまった。当時結婚していた妻の兄であるバーラムが保証人になってくれていたのだが、そのバーラムがラヒムを訴えたことで「詐欺罪」として収容されているのだ。

さて、凄い仕組みだなと思うのだが、イランの刑務所には「休暇」があるらしい。つまり、刑務所に収容されている囚人が、「休暇」の間は塀の外に出られるのだ。ラヒムは2日間の休暇を得て、姉夫婦の元へと向かう。そこには、別れた妻との間にできた息子・シアヴァシュも生活しており、久々に家族水入らずの時間を過ごす……という風にはなかなかならない。

ラヒムはこの休暇を利用して、バーラムに金の一部を返済しようとした。姉マリの夫であるホセインと2人でバーラムの元を訪れるのだが、「全額を一括で返さないのなら受け取らない」と追い返されてしまう。

しかし、ずっと刑務所にいたラヒムは、返済のためのお金をどこから得たのだろうか? 疑問に思った姉がラヒムを問い詰めると、口ごもってしまう。高利貸しからお金を借りているのではないかと姉は疑うが、そうではないと反論するラヒム。しかし、ラヒムが持ち帰ったバッグに17枚もの金貨が入っているのを見られてしまい、その出処を問い詰められるのだ。

ラヒムは悩んだ末、ファルコンデに相談をする。実は出所して一番に会いに行ったのがファルコンデであり、この物語のすべてのきっかけを作った人物でもある。彼女は、家族にも内緒で付き合っている女性で、刑務所から出たら結婚を申し込むつもりでいる。そしてそんな彼女がなんと、バス停で金貨を拾ったのだ。当初2人は、この金貨は自分たちに対する神のご加護だと受け取り、換金して返済に充てようと考えた。しかしラヒムは思い直し、ファルコンデとも相談して、落とし主を探すことに決める。落ちていた場所の近くの銀行に「金貨の落とし物の問い合わせはなかったか?」と聞き、その後、自分が収容されている刑務所の電話番号を記載したチラシを作り、周辺に貼った。とりあえず出来ることはすべてやった。そう考えてラヒムは、休暇を終えて再び刑務所に戻るのである。

しばらくすると刑務所に、チラシを見たという女性から電話が掛かってくる。ラヒムはバッグや中身の特徴を電話の主に確認し、特徴がすべて合っていることを確認、姉のマリに連絡をし、預けていた金貨を電話の女性に返すように頼んだ。

やってきた女性は、じゅうたん織りで稼いだお金を金貨にして持っていたが、家に置いておくと夫に使われてしまうかもしれない、だから銀行で換金しようと思ったのだが、その途中で落としてしまったのだと涙ながらに語る。金貨を落としたことは分かっていたが、「金貨を持っていること」を夫に知られるわけにもいかず、何もできなかったが、チラシを見て連絡した。そんな風に言って、金貨を受け取り、帰っていった。マリは、女性の名前を聞かなかった。この出来事を夫に知られるとマズいということが分かっていたから、詮索するようなことはしなかった。もし何かあれば、マリのスマホに電話をしてきているのだから、それで折り返せばいい。そんな風に考えていた。

さてこれが、物語の冒頭で描かれる「拾ったものを、落とし主に返した」という話だ。全然、なんてことない話である。普通ならきっと、ここで話は終わっただろう。しかし、そうはならなかった。

ラヒムが収容されている刑務所がこの「美談」を知り、大々的に喧伝することに決めたのだ。もちろんそれは、受刑者の素晴らしい行いを世間に知らせたいという気持ちからのものなのだが、もう1つ裏の事情があった。実はこの刑務所では先般、受刑者の自殺騒動があり、その悪い印象を払拭したいと考えていたのだ。

刑務所の面々は、テレビや新聞などからの取材依頼を積極的に受け、ラヒムの行為が世間に知られる手助けをする。ラヒムは、そんな大きな話になるとは思っておらず、些細な嘘を修正しようとした。ラヒムは、「金貨を返したのは自分だが、拾ったのは別の人なのだ」と刑務所の担当者に説明する。ファルコンデでとの交際は家族もまだ知らないものであり、彼女の名前は表に出せない、と。しかし担当者は、「金貨を返したのはお前なんだろ? だったら問題ない」と、ラヒムを取材へと送り出す。

ラヒムは当然、ファルコンデの名前を出すわけにはいかず、だから「自分が金貨を拾った」と説明せざるを得なくなる。テレビでは、「この辺りにあったバッグを拾ったのです」と、ラヒムは当時の状況を”再現する”場面も映る。確かにこれは「嘘」だが、確かに、「金貨を返したこと」そのものは事実であり、拾った経緯はさほど問題ではない。ラヒムもそう判断し、自分が拾ったことにしてテレビに出演する。そもそもラヒムは、自分からテレビに出たいと言ったわけでもない。

さてしかし、ラヒムの行為は「善行」として大きな話題を呼ぶ。なにせ、休暇中の囚人が金貨を拾い、それを自分のものにしなかったどころか、持ち主を探すために休暇を使ったのだ。素晴らしい人物だとラヒムは絶賛され、なんとチャリティ協会から表彰を受ける。そのチャリティ協会の仲介によって、ラヒムの借金返済に充てるための寄付金も集まった。返済の全額には足りないが、彼の行いを知った地方審議会が、彼に職を提供すると申し出もあった。集まった寄付金を頭金として、あとは働いて返せば問題はないのではないか。ラヒムを初め周囲の人間は、バーラムが訴えを取り下げることを期待する。バーラムさえ訴えを取り下げれば、彼はそのまま刑務所を出られるのだ。

しかしバーラムは、「何故『過ちを犯さなかったこと』がこれほど称賛されるんだ?」と疑問を呈す。そして、ラヒムはこれまで嘘ばっかりついてきたペテン師なのだから、信用できないと言って、調停に応じようとしない。周囲がなんとか説得し、とりあえずその調停を飲んだが、バーラムはそもそも、「ラヒムが拾った金貨を返した」という話自体を作り話ではないかと疑っており、分かり合える余地に欠ける。

しかしともかくも、ラヒムは刑務所に戻らずに済むことになった。そのこと自体はとてもめでたい。そして、職の斡旋もある。あとは働いて金を返すだけだ……とはいかない。

ラヒムに仕事を用意してくれた地方審議会の担当部長と面談になるのだが、そこで部長から「金貨を返却したという証拠はありますか?」と質問される。ラヒムは、唐突な問いに驚く。「嘘だと思っているんですか?」と返すと、「私はそうは思わないが、ネットで噂が回っている」と言われるのだ。どうやら、ラヒムの善行について、「刑務所が自殺騒動を隠蔽するために仕組んだ作り話だ」という噂が出回っているそうなのだ。

部長は、金貨を受け取った女性を連れてきて署名してもらえれば問題ありませんと告げるが、事はそう簡単ではない。女性の名前も住所も分からないのだ。マリのスマホに残っている着信履歴の番号に電話してみたが、それは彼女を乗せたタクシー運転手のものだった。色々と手を尽くして、金貨を受け取った女性を探そうとするが、手がかりがまったくない。夫に知られるのを恐れていた女性が、自ら名乗り出る可能性もないだろう。

一体ラヒムは、どうやって「英雄の証明」を行えばいいのだろうか?

映画の内容ほとんどを書いてしまったが、こんな風に書き出したのは、「登場人物には、悪意らしい悪意がまったくない」ということを理解してもらうためだ。もちろん、「ネット上の噂」は悪意に満ちている。しかし、非常に斬新なことに、この映画にはスマホの画面やSNSのやり取りは映し出されない。ネットにどんな書き込みがされているのか、どんな風に炎上しているのかという描写は一切ないと言っていい。「ネット上で何かが起こっている」ということだけ匂わせながら、この映画ではひたすらリアルの世界のみを映し出していくのである。

そして、そのリアルの世界には、基本的に悪意から行動を起こす人間はいない。バーラムはなんとなく悪者に見えてしまいがちだが、彼が主張していることももっともではある。ラヒムに「金貨を返した証拠はありますか?」と聞いた部長も、厳しい対応だとは感じるが、しかし今の時代にはせざるを得ない組織防衛でもあると感じた。

刑務所の面々がラヒムの善行を知らしめようとしたことは軽率ではあったが、やはりそこには悪意はないし、報道を信じて表彰や寄付の仲介を行ったチャリティ協会にももちろん悪意はない。

ラヒムは、テレビの取材やチャリティ協会でのスピーチで、「初めはその金貨を自分のものにしようと心が揺れ、実際にバーラムに返済を申し出もしたが、その後良心が咎めて持ち主を探した」と心境を素直に語っている。彼は「拾った時から持ち主を探そうと考えていた」と、より英雄らしく映るように喋ることもできたが、そうはせず、初めは盗んでしまおうと思っていたと素直に語っている。彼は基本的に、終始状況に真摯に素直に応じようとしている。

基本的には、誰も悪くない。もちろん、結果から見て過去を振り返れば、「あの時ああすべきではなかった」という言動はいくつも挙げられる。しかし、リアルタイムで、その場その場の状況下で下されたそれぞれの決断は「間違っていた」というほどのものではないと思う。

そして、リアルの世界をひたすら映し出すこの世界に、本質的な意味での悪人が1人もいないからこそ、ラヒムが陥ることになる大騒動はすべて、この映画ではほぼ映し出されることのない「ネットの世界」に原因がある、ということになるのだ。

この構成は、見事すぎると言っていいだろう。

逆に言えば、こういうことになる。「ネットの世界」では、日々様々な呟きが生まれ、真偽不明なまま広まっていく。自ら発信しなくても、誰かの発信に乗っかったり、「いいね!」を押して賛同したりすることもあるだろう。そして、「ネットの世界」で行われている、本人としては「些細」だと考えているかもしれないその1つ1つの行為が、リアルの世界の誰かを翻弄しているかもしれないのだ。

まさに現代社会の問題を如実に映し出す作品だと言っていいだろう。

繰り返すが、何より凄まじいのが、社会問題をあぶり出す物語の核となるのが「拾ったものを、落とし主に返したこと」なのだ。そんな些細な、はっきり言ってなんでもないようなことが、これほどの物語の核心部分に存在することが非常に興味深い。

何故ならこのことは、僕たちも日常生活のほんの些細な出来事によってラヒムのような状況に陥ることを明確に示していると感じるからだ。

ラヒムは、自分でも認めていたが、さほど頭が良くはない。「だからここ(刑務所)にいるんだ」と言っていたから、自覚はしているのだろう。そして、さほど頭が良くないからこと、結果として悪手ばかり取ってしまう。「暴力に訴えること」は、あらゆる意味で最悪の選択肢ではあるのだが、それだけではなく、金貨を受け取った女性が見つからないからと言って、婚約者をその女性に仕立てて堂々と嘘をつく場面は、悪手中の悪手だと感じてしまった。

しかし一方で、自分がラヒムの立場にいたとしたら、そういう選択肢が頭に過ってしまうかもしれないとも思う。「英雄の証明」という映画のタイトルは、恐らく、「悪魔の証明」を意識しているだろう。「悪魔の証明」というのは、ざっくり言うと「ないことを証明する」というタイプの証明であり、一般的に「証明することが不可能な事象」を指すことが多い。そして、ラヒムの証明もそれに近いものがある。金貨を受け取った女性を見つければすぐに証明できるのだが、そもそもその女性を見つける手立てがないし、婚約者に協力してもらって嘘をついたことが発覚して以降は、仮に本当に金貨を受け取った女性が見つかったとしても、「その女性が本当に受け取ったのか」と疑われ続けるだろう。

結局どうしたところで、ラヒムは「英雄の証明」を行うことができない。

しかしそのことは同時に、「金貨を返すという行為」が嘘だったのかもしれないという疑惑を残し続けることにもなる。ラヒムは間違いなく金貨を返しており、その点を疑われることは心外でしかない。しかし、決定的な証拠はなく、また、「ラヒムが嘘をついているかもしれない」という噂が広まったことで、「嘘なのではないか」という心証が強まってしまう。

この状況は、確かに耐え難い。そして、そこからどうにか抜け出すために、悪手だと分かっていながら嘘をついてしまうかもしれない、と思ったりもする。

なんとも難しい話だ。

この物語が突きつけるのは、「『正しい/間違いかどうか』は『正しい/間違いと思っている人』がどれぐらいいるかで決まる」ということだろう。もちろんこれは、古代から人類が採用しているシステムでもある。中世の魔女狩りにしても、「『その女は魔女だ』と思う人間」がたくさんいるから処刑されるわけだ。いつの時代も人間は変わらない。

しかし、その古来からの人間の性質に、「インターネット」という要素が加わることでややこしくなる。インターネットでは、「正しい/間違いと思っている人」をいかようにでもかさ増しできてしまうからだ。

もちろんこの映画で描かれるような現実は頭では理解していたし、実際に起こりうることも想像できる。しかしこの映画では、「インターネット」によってほんの些細な出来事であっても大騒動になり得るのだということが、否応なしにはっきりと突きつけられるのだ。

そのリアルさに驚かされたし、物語が持つ力を改めて実感させられた。


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