【映画】「アダムの原罪」感想・レビュー・解説
これは凄い世界観だったな。個人的にはメチャクチャ圧倒された。映画の作りや構成は、少し前に観た映画『ナースコール』とかなり近く、「ある夜間病棟での出来事を、看護師に密着する形で追っていく」というドキュメンタリーのような感じなのだが、大きく違うのが「メインで映し出されるのが誰か」という点だ。『ナースコール』では、視点人物である看護師に焦点が当てられていたが、本作『アダムの原罪』ではアダムという少年とその母レベッカがメインとなる。
そして、この親子を巡る物語が、色々な問題を突きつけてくる感じがあって、「社会問題の幕の内弁当」みたいな内容に圧倒させられた。
さて、本作では「レベッカには母親として問題がある」と見做されている。「虐待」というわけではないが、「アダムを育てるのに適した人物ではない」と判断されてしまっているのだ。そしてそのため、この親子には公権力が絡んでくる。「調査官」と呼ばれる人(恐らく日本で言う児童相談所的なところの人じゃないかと思う)や裁判所などが、「レベッカとアダムを引き離すべきだ」と判断し、そしてそれにレベッカ(もアダムも)が抵抗している、というのが全体の構図である。
それで、日本では少し前に実に印象的な事件が起こった。読売巨人軍の元監督である阿部慎之助が、娘に暴力を振るったとして逮捕され、その後監督を辞任した事件である。僕は正直この事件の詳細は詳しくなく、「娘がChatGPTに相談したら『児童相談所への通報』という返答があり、それで通報したら大変なことになってしまった」みたいな通り一遍のことしか知らないのだが、そういう僅かな知識だけで判断するなら、僕はこの事件、良い風に評価している。
別に、「阿部慎之助が監督を辞任した」という点までプラスの評価をしているつもりはない。状況が、会見の中で「娘からの手紙」として語られたものとそう違いがないなら、別に辞任しなくていいんじゃないかと思っている。が、まあその点はこれから僕が書きたい話とはあまり関係しないのでどっちでもいい。重要なのは、「子どもの訴えを公権力が受け入れ、その上で、子どもの安全のためにかなりの権力を使って親権を抑え込んだ」みたいな部分である。
僕はこれまでも色んな感想の中で、「クソみたいな親の親権なんか公権力が奪えばいい」と書いてきたし、その感覚は今も変わらない。また、「民事不介入」という言葉で家庭の問題に立ち入らないようにしてきた日本の警察等の対応も好きではない。ドキュメンタリーを含む色んな映画を観ていると、海外では「子どもを守るために、親権よりも公権力の方が優先される」みたいな状況が当たり前みたいだし、そして先の阿部慎之助の事件は、「日本もそういう方向に進んでるんだな」と実感できたという意味で良かったなと思っている。
というわけで本作『アダムの原罪』でも、レベッカは母親でありながら、「子どもを守る」という名目の元、様々な公権力から制約を課されている。まず大前提として、僕はそういう世の中の方が圧倒的に良いと考えているし、日本ももっとそういう方向に進んでほしいものだと思っている。
のだが、本作で提示されているのは、「ルールを守ることは常に正しいのか?」という問いであり、この点についてはやはり色々と考えさせられるなと思う。
本作のメインビジュアルには、「守るべきは社会のルールか それとも尊い命か?」というキャッチコピーがついている。正直なところ、この「ルール」と「命」を二項対立させていいとは思えないぐらいレベッカがちょっと常識外れなので、このキャッチコピーが本作に最適なのかは評価しづらい。まあそれはそれとして、このキャッチコピーが問うている「社会のルールを(常に)守るべきなのか?」という問題は、僕もよく考えることがある。
僕が常に考えていることは、「何のためのそのルールが存在するのか?」ということだ。僕だってもちろん、ルールを守ることは大事だと思っているし、社会やコミュニティに存在するルールは守らなければならないと考えている。しかし同時に、ルールは決して完璧ではないとも思う。どれだけ慎重に作られたルールにも、不備や漏れはあるものだ。100%完璧はあり得ない。そしてだからこそ、「このルールが存在する理由はなんだ?」と問わなければならないのである。
「ルールを守ること」が「そのルールの遵守によって目指したい状態」を実現させるのなら、当然ルールは守るべきだ(そして基本的にルールとは、そうなるように設計されてはいる)。しかし時と場合によっては、「ルールを守ること」が「そのルールの遵守によって目指したい状態」を遠ざけてしまうこともある。本作で描かれているのは、まさにそのような(そうかもしれない)状況であり、だからこそ「単にルールを守ることだけが正解なのか?」という問いが成立するというわけだ。
というわけでその辺りの説明をするためにも、本作の冒頭からしばらくの展開を少し紹介しておこう。
病室に、4歳のアダムがいる。左腕を骨折したのだ。骨折だけなら入院には普通ならないが、アダムは栄養失調で痩せこけており、発育が遅れている。原因はどうやら、シングルマザーとしてアダムを育てるレベッカにあるようだ。理由はよく分からないが、母親は「家にある食べ物以外はすべて危険」と教え込んでいるようで、その上でどうも大したものを食べさせていないようだ(レベッカはどうも心の底からアダムを愛しているようで、この行為は虐待ではなく愛情から来るもののようである)。
病院から通報があったのだろう、恐らく色んな手続きを経て、最終的に裁判所がレベッカに対して息子への面会禁止の命令を下した。しかし、「外の食べ物は危険」と教わっているアダムは、入院中も食事の一切を拒否している。そのため病院は止むなく、鼻から栄養を胃に直接流し込むやり方をせざるを得ない。しかし当然だが、こんなやり方をずっと続けているわけにはいかない。
そこで、小児センターの看護師長であるルシーは、「1日2回、食事の時間だけアダムとの面会を許可する」ということにした。恐らくルシーにも病院にもそんな権限は無いんじゃないかと思うが(面会を解禁するかどうかの判断は調査官や裁判所が行う)、このままアダムが自発的な食事をしなければ命の危険もあると考えての判断だったのだろう。
しかし、食事をさせるために面会が認められたレベッカは、やはり病院で提供される食事はアダムに与えずゴミ箱に捨て、自分が持ってきた謎のミルク的なものを食べさせる。当然、そんな小細工はすぐにバレるのだが、「母親としての信念」と「社会から押し付けられる制約」の狭間で追い詰められたレベッカは衝動的な行動に出てしまい……。
さて、当初問題になるのは「アダムが何も食べない」ということだった。そしてここで、いくつかの「ルール」がせめぎ合う。母親であるレベッカには「面会禁止」の命令が出ているので息子アダムに会わせることは出来ない。しかしアダムは、母親が食べていいと言うものしか食べない。そしてそのため、(これは別にルールではないが)アダムには仕方なく鼻から栄養を注ぎ込むことしかなくなっている。
それで、「息子との面会禁止」を含む、本作に出てくる様々なルールは基本的に「子どもの安全な生育」のために存在していると言っていいだろう。これが「そのルールの遵守によって目指したい状態」である。しかし今、「レベッカをアダムから遠ざける」ことで、「アダムが何も食べない」という「安全な生育における大問題」が生じている。この場合、あなたならどうするだろうか?
もちろんシンプルなのは、脳死でルールを守り「レベッカをアダムと会わせない」と判断することだろう。本作に登場する多くの人物(そのほとんどは男性だ)がそのように考える。「ルールがあるんだから、それに従わなければならない」というわけだ。もちろんそれは正しい。正しいが、しかし「そのルールの遵守によって目指したい状態」から遠ざかっているという意味では間違っているとも言える。
一方の看護師長は、違う立場を取る。何よりも大事なことは「アダムの安全な生育」であり、それに利するのであれば「面会禁止」のルールを破ってもいいと考えるのだ。個人的な感覚では、彼女のスタンスの方が正しいように思える。「何のためにそのルールが存在するのか?」を考え、「理想状態に近づくためにルールの遵守はむしろ邪魔」なのであれば、ルールは破られるべきだと僕は思う。
もちろん、それが当たり前のようにまかり通ってしまえば、皆がレベッカのように(つまり、自分の子どもに「ほとんどの食べ物は危険」と教え込んで自発的な食事をさせない)みたいな行動を取るかもしれないし、それはそれでまた別の問題を引き起こすことにもなるだろう。「どっちを取っても問題が起こるなら、『ルールを守った』という事実が残る方がいい」と考えるのもまた合理的だとは思う。
みたいなことを色々考えると、正解が分からなくなってくる。
ルールの板挟み的な問題は他の場面でも描かれる。色々あって、作中でアダムは再び怪我をし救急へと運ばれるのだが、その後ルシー(かは分からないが)がアダムの父親に連絡を入れた。レベッカは既に離婚しているのだが、「救急に子どもが運ばれたら親に付き添ってもらわなければならない」というルールがあるようで(そう説明されるわけではないので、これは僕がそう受け取ったという話)、しかし母親は面会禁止の措置中なので、それで父親に連絡をせざるを得なかったというわけだ。
しかし実際には、父親が来たところでどうなるわけではない。アダムは「パパはいない」と言っていたし(レベッカからそう言われているのだろう)、ずっと「ママがいい」と繰り返している。またそもそも、アダムの父親は再婚し、妻との間に幼い子どももいるのだ(その状態でも、アダムの父親として連絡が行くというのは、ちょっと日本の感覚と違う気もするが)。しかし、ルール上仕方ないということで父親は呼ばれ、しかし何が出来るわけでもなく、妻にもなんて説明したらいいか分からず、みたいな状態に陥っている。
ここでももちろん、「ルールに従ってるんだから問題ない」と考えることも出来る。しかしこの場合、「そのルールの遵守によって目指したい状態」は「怪我等を負った子どもを安心させること」だろう(恐らく)。そして、アダムの父親はその役割をまったく果たさない(まあ、まったくではないが)。この場合も結局、「ルールの遵守」が「理想状態」をもたらしていないと言っていいだろう。
こういうことがあるから僕は、「ルールを守ってればいいんだ」みたいな思考が好きになれない。繰り返すが、そりゃあルールは守るべきである。「基本的に大半の状況でほとんどの人がルールを守っている」という状況があるからこそ「ルール」は意味を持つのだ。しかしやはり例外もある。だから「ルールを守らない」という例外が許容されないこともまた、おかしなことだと僕には感じられてしまう。
ルシーが作中で何度も繰り返すように、「アダムの安全な生育」を実現するためには、どうにかしてレベッカの協力を取り付けなければならない(もちろん、アダムを施設に入れるという手段もあるわけだが、アダム自身がそれを望んでいない以上、それは最後の最後の最終手段だろう)。レベッカは現状では協力の意志をまったく見せないが、「このままでは親権が奪われてしまう」ことは理解しており、努力次第では説得の余地があるように見える。
ただもちろん、「説得の余地」があるからといって、「じゃあ一介の病院職員がレベッカ1人に深く関わっていいのか」というと、それも正しくはないかもしれない。ルシーはレベッカ専属の看護師ではなく、イザラ病院小児センターの看護師長なのだ。もっと全体的な視点から物事を捉えるべきだろうし、だから「レベッカの説得」だけに時間を費やすわけにもいかない。
みたいなことはもちろん理解できるが、しかしやはり、まずは「レベッカをいかに説得するか」という観点から話が進むべきじゃないかと感じた。「面会禁止」や「親権剥奪」もいいが、やはり「親とまともな形で過ごせる」に越したことはないだろう。そして映画を最後まで観る限り、その可能性はまだあるように思う。
ただ、これは単なる観客としてレベッカを観ているからそう感じるだけで、もし僕が病院関係者だったら、すぐに「レベッカはイカれている」と判断して寄り添おうとしないだろうなとも感じた。だから、同じシングルマザーとして子どもを育てた経験があるルシーだからこそ出来た対応だろうなとも思う。
いやー、なかなかルシーのような対応は出来ないだろうなぁ。特にラストの展開は、「これが正解だ」という確信がないとなかなか出来ないことだし、結果としては、ルシーのそんな覚悟を感じ取ったからこそ起こった行動変容でもあるように思う。またなんとなくだが、「女性同士だからこそこういう決着になったんだろうなぁ」という展開でもあって、そういうことをすべてひっくるめて印象的だった。
さて、本作の監督は映画『Playground/校庭』でデビューを飾った人なのだが、『Playground/校庭』も凄かった。どちらも緊迫感が凄く、しかも「子どもが置かれたあまりにも酷な状況を正面から映し出す」みたいな部分がかなり強烈で印象的である。
あと、レベッカを演じたアナマリア・ヴァルトロメイはホント、僕が観る映画によく出てくる(実際は、彼女が出ている映画を僕がよく観てるだけだが)。『あのこと』『タンゴの後で』『モンテ・クリスト伯』など、どれも印象的な役柄で出演していて、いつもその強い存在感に惹きつけられる。本作でも、客観的にはどう見ても「異常」としか思えない母親を、「愛情深い母親」と錯覚させるような演技で存在させていて見事だったなと思う。
というわけで、なかなか圧巻の物語だった。それで、改めて僕は、同じく今日観た『シラート』のような映画より、本作『アダムの原罪』のようなストーリーがちゃんとある作品の方が好きだなと思う。
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