【映画】「星の子」感想・レビュー・解説

なんか色々考えさせられたし、ザワザワさせられたし、ちょっと違った意味でラストに衝撃を受けた。


僕は、「物質が原子から出来ている」と信じている。

でも、どうしてそう信じているのだろう?

僕は、原子を見たことはない。匂いを嗅いだことも、手触りを感じたこともない。「この靴、メッチャ原子から出来てるわー」なんて実感したことももちろんないし、正直、物質が原子以外のものから出来ていたって困りゃしないだろう。

でも僕は、物質が原子から出来ていると信じている。

その理由は、色々複雑に説明できるかもしれない。しかし、それらから虚飾を剥ぎ取ってシンプルにすると、以下の2つの理由に集約されるだろう。

・偉い人がそう言っているから
・みんながそう信じているから

学校で、「物質は原子から出来ている」と習う。教科書には、なんか頭良さそうな人の写真と共に、「この人が◯◯を発見しました」「この人が●●だと証明しました」みたいなことが書いてある。先生も生徒も、そのことに疑問を持っていないみたいだ。

もう一つ、こんな消極的な理由も挙げられるかもしれない。

・そう信じることで、自分に特段不利益が生じないから

物質が原子だ、ということを信じていても、良いことも別にないけど、困ることも特にない。だから疑問を抱かずにそれを信じている。

さて、この状況と、「奇跡の水」を信じる思考は、一体何が違うだろう?

飲めば風邪をひかない、それどころか、色んな悪いのが治る水。僕はそういう水の存在を信じないが、しかし、信じている人を闇雲に非難する気もない。何故なら、彼らが「奇跡の水」を信じる理屈は、僕が原子の存在を信じる理屈と大差ないからだ。

映画の中で主人公は、「この水は偉い科学者がその効用を証明している」と語っている。まあ、普通に聞けば「怪しい」「嘘だ」と思うだろうが、しかしそれは原子だって同じだ。「原子ってものが存在するって偉い科学者が言っている」と僕らは思っている。自分で原子を見たことも感じたこともないくせに、無条件に原子を信じているのだ。主人公の態度と、大差ないだろう。

また、主人公の周りには、両親を始め、その水の効用を信じている人がたくさんいる。日々集会が開かれ、時には研修旅行もある。「原子」と「奇跡の水」では、「みんな」の数の規模が違うかもしれないが、日常的に関わる人の大多数が信じていることであれば、原子を信じる気持ちと大差ないだろう。

また、水の効用を信じることで、当人たちが不利益を被ることはない。なにせ、水である。水中毒を起こすほど大量に飲まなければ、実害なんか生じようがない。確かに、普通の水よりは値段が高いようだが、それは「何にお金を使うか」の問題だ。「奇跡の水」に普通のミネラルウォーターよりちょっと高いお金を支払うのと、課金ゲームに万単位の課金をするのとでは、どっちが「不利益」だろうか。いや、そんな比較は無意味だ。「何にお金を使うか」というのは本人の自由であり、ゲーム中毒やアルコール中毒など、中毒になっていなければ、自分が良いと思うものにお金を使えばいい。

「奇跡の水」を信じる気持ちに違和感を覚える人は多いだろうし、もちろん僕自身もそうだが、しかし、それを信じる行動原理と、僕らが原子の存在を信じる行動原理とは、こうして比較してみるとほぼ差はない。

では何故、「原子」はOKで「奇跡の水」はダメなのか。これは要するに、「科学」は信じて大丈夫で、「科学ではないもの(あるいは「科学には見えないもの」)」はダメなのか、ということだ。というか、「科学」と「科学でないもの」の差はどこにあるのか、ということだ。

僕は一応理系で、この手の話が好きなので、この違いを説明できる(つもりだ)。しかし、こうしたことについて思考を巡らせたことがない人は、この差をきちんと説明することは出来ないだろう。そして、それが出来ないということは、「奇跡の水」を信じる人を無闇に非難すべきではない、ということでもあるのだ(もちろん、大前提として、「奇跡の水を信じている人が、他人に特段の実害を生じさせない」という条件は必要だが)。

「科学」と「科学でないもの」の差は、大きく2つある。「再現性」と「反証可能性」だ。

「再現性」というのはわかりやすいだろう。科学は最終的に実験によって正否が決まる。そして非常に重要なのは、その実験が「誰がやっても同じ結果になる」ということだ。これが「再現性」だ。誰かがやってある結果が出ても、別の人がやって同じ結果が出なければダメだ。また、メチャクチャでかい実験施設を使うなど、複数の実験結果を比較できない場合は、その実験施設でハンパではない数の実験をくり返し、99.9999%同じ結果が出ないと、正しいとは認められない、という明確なルールがある。このように、「その実験結果を再現できるか?」ということが1つ目の基準だ。

もう一つの「反証可能性」はちょっと難しい。これは実験ではなく、理論の方に適用される。「反証可能性」というのは要するに、「この理論は、◯◯だったら間違いですよ」ということも併せて提示する、ということだ。これが科学に必須なもう一つの要素である。

例えば、超能力者と名乗る人物がいて、「目の前の伏せられたカードを透視します」と言って、カードを次々に透視していけば、それは「科学」の範疇の可能性がある。しかし、前述の通り、99.9999%成功しないといけないので、100万回やって1回しかミス出来ない、ということだ。そこまで行けば、科学的に正しい、と言える。もちろん、途中で2回以上失敗すれば、それは「科学ではない」ということになる。これが「反証可能性」がある、ということだ。

しかし、その超能力者が透視をミスした時、「この部屋の中に私の能力を疑う者がいる。そういう者が近くにいる場合、私の能力は適切に発揮されない」と主張したとしよう。さて、この場合、この超能力者が「本物ではない」と証明される可能性はあるだろうか?仮にミスをしたとしても、「それは私の能力を疑う者がいるせいだ」と言えばいいのだから、この超能力者が「本物ではない」と証明されることはない。これが「反証可能性」がない、ということである。

科学の理論はすべて、「反証可能性」を備えている。つまり、「もし実験や観測の結果、◯◯だったら、私の理論は間違いです」という主張を含んでいなければ、それは「科学ではない」と言っていい。科学の歴史というのは、それまで正しいと思われていた理論を覆してきた歴史であり、当然、今正しいとされている理論も、「将来、間違っていると判定される可能性を有する理論」として存在している、ということだ。

この「再現性」と「反証可能性」が、「科学」を下支えしている本質だと言っていいし、「科学」と「科学ではないもの」を決定的に分けるものだと言っていい。僕は、一応このようなことを理解しているので、「原子」の存在は信じているけど、「奇跡の水」の存在は信じていない、という主張をしても、ブレることはない。しかし、「科学」と「科学ではないもの」の違いを明確に理解できていない場合、「原子」は信じて良くて「奇跡の水」を信じるべきではない理由を明確に捉えることは困難だろう。

そして、僕が思う何よりも重要なことは、仮に「奇跡の水」を信じていなくても、それを信じている人を批判していい理由にはならない、ということだ。少なくとも、「奇跡の水」を信じている人からの特段の実害がないのであれば(「特段の」と書いたのは、「奇跡の水」を信じていようがいまいが、他人同士が関わる場合、どうしたって不愉快なことは起こるだろうから、そういう、どんな人間関係にだって存在しうる不快感みたいなものは除く、という意味だ)。

この映画では、「奇跡の水」を信じる両親も、その娘である主人公も、周囲に対して特段の実害を与えているようには見えない。もちろん、主人公は、客観的に見れば「両親のせいで、貧しい不遇の環境にいる」ように見える。しかし、本人がそう感じていないのであれば、他人が勝手にとやかく言うことではない。母親の兄を勧誘しているような場面はあったが、無理やり引き込もうという感じでもなかったと思う。

とはいえ、僕ももちろん理解している。オウム真理教のような例もある。詳しくは知らないが、オウム真理教も途中までは、特段他者や社会に対して実害を成すような集団ではなかったはずだ(もちろん、入信した信者と、その家族との間のトラブルというのはずっとあっただろうけど、それは入信した本人の意思の問題だからとやかく言えないと僕は思う)。とはいえ、オウム真理教は突如、日本犯罪史に残るほどの凶悪な組織へと変貌した。「何かを熱狂的に信じる集団」には、”現時点で”実害が存在しなくても、それが未来永劫そうであるかは分からない、というのは確かにその通りだろう。今実害がないからと言って、安心していい理由にはならない。

でも、そういう主張が出てくる度に僕が感じることは、「犯罪者のほとんどは初犯なんじゃないか」ということだ。もちろん、出所して再度罪を犯す者も多々いるだろうが、犯罪者の大半が、それまで犯罪など犯したことがなく、犯す様子もなかったような人ではないかと思う。だから、「何かを特別信じる人たちが、いずれ実害を成す集団に変化するかもしれない」という危惧を抱くのであれば、同じレベルで、「自分の身近にいるどんな人であっても、犯罪者になる可能性がある」という危惧を抱かないと整合性が取れないように僕には感じられるのだけど、どうだろうか。

というような感じで、映画の内容そのものとはほぼ関係ないようなこんな思考を、映画を見ながら頭のどこか片隅でずっとぐるぐるさせていた。分かりやすい正解も、納得感のあるラストも取り入れず、違和感を最後の最後まで違和感のまま終わらせるという、なんとも言えないざわつきを残す作品で、正直ラスト、エンドロールが始まった瞬間、「嘘!?終わったー」と小声で口に出してしまった。

内容に入ろうと思います。
ちひろは生まれた時、全身に湿疹だらけで、母親が日記に「もうどうしていいかわからない」と書くほど思いつめられていた。そんな時、父親が会社の同僚から聞いたのが「金星のめぐみ」という水だ。特別な力を持つというその水を使ってちひろの身体を拭くと、みるみる湿疹は良くなっていった。以来ちひろの両親は、「星々のちから」というグループの商品を買う“信者”のようになっていく。
15年後。中学生になったちひろは、新しく赴任した数学教師・南隼人に恋をしてしまう。授業中ずっと、先生の絵をノートに描くぐらいで、周囲も「ちひろは南先生のことが好き」と知っている。しかし、女子テニス部の顧問になるという南先生を追いかけようと入部を希望するも、既に三年生のちひろは入れるはずもなく、数学の授業以外に接点はないままだった。
ちひろは、「金星のめぐみ」を学校に持って行って飲み、両親の”信仰”についても傾倒するほどではないが受け入れていた。集会や研修旅行にも顔を出し、そこに友達もいる。ちひろの両親の”信仰”のことを知った上で仲良くしてくれる友達もいるし、ちひろ自身はその”信仰”に思い悩む機会はなかった。
しかしある日、委員会の仕事で遅くなった際、友人らと共に南先生の車で家まで送ってもらうことになり…。
というような話です。

これは難しいなぁ、と映画を観ながらずっと思っていた。

これまでの人生で、「両親の影響で自身も宗教に関係している」と明確に分かる何人かの人と出会ったことがある。正直、不愉快さを感じることはなかったと記憶しているし、僕自身はそういう宗教的なものにはどうしても親和性が抱けないのだけど、それを信じている個人をそれだけの理由で否定するような思考にはならなかったと思う。けど、大人になってから自らの意思で「信じるもの」を選ぶならともかく、両親がそれを信仰していたというのが理由の大部分を占めているだろう状況は、なんとも言えない難しさがあるよなぁ、と思う。これについては、「洗脳」と「洗脳ではない」の差が明確に理解できていないことによる難しさだと思う。両親の信仰が子供に与える影響を、明確に「洗脳ではない」と言える自信が、僕にはない。

僕の個人的な感覚で言えば、さっきの「反証可能性」とはまた別の話だが、「自分が間違っているという可能性」を抱けない人を、基本的には許容出来ない。それは、宗教だろうがそうじゃなかろうが関係なしにだ。色んな場面で僕は、「あぁ、この人は、自分が間違ってるなんて可能性を1ミリも抱いていないんだなぁ」と感じさせられる。一番分かりやすいのが、あおり運転の映像を見た時だろう。あおり運転に至った経緯がどうであろうとも、「危険な運転によって相手を懲らしめてやろう」という発想は、僕にはさっぱり理解不能だ。僕の価値観では、どんな理由があれ、あおり運転をする人間が100%悪いのだが、しかしあおり運転の映像を見る度に、この人達は自分が悪いなんて1%も感じていないんだろうな、と思う。そういう人とは、関わりたくない。

それと同じ感覚で、宗教であれなんであれ、何かを熱狂的に信じている人というのも苦手だ。そういう人に対しても、自分が間違っているという可能性をまったく抱いていないんだなぁ、と感じることが多いからだ。そういう意味で僕は、ちひろの両親のことは嫌いだ(宗教的なものを信じているからではなく、自分が間違っている可能性をまったく抱いていないだろう、という意味においてだ)。

ただ、ちひろの両親が悪い人ではない、ということも明確に理解できる。ここが難しいところだ。あおり運転の場合は、相手が悪い人だということが明確だから、自分の中で怒りを向ける正当性を確保できる。しかし、ちひろの両親は、「自分が間違っているという可能性に思い至れない」だけで、基本的にはとても良い人だ。それは、「星々のちから」のメンバー全員に対して当てはまることだろう。基本的に、「悪意は無い」という意味で、良い人だ。

しかし時に、「悪意の無さ」が悪い方向に転ぶ場合がある。「信者」や「熱狂的なファン」と言った人たちの行動に、そういう状況を感じることがある。たとえば、あるアイドルがテレビに出た際の扱いについて、熱狂的なファンが「もっと良い風に取り上げてほしい」「あんな風に映すなんてサイテー」と、あくまでアイドルのための思ってSNS上に書き込みをしたとして、しかしそれらはテレビ局の人から、「あのアイドルを使うと番組にクレームが来るし、炎上するな」と思われてマイナスの効果を生むかもしれない。「悪意の無さ」も、良いことばかりではない。

なんてことを書いてるとあーだこーだずっと書き続けてしまうけど、とにかく、「何かを信じる」とか、「あることが当たり前の世界に存在する」ということの怖さ、難しさ、離れがたさみたいなものがじわじわと滲み出てくる作品で、最初から最後まで、なんともいえない居心地の悪さみたいなものをずっと感じさせられた作品だった。観る人によって作品の見え方そのものも大きく変わるだろうなと思うし、非常に印象的な映画になった。

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