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【本】重松清「カシオペアの丘で」感想・レビュー・解説

これほどの物語を前に、一体僕は何を言うことが出来るだろうか。

僕は、ゆるしを得たいと思うことはなかなかない。


出来ることなら、許されたくないとも思う。


何かが起こってしまったら。何かとてつもないことが起こってしまったら。

大したことでなくてもいい、誰かに謝ってゆるしを求めなくてはいけない状況があったとしよう。


僕は一体どうするか。


なるべくならば、謝りたくないのだ。


ずっとそう思って生きてきた。


もちろん、何かしてしまったら謝る。これまでだってもちろん謝ってきた。

その度に許されてきたのかどうかは知らないが、しかしもちろん謝らないわけがない。


ただ、謝りたくないのだ。


違う、そうではない。


許されたくないのだ。


許されてはいけない、と思ってしまうのだ。


恐らくこの考え方は間違っているだろう。間違っているだろうけど、でも僕を支配しているのだ。


謝ること、許されることは、何かを消してしまうことだ。誰かの存在を、誰かの気持ちを、誰かの安心を、誰かの不安を、誰かの夢を、誰かの希望を、誰かの何かを。


誰かの何かを消してしまうのだ。


謝ることで、許されることで、それが消えてしまう。


僕は、そんな風に考えてしまうのだ。


何でもいい、例えば僕が誰かを傷つけてしまったとしよう。物理的なものでなくてもいい、言葉で傷つけたというのでも構わない。


もちろん謝るだろう。謝らなくてはいけないとも思うだろう。と同時に僕は、ずっと責められたいと思うのだ。責められ続けたいと思ってしまうのだ。


相手が僕のことを恨んでくれる方がいい。僕は、それで救われる。簡単に許されてはいけないと思ってしまうのだ。


僕が謝ることで、相手に負担を強いるのではないか、と思ってしまうのだ。謝っている僕のことを、許さなくてはいけないという風に強いることになるのではないか。本当は僕のことを恨みたいのに、謝っている人間を恨むのはなかなか難しい。そんな気持ちにさせてしまうのではないか、と思うのだ。
考えすぎ、だろうか。


考えすぎ、なのだろうと思う。


それでも、と僕は考えてしまうのだ。


謝られることは、負担ではないのか、と。


人を許さなくてはいけないのは、負担ではないのか、と。


僕なら、はっきりいって負担だ。


謝られたくもないし、ゆるしたくもない。


何かあれば、人を責め続けたい。その気力がなかったとしても、責められるだけの場所に立っていたい。


おかしな考えだろうか。


酷い人間だと思うだろうか。


謝ることが善だと思われている。それは、正しいことであると思われている。


そうだろうか。


本当に、そうだろうか。


許されることを望んではいけないのではないだろうか。


安易に謝ってはいけないのではないだろうか。


謝罪を積み重ねた先に残るものは確かにあるかもしれない。長い時間の先に届く場所は確かにあるのかもしれない。


それでも。


僕は、謝ることは悪であると言いたい。間違ってることだと言いたい。


間違っていることを自覚して謝るのならば悪くはないかもしれない。しかし、正しいことをしているのだと思って謝るのは卑怯だと思う。


罪は、許されるべきではない。
罰は、軽くなるべきではない。


抱え続けなくてはいけないことは、ある。


だから僕は。


なるべく間違ったことをしないようにしようと思って生きている。


なるべく謝らなければならないことをしないようにしようと思って生きている。


その上で。


もし間違ってしまったとしたら、間違っていることを自覚しながら謝ることだろう。


そろそろ内容に入ろうと思います。


小学五年生のある日。ボイジャー1号と2号を見るために、僕等はある丘に集まった。「カシオペアの丘」という名前をつけたのもその日だった。
トシ・シュン・ユウ・ミッチョの四人。
いつかここが遊園地になればいいのにね―。
結局ボイジャーは見つけられなかったが、代わりに満天の星空に感動した僕等は、そんな夢を語り合った。


長い年月が過ぎた。


四人の人生には直接には関係ない、しかし最終的に四人を「カシオペアの丘」へと呼び寄せることになる悲しい事件が起こった。


東京のある街で、小さな女の子がデパートで死んだ。殺されたのだった。
その1年前、その家族は北海道のある遊園地を訪れていたのだ。「カシオペアの丘」に本当に作られた遊園地だった。そこでは、車椅子での生活になったトシが園長に、トシの奥さんに納まったミッチョがウサギのぬいぐるみを被っていた。楽しそうな女の子だったと、二人とも覚えていた。


ユウは東京でテレビの製作会社で忙しく働いていた。その女の子の事件を担当することになって、「カシオペアの丘」へ取材に行くことになった。
シュンは、病院にいた。検査の結果を知らされたのだった。
ガン、だった。


まさか、と思った。まさか自分がガンになるなんて、と思った。どうして自分がガンにならなくてはならないんだ、と思った。
その病院で、「カシオペアの丘」の映像を見かけた。その時、ふと思った。もう会うことはないと思っていたトシとミッチョに、自分がガンだってことを知らせようか…。


四人は四人とも、小学五年生の頃とは考えられないほどいろんなものを背負って生きてきた。許されない思いや屈折した感情がいつまでもしこりのように残り続けてきた人生だった。
四人が、「カシオペアの丘」に、そして死んでしまった少女に呼び寄せられるように集まった。


ゆるしを求める人間とゆるしを受け入れる人間とゆるしなんかそもそもないと言い切る人間と―。
四人の人生が、静かに、そして大きく動き出す…。


というような物語です。


すごい物語でした。もう全編のほとんどで泣きっぱなしでした。これほどに感情を揺さぶられる物語も本当に久しぶりだと思った。間違いなく、現時点で今年No.1の小説である。


僕には嫌いなタイプの小説というのがあって、それは、安易に登場人物を病気にする小説である。とにかく病気にしておけば泣くだろう、というような物語は最低だと思うのだ。


ただ、この物語はそんな薄っぺらいものとはまるで違う。


この物語では、シュンと呼ばれる男がガンに冒される。これが小説のメインのストーリーになっていくわけだけど、これが圧巻である。人の死というものを安易に扱っていないのはもちろんだけど、その死に直面する人々を真摯にリアルに、それでいてやりすぎない程度にあっさりと描いているその距離感みたいなものが感動的だ。もう本当に、すごいとしか言いようがないのだ。


この物語を読んで僕が一番に思ったのは、シュンというのは幸せだな、ということである。


死を前にして、あれだけの人々が集まる。シュンという一人の人間を取り囲む。死を目の前にした人間を労わる。それが、僕には羨ましいと思えてしまった。


僕は、自分が死ぬ時は一人だろうと思っている。結婚しようがしまいが、今後どんな人生を歩もうが、僕には死に際して集ってくれるような人々の存在を想像することが出来ないのだ。


だから、シュンが羨ましい。たとえガンになって人よりも早く死ぬことになってしまっても、羨ましく思えてしまうのだ。


それは、リリー・フランキーの「東京タワー」を読んだ時もそう思った。死を前に、その人の前に人が集まる。それは、すべての人が必ず味わえるわけではない、恵まれた人間だけに許されることだろうと思うのだ。


不謹慎かもしれないが、だからシュンには羨ましいと感じてしまった。


また、出てくる人々が本当にいいのだ。幼馴染みである四人はもちろんであるが、それ以外にも出てくる人々が本当にいい。殺されてしまった女の子の父親である川原さんや、リポーターだったのに幼馴染み一行と深く関わることになったミウさん、「倉田」一族を牛耳ってきた倉田千一郎など、出てくる人間がとにかくいい。死に関わるだけではなく、幼馴染み同士の微妙な確執であったりとか、過去の様々な思い出が交錯し、そこにあらゆる人々が取り込まれていく。その中で、誰もが新たな道を目指し、そこを歩き出せるように人生を修正していく。その過程が、心を打つ。


さてその中でも僕がもっともいいと思ったのが、ユウこと雄司だ。


僕は、雄司みたいな人間になれたらいいな、と思ってしまうのだ。


雄司は、いつだって損な役回りだ。誰かが喧嘩をしていればおどけたことを言って仲を取り持ち、誰かのためになると思えば批判も受け入れてそれを実行してしまう。


誰もが、雄司を優しいと言う。子どもっぽいし馬鹿で単純だけど、でも優しい。


決して雄司は主役にはあんれない。いつだって誰かの陰に隠れながら、でも誰かのためになるように必死だ。いつだって誰かのことを考えて、自分のことを後回しにしている。


僕も、自分は絶対に主役になれないと思っている。誰かより上に行くことも、誰かと張り合うこともきっと出来ない。でもだからこそ、雄司みたいな人間になって、誰かをきっちりと支えられる人間になれたらいいのにな、とか思ってしまう。まあ、無理だろうけど。雄司は結構偉大である。


他にこの物語について何をどう語ればいいのか僕には分からない。とにかくすごいし多くの人に読んで欲しい。ありとあらゆる感情が揺さぶられるのではないか、と思うのだ。


大人になれば、いろんなものを背負っていかなくてはいけなくなってしまう。背負うものは人それぞれで、誰だってそれを軽くしてあげられはしない。そんな世の中で、北海道を舞台に、幼馴染みが集まって互いの背負っているものを確認する。あるいは、背負ってきたものを。人生の中で確かにこういう一瞬があるのかもしれないし、またないのかもしれない。けど、贖罪にぶち当たることは、短くはない人生の中できっとあることだろう。


それでも、今を生きるしかないことを再確認して、人々はまたそれぞれの地に戻る。寄り添うことになった一瞬は、決して続くことはない。


背負ってきたものを下ろすのが死であるとすれば、人の一生はあまりに長い。背負ってきたものを下ろせずに死ななければならないとしたら、その人生はあまりにも短いだろう。


こうしてとりとめのないことをいろいろと考えてしまう物語だった。とにかくすごいし本物だ。本物の物語がここにある。是非とも読んでください。年に一冊しか本を読まないという人は、是非この本を読んでください。それぐらい、すごいです。読むべき本だ、と言ってしまっても言いすぎにはならないだろうと思います。是非読んでみてください。


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