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「倍速視聴」「10秒飛ばし」で動画を観る人の”発想”が好きじゃない

僕はYoutubeを観ることはほとんどないし、映画は映画館で観る。ネットで「なんらかの動画」を観る機会はほとんどない。周りの人間ともあまりそういう話をしないので、この文章はネットで読んだ記事を元に書いている。

なんとなく知ってはいたが、今の時代、ネットで動画を観る時には「倍速にする」「『10秒飛ばし』という機能を使う」というのが当たり前のようだ。「つまらない」と感じる部分を飛ばし、「観たい」と思う箇所だけつまみ食いするような観方が割と当然のスタイルのようになっているという。

さてこの「倍速視聴」について文章を書こうと思うが、先に僕の結論を書いておこう。僕は、「『倍速視聴』『10秒飛ばし』で動画を観る“行為”そのものは別に問題ない」と考えている。重要なポイントは”行為”という点だ。そして、僕がこの記事で指摘したいのは”発想”についてである。

「倍速視聴」をする人の動機には様々なものがあるようだ。僕が読んだ記事は以下の記事だが、「コスパのため」「感情を揺さぶられないため」など色々挙げられている。

で、僕がこれらの「動機」を読んで感じたのは、「視聴している動画を『情報』だと捉えている」ということだ。

例えば、「特に興味はないけど、周りの話題について行くために観ないといけない」とか、「大学の講義は飛ばして観る」などの意見はまさに、自分が観ている動画を「情報」だと思っている証左だろう。そしてそれが「情報」であるならば、「いかに効率よく取り込むか」が最優先になるのだし、その手段として「倍速視聴」を選択するのは非常に合理的だと思う。だから、「『情報』を効率的に収集するための”行為”」という意味で、「倍速視聴」を別に悪いとは思わない。

また「何を『情報』と捉えるか」も人それぞれだと考えている。僕は映画やアニメはすべて「作品」と思っているし、「情報」だと感じることはない。しかし、先ほど紹介した記事では、「社会派の映画は飛ばすが、ジブリ映画は飛ばさない」という意見が載っていた。映画やアニメの中でもさらに「作品」「情報」が細分化されている、ということだ。

正直、「映画・アニメはすべて『作品』」と感じる僕からすれば馴染めない感覚ではあるが、しかしだからと言って悪いとは思わない。僕も誰かに「それを『情報』と捉えてるの?」と思われるような判断をしているかもしれない。その辺りの「判断の価値観」みたいなものも、別に問題だとは思わない。

では何を問題と感じるのか。それは「すべての動画を『情報』と捉える”発想”」だ。そういう人が実際にいるのかどうか、それはよく分からないが、僕が「倍速視聴」に対して感じる本質的な問題はまさにこの点にある。

「これは『作品』、これは『情報』」という判断を自分なりの基準で行っているのであれば、「自分が『情報』だと判断したものを効率よく取り入れるための『倍速視聴』」という発想であり、これは合理的な行動だと感じられる。しかし、「すべての動画は『情報』だ」という発想は根本的に違う。この場合、「『情報』を効率よく取り入れる手段」という点よりもむしろ、「それがどんな動画であろうが効率よく取り入れればいいという発想」にこそ視点が向いてしまう。そして、「それでいいんだろうか?」と感じてしまう。

これは決して「動画」に限らない。音楽でも文章でも何でも、それらすべてを「情報」としか捉えていないような”発想”に出会うことがある。割合はともかくとして、一部を「情報」と捉えるのは、情報が死ぬほど存在するこの現代社会に生きる以上当然のスタンスと言える。しかしやはり、「すべて」を「情報」と捉えてしまうのは間違っているように思う。

世の中に存在するものをなんでも「情報」と考えてしまえば、必然的に「自分にとって役立つ情報」「自分に必要だと思える情報」をどう手に入れるか、という発想になってしまう。そしてそれは、「『そのもの』に触れる以前に『役立つ』『必要』という判断をしなければならない」という考えに繋がるし、それが様々なランキング・レビューサイトの需要を生んでいるのだろう。

僕はそれがなんであれ、「他人の評価を知らずに触れ、自分自身で評価する何か」を手放してはいけないと思う。娯楽でも食でも旅でもなんでもいいが、自分以外の誰かの評価には関係なしに、自分がどう感じるかだけで関わる領域は残しておくべきだとっているのだ。

例えば、映画や本はレビューやランキングで選ぶが、食だけは自分の足で調べる、とかでも別にいいと思う。正直今の時代、レビュー・ランキングに一切頼らないというのもかなり困難だろう。

しかし、どんなものにもそのようなマインドで臨んではいけないと思う。

そして、「すべてを『情報』だと捉える人」はまさにそのようなマインドで世の中と対峙するだろうし、僕にとっては「倍速視聴」がその象徴的な行為であるように感じられる、というわけだ。

そういう意味で僕は、「倍速視聴」に対して違和感を覚えてしまう。

さてもう1つ、「違和感」というよりは「もったいない」という感覚の方が強い話をしよう。それは、「『何かに触れる時間』というのは『考える時間』である」という話だ。

「検索すれば何でも分かる時代」に、「情報をたくさん知っていること」の価値はとても薄れたはずだ。もちろん、ある特定の分野に関して圧倒的な知識を持ち、検索するだけでは手に入らないような濃密な情報を提供できる人の価値は益々高まっていると言えると思う。しかし、いわゆる「物知り」みたいな人は、テレビでクイズ番組に出る機会がないような人にはあまり意味のある能力とは言い難いだろう。

そして、昔から重視されてはいただろうが、情報化時代に益々必要とされるようになったと感じるのが、「あなたはどう考えましたか?」という問いに答えられるかどうか、だと僕は思っている。

そして当たり前だが、「情報を取り入れる時間」が増えれば増えるほど「考える時間」は減っていく。「情報」は「思考」を誘発してくれないからだ。

「情報」は「部屋の片付け」みたいなものだと思う。様々な場所に散らばっている何かを、どう分類し、どうまとめ、どう取り出しやすくするか。「情報」はそんな「整理」が求められる。

「情報を発信する人」は、分類やまとめ方などを考える必要があるので、そこに「思考」が生まれることになるが、「情報を受信する人」は、「こんな風に分類・整理すればいいですよ」という結果だけを提示されるので、そこから「思考」が生まれることは少ない。もちろん、元々思考力のある人なら、得た情報を元に新たな思考を展開させることができるだろうが、思考力が乏しい人にとって「情報」は「思考を誘発するきっかけ」にはなり得ない。

だから、「情報ではないもの」に触れる時間が必要になる。他人の評価を知らないまま何かに接し、それに対して自分が何を感じ、どんなことを考えたのかということが大事だと僕は思っている。

「倍速視聴」をするということは、そもそもそれを「情報」だと感じているというわけなのだが、仮にそれを「作品」として捉えているのだとしても、「倍速視聴」をすることで単純に「思考時間」が短くなる。そしてそのことを、僕は「もったいないな」と感じてしまう。

恐らく今後も「情報」は増え続けるだろうし、そうなればなるほど「『情報』をいかに効率よく取り入れるか」という発想やサービスは増えるだろう。その流れから意識的に抜け出さないと、「情報ではないもの」に接する時間は無くなってしまう。

どれだけ時間を費やしたところで、「世の中に存在するすべての情報」に触れることはできない。だからこそこれからはむしろ、「どうやって『情報』の摂取を制約するか」という発想が大事になっていくのではないかと思っている。

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