【本】西川美和「永い言い訳」感想・レビュー・解説
人が死んで悲しいと思ったことがない。
と、僕は昔からずっと言ってきた。
それは、今でも変わらずに正しい感覚だ。
でも、少しだけ不正確でもある。
実際には、その人が死んでも悲しいと思わない程度に関係性を調整する、というのが正しい。
だから、悲しむのが当然の状況に置かれたくない、といつも思っている。
『理不尽な殺人などが起こるたびに、それまで他者に殺意など抱いたためしもなさそうな可憐な主婦が、テレビカメラの前で「極刑以外望みません」と強い口調で語ったりするのを見るにつけ、巨大な喪失がもたらす激しい動力を見たような気がして幸夫は圧倒され、被害そのものを恐れる以上に、被害者になるのは怖いと感じてきた。何かひどい目に遭った時、自分は彼らをはるかにしのぐ、桁違いの憎悪に狂う可能性を秘めているし、あるいは全くその逆もあるかもしれない。もし彼らのように迷いなく、真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れなかった場合、その先には何があるのだろうと考えると、それもまた恐ろしかった。』
凄くよく分かる、と思う。僕は、何かひどい目に遭った時、迷いなく真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れない自信がある。そういうことを求められると困る、と思うのだが、それを求められる状況に巻き込まれるかもしれない。それは嫌だな、と僕は思う。そういうことには、巻き込まれたくないな、と。
この作品では、対照的な二人の男が描かれる。一人は、作家であり、妻との関係はほとんど破綻しており、そしてその妻を亡くした男。もう一人は、長距離トラックのドライバーであり、二人の子どもを持ち、四人家族良好に暮らしていた男。この二人の男が共に、バス事故によって妻を喪う。
長距離トラックのドライバーは、妻を失った悲しみに暮れ、怒りや悲しみを全身から発し、支離滅裂ながらも聞いているものの心を動かさざるを得ない言葉で感情を露わにする。彼のあり方は、誰にとっても分かりやすいし、受け入れやすいし、当然だと思われる。普通の状況であれば許されないような言動であっても、怒りや悲しみの表出であると受け取れるものであれば、周囲はそれに対して理解を示す。
一方で作家の方は、長距離トラックのドライバーとは対照的な反応を示す。表向きは、「悲しみを押し隠しながらも気丈に振舞っている」という体を作りながら、その実作家には喪失感は何もない。悲しみが押し寄せてくるでも、怒りに溢れるでもなく、妻を喪う前とさして変わらぬ姿で日常を過ごす。
『火葬炉の扉が開かれて、中から焼かれたばかりの遺骨が出てくると、ぼくは自分でも予想外の同様をしてしまうのではないかとそわそわした。けれど、実際に平たい台の上に散らばったそれを目にすると、何だか急によく分からなくなってしまった』
多くの人は、この作家の態度を冷たい、異常だと捉えることだろう。いくら夫婦生活が破綻していたとはいえ(実際にそのことを知っている人間はごく僅かであり、つまり「いくら」という副詞は読者目線で書いている)、長年一緒に暮らした相手が亡くなったのだ。それなのに、涙も流さず、動揺することもなく、妻を喪う前と変わらない生活を続けられるのはおかしい、と感じることだろう。
世間がそう感じることは、僕にはとてもよく理解できる。しかしそれでも、僕はその作家の態度がむしろ自然なのではないか、と感じてしまう。
何故なら、人は、失った大事さの分しか、大事さを理解できない生き物だと思うからだ。
10の大事さを失えば、上限10までの大事さを理解できる。100の大事さを失えば、上限100までの大事さを理解できる。僕はそんな風に考えている。人生のどこかで100の大事さを失う経験をしていれば、その後100までの大事さが失われた時は、悲しみを感じることが出来るかもしれない。しかし、人生のどこかで10の大事さを失う経験しかしていなければ、100の大事さが失われた時、自分が一体何を失ったのか、正確には理解できないのではないか。僕はそんな風に考えている。
僕は、誰かが死んで悲しがったり泣いたりしている人は、「人が死んだら悲しい」という条件反射でそうしていると思ってしまう。転んだ時に咄嗟に手が前に出るみたいな感じで、「人が死ぬ=悲しい」という条件反射が発動しているだけなのではないかと思ってしまう。何が失われたのかきちんと把握できないまま、悲しいと思うべきだ、泣くべきだ、という無意識の選択によってそうしているように思えてしまう。
こういう考えは冷たく映るだろうし、そんなわけないと反論したくなる人もいるだろう。それが普通だと思うし、僕が少数派であることは理解している。でも、理屈で考えれば、失ったものが何なのかきちんと把握できていないだろう人間による「悲しみの発露」は、僕には違和感をもたらす。
この物語は、一人の男が、自分が何を失ったのかを永い時間を掛けて捉え直していく物語だ。彼はその喪失に、同じ喪失を味わった家族と関わることで気づくようになっていく。
長距離トラックのドライバー一家に、作家が関わるようになっていく。そこで作家は、自分がそれまでの人生で感じることのなかった感覚を抱くようになる。
『陽一にとってそうである以上に、この小さな友人たちにとっても自分の存在が命綱であるということが、何よりも幸夫を勇気づけた。他人からの毀誉褒貶ばかりを気にかけてきたこの十数年には手にしたことのない感覚だった。』
作家は、妻との関係の中で、自分自身の存在が求められるという経験をすることがなかった。いや、そう感じてもいい経験はあったかもしれないが、作家はそう捉えなかった。作家は作家としてデビューする前、10年近くも妻に食わせてもらっていた。自分にとってこそ、妻の存在は必要だった。しかし作家がデビューを果たし、人気作家になったことで、妻にとっての作家も、作家にとっての妻も、共に必然的な存在ではなくなっていった。お互いを必要としなくても生きていけるようになった。妻は、もともと必要とされていたはずの自分の存在が意味をなさなくなるという変化を悲しいと思った。しかし、作家の方には、そういう感覚さえなかった。作家には、妻から自分が求められていたという自覚がなかったのだから。
『もしも彼女が生きている間に、「夏子の人生にとって自分は不可欠だ」と盲目的にであれ幸夫自信が信じていたならば、そこには子供らに対して今抱いているのと同じ、甘美な充足があったのだろうか―。』
作家はそんな思考を巡らす。
作家は妻を亡くした時、自分が何を失ったのか理解できないでいた。実際、作家は、その時に手にしていた何かを失ったわけではなかった。作家が失ったものは、手に入るかもしれなかったという可能性だ。彼は、長距離トラックのドライバー一家と関わることで、自分にもあったかもしれない人生の可能性を知った。それは、亡くなった妻との間にはついぞ生まれることのなかったものだった。そのまま妻が事故で命を落とさなければ、作家はその可能性に永遠に気づかなかったかもしれない。
作家は妻を失うことで、自分がそれまでに手にしていたかもしれない可能性を失ったことを知った。しかし同時に、自分にそんな可能性があり得たのだという気づきを得た。恐らくその気づきは、妻を喪うことでしか得られなかった。結果的に妻の死は、作家にとってどんな意味を持っていたのか…。
様々な可能性を多層的に描き出しながら、何らかの結論に導こうとするでもなく、妻の死によって失ったものと得たものを確認する作家の姿が描かれていく。その姿は、条件反射で悲しんでしまう人間よりも遥かに誠実であるように僕には感じられるのだけど、みなさんはいかがだろうか?
内容に入ろうと思います。
衣笠幸夫は、あの有名な野球選手と同じ響きを持つ名前を子供の頃から恨み続け、ついに作家としてデビューして以降は「津村啓」というペンネームを得て、本名はごく親しい人にしか明かされなかった。出版社勤務を突然辞め作家を目指すという決断を快く受け入れ、美容師として働いて夫を支える妻・夏子は、夫である作家・津村啓がどんどん有名になるにつれて、自らの存在意義が失われていくような感覚を抱くようになる。夫婦の生活は、人知れず、しかし着実に破綻しており、しかしその現実から絶妙に目を逸らしながら、夫婦は夫婦としての形をかろうじて保っていた。
そんなある日のこと。妻は友人である橘ゆきとスキー旅行に向かい、その途中バス事故に遭い二人共命を落とす。妻が死んだ、という事実をどんな風に捉えていいのか分からない幸夫は、自分がちっとも悲しくないことに気づき、しかしだからどうということもなく過ごした。遺族会とバス会社との話し合いの場で、突然感情を高ぶらせた男を冷ややかな目で見て、自分の内側にはあんな感情はないと確認した後、幸夫はまさにその男から話しかけられる。
大宮陽一。妻の友人である橘ゆきの夫である。幸夫は陽一のことなどまるで知らなかったが、妻は大宮家で事あるごとに“幸夫ちゃん”の話をしていたようで、それから彼らの奇妙な関係が始まっていくことになる。
『ぼくは自ら夏子の世界を拒絶したのもかかわらず、夏子の世界の明るさに打ちのめされた。』
生前、もはやなんの興味も持たないでいた妻の姿を様々な形で知るにつけ、幸夫は、自分にとって妻というのがどんな存在であったのか益々掴めなくなっていく。環境が大きく変わってしまった中で、“被害者”や“悲劇の人”として見られつつ生活することへの違和感を転がしながら、幸夫は、やはり湧き上がってくる喪失感など感じ取れないまま毎日を過ごしていた。
彼の人生が大きく変わったのは、とある事情から大宮家で子供の世話をするようになってからだ。彼はその経験を通じて、妻を亡くしたことで自分が一体何を失ったのか、少しずつ掴みとることが出来るようになる…。
というような話です。
良い話だったなぁ。久々に、体中に染み渡る物語を読んだ、という感じがします。
本書は、単行本で出版された際、直木賞候補となり、本屋大賞でも4位になったようだ。それだけ評価されたということだ。しかし、どの点が評価されたのか、というとちょっと考えるのが難しくなる。
というのも、本書でメインに描かれる作家・津村啓(衣笠幸夫)の感覚は、世間の大多数を決して代弁しないはずだ、と思うからだ。
もちろん、幸夫が変化していく過程は読み応えがあるし、幸夫が最終的に辿り着く場所は多くの人を共感させるのかもしれない。しかし、幸夫の基本的な価値観は、とても多くの人に受け入れられるものではないと僕は感じる。僕自身は、身近な人間を喪ってなお悲しめない幸夫や、他者との関係性に格別意味や興味を見出だせない感じなど、凄く共感できる部分がある。僕の場合は、幸夫に対する共感に引きずられるようにしながら最後まで読んでしまった、という感じだ。しかし、こういう読み方は決してメジャーではないはずだ。だとしたら多くの人は一体本書のどこに惹かれて読み進めたのだろうか?そこが僕にはイマイチ掴みきれない。
幸夫に共感できる人間であれば、本書の様々な場面で見え隠れする、幸夫が物事を捉えるそのあり方に強く関心を抱くはずだ。
『時折頭皮に触れてくる夏子の指の腹は、二十年以上前とすこしも変わらず温かく、とろけるようだが、その温もりも柔らかさも、夏子の実際の心情とは全く別ものだということを、幸夫はすでに良く理解している。とにかく彼女は見上げたプロだ。家庭においてもそれは崩れなかった。一体いつから、こんなに気詰まりな関係になったんだろう。何においても、お互いの言うことは全て色あせて聞こえ、どんなに新しいニュースを持ち帰っても、とうの昔に聞き飽きた話にも劣るほど、退屈させてしまうのは、なぜなのか。わずかでもお互いの関心を持続できるような、さりげない会話の糸口が一つも見つからない。』
『自分がこれから先ずっと、「可哀想な目に遭った方」というレッテルを張られて生きて行かねばならないのかと思うと、自分の書くものの語り口にも制約がかかりそうで、それこそ被害甚大のような気がした』
『男の様子が真に迫れば迫るほど、彼は自分の中にあるものとの大きな隔たりを感じ、他の遺族たちのように、男と一体になって大声を上げたり、泣き出したりする気にはとてもなれなかった。』
『ぼくは人の親になれるような人間じゃない。「なんとかなるものさ」という他人の言葉は信用ならない。なんとかならなかったやつらがこんなにぞろぞろ居る世の中で、ぼくが「なんとかなる組」に入れる保証はどこにある?なんともならなかった時、「なんとかなるさ」と言った連中は、何をしてくれる?ぼくは子供が嫌いなんじゃない。そう信じている。ただ、「不幸な子供」の親にだけはなりたくなかったんだ』
すべて幸夫の価値観だが、僕はこれらすべてにかなり共感できる。特に最後の子供の話は、僕の感覚とまるきり同じと言ってもいいくらいドンピシャだ。しかしこれらは、どう考えても、世間的には受け入れがたい感覚ではないか。最初の「一体いつから、こんなに気詰まりな関係になったんだろう。」に共感できる人は多いかもしれないが、それ以外はどうだろうか。
もし幸夫に共感しているわけではなく本書を読み進めているのだとすれば、一体それを牽引する要素はなんだろう?読後そんなことを考えてしまったのだが、僕にはそれはうまく掴めなかった。
幸夫が大宮家と関わるようになって以降の物語は、それまでのトーンとはまた大分変わる。幸夫が少しずつ、しかし着実に変わっていく。自分がそれまでの人生で関わることのなかった「子供」という対象と関わることで、幸夫自身も驚くほどの変化がもたらされる過程は非常に面白いし、幸夫にとっての「あったかもしれない未来」を擬似的に経験する展開を違和感なく物語として提示する著者の力量はさすがのものがあると感じる。
しかし、当たり前と言えば当たり前のことを言うが、じゃあ幸夫と夏子の間に子供がいれば何か違ったのかと言われれば、もちろん何かは違っただろうが、必ずしも良い変化だったとは限らないだろう、ということは押さえておかなければならないだろう。
幸夫にとって大宮家の子供は、「最終的に責任を持つ必要のない対象」だ。幸夫はその子供たちをとても可愛がり、自分でも信じられないほど感情が揺さぶられもするが、しかしそれは他人だからでもある。たまに会う孫を可愛がる祖父母と同じような立ち位置であり、親としての責任を持たない場所から、自分が快適と思えることだけを子供に施すことが出来る幸夫の立ち位置は、子供との関わり方において一つの理想だと言えるだろう。
しかしそんな理想は、実際の子育ての現場ではなかなか姿を現さない。
『しかしそんなの通用しない。子供は母親のアイデンティティや、順調だった人生や、正当性なんて、ハリケーンのように横暴になぎ倒す。子供のいる生活に対して抱いていた明るい夢もろともに。』
これは幸夫の実感ではない。幸夫は、きっとこのことには気づいていない。幸夫がしているのは「子育て“風”」なのであって、決して「子育て」ではないのだ、ということに、幸夫は恐らく気づいていない。最終責任は回避したまま、子供たちにとって自分の存在が“命綱”であるような状況は、幸夫自身の言葉を借りればまさに「甘美な充足」と言えるだろう。だからこそ彼は、すべての終わりをもたらすあの日を迎えてしまうことになる。「甘美な充足」が失われかけた時、それを支える土台が不安定であることに気づかないまま突き進んでしまった結果だ。
『大宮一家には気の毒だが、幸夫にとって、この二日の灯や真平や陽一との久々の邂逅は、振り返るのも怖いほど甘いひとときだった。しかし甘い時間の過剰摂取は、人生を蝕んでいく。甘いものなど、食べなければ良かったと思うようになる。』
ようやく、幸夫の人生はスタートした、と言っていいかもしれない。自分が何を喪ったのか、そしてそもそも何を持っていなかったのかを理解した彼は、大宮家との一連の関わり方を経て、それまでとは違う人生を踏み出した。その紆余曲折が、人間の愚かさと共に見事に描かれている小説だと感じた。
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