【映画】「SCOOP!」感想・レビュー・解説

「仕事だから」という言葉で物事を割り切ることが苦手だ。

仕事に貴賤はない、という言葉を受け入れたいという気持ちは常にある。僕は、他人がどんな仕事をしていても、それが「仕事」と呼べるものであれば特に非難するつもりはない。「仕事」と呼べるか否かは、そこに需要があるかどうかだと思っている。需要があれば人を殺すことも仕事と呼んでいいのか、と自分でも思うように、決して需要のあるなしだけでは判断できないとはいえ、その仕事が成立する以上、どこかに需要が存在する。そうである以上僕の意識は、その仕事をしている人よりも、その仕事を成り立たせている、需要を生み出している人々に向く。仕事をしている人よりも、需要を生み出す人々を嫌悪したいと、基本的には考えている。

ただ、「仕事に貴賤はない」という言葉は、自分が仕事をする、という場合にはうまく適応出来ないでいる。

仕事をしている中で、「こんなことをしていていいんだろうか」と思うことは度々ある。それは、「仕事だから」という言葉で割り切るしかないものなのだし、割り切れないで残ってしまった余りは自分の中でどうにか処理していくしかないものだ。それは分かっているし、なるべく割り切ろうと思うようにもしている。

それでも、自分の中にモヤモヤしたものが残り続ける。

僕の意識の中には、こんな思いがある。これが僕のモヤモヤの正体なのだろうと、今のところは見当をつけている。

それは、「仕事が需要を増幅させているのではないか」という思いだ。

それがすべてではないとは言え、需要から仕事が生み出される、という大きな流れは疑いようがない。しかしそこからの展開は様々なものがあり得る。そのいくつもある可能性の中にある、「ささやかな需要によって生み出された仕事が存在するために、元々なかった需要が増幅されているのではないか」という不安が、僕の内側に根を張っているのだ。

これは、「良い需要」(良い悪いの判断基準は特に示さない。僕の個人的な好き嫌いと重なると思ってもらって構わない)の場合にはとても良い循環を生む。ほんの僅かな需要から仕事が生まれ、その需要が増幅されることで広まっていく、という流れはとても素晴らしいものだ。

しかし、同じことが「悪い需要」にも当てはまる。ごく僅かしか存在しなかったそういう悪い需要が仕事を生み出し、仕事が生み出されたことでその悪い需要が広く喚起される結果になることだって当然あるはずだ。

僕はその後者の流れが好きではない。もちろん、好きだという人はそう多くないだろう。それでも「仕事だから」という言葉で割り切ってそれをやらなければいけない人たちがたくさんいることだって頭では理解しているつもりだ。

それでも僕は、「悪い需要」の増幅装置としての仕事を自分がやる時に、「仕事に貴賤はない」と断言することができなくなる。

例えば、写真週刊誌は、とても分かりやすい例だろう。

写真週刊誌というものが存在する前は、「いくら有名な人であっても、プライバシーを覗き見するようなことなど出来ない」とみんな思っていただろう。いや、この表現は、「他人のプライバシーを覗き見出来る可能性」を前提にしているからおかしい。正しくは、「芸能人のプライバシーを覗き見するなんて発想は一切なかった」と書くべきだろう。

もちろん、僅かな需要はあっただろう。当時そういう名前で呼ばれはしなかっただろうがストーカーみたいな人もいつの世にもいただろうし、雲の上の人たちのことを知りたいと熱望する人だってきっといただろう。

そういうちょっとした需要を満たすようにして芸能人のプライバシーを暴くような写真が撮られ始めたのだろうし、やがてそれだけで構成される雑誌が生まれるようになっていったのだろう。

他人のプライバシーを覗くことは良くないと僕は思うので、これを「悪い需要」とここでは書こう。この「悪い需要」は、芸能人がプライバシーを撮られるようになった頃はまだ需要としてはそこまで大きくはなかったはずだ。しかし、写真週刊誌という仕事が生み出されることで、芸能人のプライバシーを覗き見したいという「悪い需要」は増幅されることになった。芸能人のプライバシーなど覗けるはずがないと思っていた人たちも、芸能人のプライバシーを覗いてくれる仕事が存在するお陰で、芸能人のプライバシーを覗いてみたい、という欲求が生まれるようになっていく。

映画の中で、「SCOOP」という写真週刊誌の専属カメラマンとして働いている都城静は、『ウチラの仕事ってマジサイテーですね』と言った、担当させられることになった新人に対して、『でも、だったら何で多くの人間がこんなもん見るんだよ』と返している。見たいと思っている人間がいるんだから、求めに応じて撮ってやってるだけなんだよ、という主張だ。

僕はどうしてもこういう主張には反論したくなってしまう。「見たい」と思わせているのは写真週刊誌の存在によるところが大きいはずだ、と。だから、「見たいと思っている人の求めに応じて撮っているだけだ」という主張は難しいのではないかと僕は思ってしまう。

もちろん、この話の難しさは、「良い悪いの判断基準」が存在しない、ということだ。結局それは、先程も書いたが、個々人の好き嫌いでしかない。芸能人のプライバシーを暴くことが何故悪いことなのか、明確に示すことは難しい。芸能人自身が撮らないでくれと主張することには意味はあるだろうが、何ら関係のない人間が「芸能人のプライバシーを写真に撮ることは悪いことだ」と主張しても弱いし説得力がない。「良い悪いの判断基準」を示せないのであれば、結局「悪いから止めた方がいい」という主張も出来なくなって、何も言えなくなる。

自分が会社を起こすなりして誰かに仕事をしてもらう状況であれば、僕自身の好き嫌いを基準にして「良い悪いの判断基準」を作ってもいい。しかし、誰かの元で働いている以上、その誰かの判断基準に沿う以外に出来ることはない。そういう中で、「仕事に貴賤はない」とどんな境遇でも断言できるような人間になれるのであれば、もう少し生きていくのが楽だったんじゃないかな、という感じもする。

内容に入ろうと思います。

都城静は、かつては「SCOOP」という写真週刊誌に所属するスターカメラマンだった。芸能ネタにかぎらず、ありとあらゆるスクープを連発する敏腕カメラマン。しかし今では、芸能ネタだけを追うフリーのカメラマン。芸能人のケツを追っかけているだけの中年パパラッチだ。
静は、「言われたものは何でも撮る」「俺が撮った写真を一番高く買ってくれるところに売るだけ」「俺は誰とも組まねぇ」という一匹狼タイプのカメラマンだったが、かつての相棒であり、現在では「SCOOP」の副編集長にまで上り詰めた横川定子が静にあることを強引に認めさせる。それは、「SCOOP」の新人である行川野火を同行させること。現場のカメラマンにつかせて記者を育てたい、という定子の依頼を、金で渋々引き受けることになる。
「この仕事はなぁ、99%何も起こらねぇんだよ」「カタギが寝てる時間に転がってるんだ、俺たちの食い扶持は」と野火を叱咤しながら、写真週刊誌の現場の仕事を体当たりで覚えさせる静。最初こそ「マジでサイテーな仕事ですね」と言っていた野火も、静と一緒にハチャメチャな取材を繰り返すことでその面白さに気づくようになっていく。最悪の出会いからスタートしたコンビはやがて、4人の女性をレイプして殺害した犯人の顔写真を狙うことになるが…。
というような話です。

想像していたよりもずっと面白い作品でした。ガチガチのエンタメ作品だと思っていたし、実際に途中まではそんなテンションの作品だったのだけど、最後ガラッと雰囲気が変わって、ちょっと泣かされてしまいました。この映画で泣くとは予想していなかったのでびっくりしました。映画を観ながら、「これ確かにエンタメ映画として面白いけど、でもこの映画、どうやって終わらせるんだ?」と思ってたんですけど、なるほどそうなるか、という展開になって、ただのエンタメ映画じゃない形になったので良かったと思いました。

映画の冒頭からしばらくの間はずっと、この感想の冒頭で書いたような「仕事ってなんなんだろう」ということを考えながら観ていました。ガチガチのエンタメ映画ではあるのだけど、写真週刊誌のカメラマンと記者を描くことで、「なんのために仕事をするのか」「仕事をすることでどうなりたいのか」みたいなことを自然と問いかける内容になった、と感じます。都城静(福山雅治)の乱痴気騒ぎとでも表現したい無茶苦茶な仕事とプライベートを観ながら、それに振り回される行川野火(二階堂ふみ)を応援したくなったり、自分が写真週刊誌に配属されたらどうするか、カメラマンだったらどうするか、みたいなことを自然と考えながら観る格好になりました。

読者が思うような葛藤は、映画の中でも映画の登場人物同士の衝突という形で描かれていきます。その衝突は、同じ副編集長という立場である横川定子と馬場の二人の対立という形で描かれます。

静を「SCOOP」に復帰させて、芸能ネタのスクープを次々にものにして部数を伸ばす定子に対して、今の「SCOOP」はグラビアでもっているんだ、読者はみんなグラビアが見たいんだと主張する馬場。グラビア路線に切り替えたから部数が下がったのだという定子と、芸能ネタはともかく、事件ネタなんか誰が読みたいんだと主張する馬場の対立は、殺人犯・松永太一の顔写真を撮るかどうかという議論で一層激しくなる。

『いつの時代の話をしてんだよ!
雑誌が反体制とかジャーナリズム背負ってた時代は終わったんだよ!』

馬場は編集会議でそう力説する。馬場も定子も、部数を伸ばしたいという気持ちは一緒だ。しかし考え方の方向性が違う。結果的に、彼ら写真週刊誌の仕事の成否は、部数でしか判断できなくなる。二人の副編集長の対立、そして新人である野火の主張、静の哲学。そういうものが入り混じりながら、松永太一の写真を撮るミッションが進んでいく。仕事とは何かを考えさせられる。

そしてさらに、最後の衝撃的な展開を経て、部数ですら仕事の成否を判定できないようなとんでもない状況が出現してしまう。僕らの現実にはそうそう現れることはない、人間としての矜持や哲学が求められる局面を観ることで、改めて「仕事」ということの意味やあり方について突きつけられる。野火が泣きながら原稿を書いているシーンは実に印象的だ。

「正しいこと」だけで物事をすべて割り切ることが出来ればとても爽快だ。しかし世の中は残念ながらそうはなっていない。濃度の差はあれど、「正しくないこと」でも物事を割らなければならない。最後、静と野火がしたそれぞれの決断は「正しいこと」だったのか「正しくないこと」だったのか。それを第三者が判定することは永遠に出来ない。それぞれが自分の内側で、それをどちらかに振り分けていかなければならない。そういう選択を幾度も強いることで、「仕事」が「生き方」を規定してしまうのだろう。そんな風に感じさせる映画だった。

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