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【本】森達也「A3」感想・レビュー・解説

とんでもない作品を読んだ。


繰り返す。


とんでもない作品を読んだ。


本書は、オウム真理教を内側から撮りセンセーションを巻き起こしたドキュメンタリー『A』から続く著者のライフワークのような作品。『A3』というドキュメンタリーも撮り始めていたものの、『A』『A2』があまりにも興業的にうまく行かず、文章にシフトせざるを得なかった、と書いている。


本書は、森達也が初めて、そして最後になるだろう麻原彰晃の裁判を傍聴したことがきっかけで始まった。カメラを持ち込めない裁判という場は自分のフィールドではないと感じていた森達也は、オウム真理教とこれまで関わりながら、麻原彰晃を一度も自分の眼で見たことがなかった。一審の判決が言い渡されるその裁判を傍聴した森達也は、強烈な違和感に襲われる。


この裁判は、異常だ。


麻原彰晃は、明らかに何らかの精神的な障害を持つ症状を呈している。同じ動作を反復するし、どうやらオムツもしているようだ。


しかし、麻原彰晃に対して精神鑑定が行われたことは、それまで一度もなかった。裁判所が退けているのだ。


そしてさらに、そんな麻原彰晃の状態を長年見続けながら、この裁判の異常性を書いたり言ったりすることのない記者やジャーナリストの態度にも、森達也は強烈な違和感を覚える。


これでいいのだろうか?


麻原彰晃を含め、オウム真理教関連の裁判では、事件に関して明らかになっていることがほとんどない。地下鉄サリン事件にしても、誰が指示を出し、どういう過程で事件まで至ったのか、まるで究明されていないのである。もちろん、森達也は、正常な裁判が行われても真相が解明される可能性は低いだろう、と書く。しかしそれでも、麻原彰晃を精神鑑定し、麻原彰晃に治療を施してから再度きちんと裁判を行うべきではないか。現在の麻原彰晃には、裁判を継続できるだけの能力はない、そういう風にしか森達也には見えない。


本書で森達也は、ありとあらゆる方向からの視点を提示する。しかし、本書で森達也が訴えようとしていることは、その核心となる部分はシンプルだ。

「オウムは特別だ、という理由で作られた様々な例外が、やがて前提に変化し、社会を変えた」

本書では繰り返し、そう訴える。歴史は、次々に上書きされる。メディアは、それを意識しつつ行う。司法は、それを見越した上で、通常であれば考えれれない超法規的措置を繰り返す。


森達也は、警鐘を鳴らす。僕たちがかつてどういう社会にいたのか、そしてそれをオウム真理教がどのようの変えてしまったのか、現在の社会はどうなっているのか。森達也は、思い出して欲しい、と訴える。


本書は、凄い内容だ。僕は好きでノンフィクションを結構読むのだけど、これまで読んだ中でも圧倒的な圧力と質量を持って本書は何かを訴える。森達也は、メディアにしても本にしても、完全な客観は存在しないと書く。本書も、森達也の主観から逃れることは出来ない。そして同時に僕は思う。本書をどう読むかも、読み手側の主観を逃れることは出来ない。本書を読んで何を感じるか。読む人によって大きく変わるのかもしれない。


本書で提起されている問題意識は、そのスケールの差は大きいけれど、僕が常に抱えている問題意識と相似形を成す。


僕が抱えている問題意識はこうだ。

「大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい、という社会の圧力が強調されすぎている」

僕は最近、常にこれを感じる。世の中のあらゆることに対して。それは、僕が働いている業界に対してもそう感じる。


『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』というのは、資本主義の社会で生きる上で、ある程度は仕方無いと思っている。何らかの形で支持を集めたものが需要され供給されるというのは、資本主義の社会の中では当然だろう。しかしそれが行き過ぎている。強すぎる。僕にはそう感じられて仕方がない。過去との比較は出来ない。本書で森達也が主張するように、オウム以前以後でそれが変わったのかどうか、今の僕にはそういう比較は出来ない。でも、僕が今日本の社会で生きている実感として、その強さはあらゆる場面で感じる。


これが僕には怖い。そしてその怖さは、本書で森達也が主張し、読者に考えるよう訴えているまさにその部分と重なる。


『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という社会では、次第に、『大多数の支持を獲得すること』が一つの目的になる。するとどうなるか。支持を獲得しようとする人は、『市民の考える力を奪う』『市民から情報を隠す』というような手段を取り始めるようになる。どんな手段を使ってでも『大多数の支持を獲得すること』が目的になるということは、そういうことだ。


現実に今の日本は、そういう社会になる。僕たちはどんどんと、自分で考える力を奪われている。メディアが恣意的な情報操作をすることで、情報が意図的に隠されてしまう。


僕は、そういう社会に生きている怖さを常に実感している。どんどんと、ヤバイな、と感じる状況になっていると思う。これは、犯罪とか司法とか原発とか、そういう大きな話だけではない。

僕は書店員だけど、書店という現場にいても、そういうことをよく感じる。『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という原則が、強力になりすぎていると感じてしまう。それが持つ危険性を把握する人間が減り(あるいは敢えて見ないようにしているだけかもしれないけど)、またそれへの反論を許さないような同調圧力を感じることもある。僕の妄想かもしれない。でも、僕はそう感じる。

本書を読んで、スケールも違えば、社会と深く関わる度合いの差も大きいのだけど、それでも、森達也が僕がずっと抱いてきた不安を、オウム真理教というテーマからこうして形にしてくれたというのは、僕には凄く安心できたし嬉しかった。


『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という社会のありようを、僕らは日々眼にしているはずだ。しかし、なかなかそれが意識されることはない。僕は時々この不安について話すことがある。でも、ほとんどの人には通じない。僕が正しいかどうかは分からない。

でも僕が言いたいことは、相手が僕の主張を認めてくれない、ということではない。相手が僕の主張を理解してくれない、ということなのだ。僕はそう感じる機会が多い。僕らの目の前には、本当に多くの実例があるはずなのに、それはなかなか視界に入ってこない。それも、怖い。


森達也はまえがきでこんな風に書いている。

『今はどうなのだろう。たぶん使命感についていえば、当時より少しはあるかもしれない。でもあったとしても「少しは」のレベルだ。基本的には変わらない。たまたま僕には、見えたし聞こえたのだ。見えたのだから見えると言うしかない。聞こえたのだから聞こえると言うしかない。知ったからには素知らぬ顔はできない。だってもしも目を凝らして、耳を傾けてくれれば、きっと誰もが気づくはずだと思うのだ。』

『さまざまな上書きが大量になされているけれど、目を凝らせばきっと見えてくるはずだ。耳を澄ませば聞こえてくるはずだ。そして思い出してほしい。考えてほしい。あの事件はなぜ、どのように起きたのか。彼と事件によって、この社会はどのように変わったのか。現在はどのように変わりつつあるのか。』


著者のこういうスタンスを始めとして、著者の考え方は僕は本当に好きだ。著者は、何かを押し付けないし、無理に議論はしない。主観を取り除くことなぞ出来ないと言ってドキュメンタリーやノンフィクションと関わる。何よりも僕が著者の態度で好きなのは、断定しないことだ。

例えばこんなシーンがある。ある事柄について、オウム真理教の信者の「ほとんど」はそうだと思う、という表現の後で、「すべてと書かないのは、すべての信者に会っていないからだ」と付け加える。こういうスタンスは、当たり前だと思うかもしれない。当然じゃないか、と。

でも、本書で描かれる様々な人たち(司法関係者やジャーナリストなど)は、その当然さをわきまえない。その厚顔さを、僕たちは無関心で許容する。そういう世の中になってしまっている。厚顔な彼らだけが悪なのではない。それを許容してしまう僕らも悪なのだ。そしてその変質の始点にオウム真理教が存在すると著者は主張する。

『なぜなら地下鉄サリン事件以降、主語を被害者に置き換えることで自由にものが言えなくなるこの傾向は、北朝鮮拉致問題などでさらに加速して、結果としてこの国の現状とこれからの方向に、とても歪で大きな影響を与えているからだ』

『オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意義が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。』

『でも同時に、言葉を失う自分を、僕は肯定する。なぜなら当事者の痛苦をリアルに感覚できない非当事者の後ろめたさをこの社会が忘れたがゆえに、加害者への嫌悪や憎悪が全面的に発動し、日本社会の変質は始まったと思っているからだ。』

本書は、「月刊PLAYBOY」で連載された。同時進行で変化していく状況を追い続けながらの連載で、先日森達也の話を聞く機会があったのだけど、この連載がどこに向かうか、どんな風に終わらせるか、連載開始時にはまったく構想はなかったという。


状況の変化をリアルタイムで追いかけながら、逮捕された教団幹部の面会に足しげく通い、かつて様々な形で麻原彰晃と関わった人たちへのインタビューを試みる。膨大な量の資料をひたすら読み込み、「正史」としてこれから残り続ける記述への膨大な矛盾点や整合性の取れない言説を指摘し、またかつてオウム真理教の報道がどのようになされ、それが何にどのような影響を与えたのかを指摘する。

麻原彰晃を別の視点から見ようとすればするほど、麻原彰晃という存在への多面性に翻弄され、麻原彰晃が変質させた社会の歪さに嘆息し、メディアが持つ宿痾について思考する。森達也の思考や感覚は、僕にはまっとうに思える。僕もきっと、麻原彰晃の裁判を見れば同じように感じるだろう。しかし、それは社会の中ではマイナーだ。恐ろしくマイナーだ。社会は、膨大な量の報道に圧倒され思考停止し、偏向した情報を信じて一体化する。

『それはこの社会の願望である。なぜなら、もしも彼らが普通であることを認めるならば、あれほどに凶悪な事件を起こした彼ら「加害側」と自分たち「被害側」との境界線が不明瞭になる。それは困る。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らは、邪悪で凶暴な存在であるはずだ。いや邪悪で凶暴であるべきだ。
社会のこの願望にマスメディアは抗わない。』

そしてこれは、司法も同じだ。

『ヒトラーは自殺した。だから戦後世界は、彼の言葉がないままにナチスを解析せねばならなかった。麻原は不在ではない。法定で語らせることができる。ところが今、まさしくその法定(裁判所)が、彼の言葉を封じようとしている。彼を放置してさらに壊そうとしている。でもこの国の多くの人は、これを異常なこととして捉えない。』

『確かに僕も、仮に麻原彰晃が正気を取り戻したとしても、法定の場で事件の真相が解明されるという全面的な期待はしていない。その可能性はとても低いと考えている。
でもだからといって、手続きを省略することが正当化されてはいけない。「期待できない」という主観的な術後が、あるべき審理より優先されるのなら、それはもう近代司法ではない。裁判すら不要になる。国民の多数決で判決を決めればよい。国民の機体に思いきり応えてやればいい。ただしその瞬間、その国はもはや法治国家ではない。
(中略)
誰かに適正な裁判を受けさせる権利を守ることは、僕らが公平な裁判を受けるための担保でもある。』

僕は恥ずかしながら、麻原彰晃の裁判について関心を持たずにいた。断片的な情報は知っていた。麻原彰晃が法定で意味不明な発言を繰り返している。弁護団が控訴趣意書を提出しなかった。そういう、細切れの情報は知っている。

しかし、それらは、まったく違った位相を持っていた。僕が持っていた漠然とした情報は、まったく別の見方の出来る多面体だった。本書では、その別の見方が提示される。麻原彰晃が精神的におかしくなっている可能性は知っていたけど、まさかここまでとは思わなかった。ある精神科医の引用の中で、非常にわかりやすい表現があった。

『わかりやすく言えばですね、訴訟中に胃潰瘍がみつかったと。そうしたときに放っておくかということですね。当然内視鏡を入れて出欠を止めないといけないですね。そういうことをするべきであるにもかかわらず、どうも裁判官が意味不明なことを言って頑張っている。そういう状態ではないかと思います』

控訴趣意書を提出しなかった経緯も、初めて知った。驚くべきことだった。まさかそんな経緯があるとは思ってもみなかった。普通に報道されたように、裁判を遅らせる法定戦術としてだと思っていた。


本書には、このような多面体がそこかしこにある。森達也は、断定はしない。多面体を多面体のまま提示してくれる。本書を読んで、初めて知ったことは山ほどある。これらが正しく報道されていないとするならば(そして本書を読む限り、やはりそれらは正しく報道されてこなかったらしいけども)それは明らかにメディアの暴挙だし、これらの情報が「正しい形で」(まあこれが非常に難しいのだけど)提示されれば、少なくとも今のような社会にはなっていなかったのではないか、という気さえする。

今のような社会に変質してしまった大元のきっかけを作ったのは間違いなくオウム真理教であるが、それを自分たちの都合のいいように利用し、意図的にせよそうでないにせよ社会をここまで変質させたのはメディアと司法なのだろう、という気がする。メディアと司法のあり方が変わったことで国民の意識が変わり、さらに国民の意識が変わったことでメディアと司法のあり方が変わるというフィードバックの関係。この現在進行形のスパイラルの中に、今僕たちはいる。


本書については、言及したいことが多すぎて、逆に書けない。麻原彰晃という質量を追いかける過程で、これほどの視点、これほどの多面体、これほどの価値観が提示されるとは、思ってもみなかった。考えさせられる、というレベルではない。今まで度の合わないメガネを掛けさせられていて、本書はそのメガネの存在に気づかせてくれるような、それほどの衝撃がある。自分が度の合わないメガネを掛けさせられていることに、なかなか気づくのは難しい。そんなメガネを掛けているから、視界には入っているはずなのに、見えないのだ。その恐ろしさを、本書は抉り出していく。


僕は、今の社会が嫌いだ。嫌いというか、怖い。狂っているとさえ思う。僕らはもう長いこと、これが常態と化している中で生きている。だからこそ、日常になってしまったこの社会そのものについて深く考えることは面倒臭い。この社会のありようを無自覚に受け入れる、前提とする方が楽だ。そうやって社会はより一層、危険な坂を転がり落ちていくことになる。


是非とも読んで欲しい。自分の思い込みを、自分の価値観を、自分の信念を、少しずつ疑おう。それは、あなた自身のものではないかもしれない。社会によって、もっと言えばオウム真理教によって、あなたの中にいつの間にか代入されただけの代物かもしれない。それを見極めよう。たぶん僕たちは、そうしなければならない。


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