見出し画像

「近づけないけど好き」が「近づきたくないけど好き」に拡張された「推し」の概念

僕は、いわゆる「推し」という概念は凄くよく出来てるよなぁ、と普段から感じている。

少し前に、「今の若者は、クラスメートや友人に『推し』がいる」という話を耳にした。「推し」というのは、少なくとも僕の感覚では、アイドルや芸能人、スポーツ選手に対して使うものだと思っていたので、まずはその感覚に驚かされたことを覚えている。

で、「これってどういう心境なんだろうなぁ」と考えた時に、「振り向かれたくない」「恋愛になりたくない」という感覚があるんだろうなという気がした。つまり、元々は「遠くにいる存在だから、振り向いてももらえないし恋愛にも出来ない」という存在に対して「推し」という言葉が使われていたが、それが「近くにいるけど、振り向かれたくもないし恋愛にもしたくない(でも好き)」という存在に転用されるようになったんだろう、と思っているのだ。

「振り向かれたくない」で言うと、パッと浮かぶのが「蛙化現象」である。「蛙化現象」は今、「好きだった相手のちょっとした言動に幻滅してしまう」みたいな意味で使われているが、本来は「好意を抱いていた相手から自分に好意が向けられた瞬間に嫌悪感を抱いてしまう」という心理現象のことを指す言葉だった。ここには、「自分が相手のことを好きなだけでいい」という感覚がたぶんあって、だから「振り向いてもらえたら、その状態が崩れてしまう」みたいに考えてるんじゃないかなと思う。もちろん、このような感覚の延長線上に「恋愛になりたくない」みたいな気分もあるのだろう。あるいは、「ぬい活」も割と近い感覚がベースにある気がしている。

で、そういう感覚になるのは結局のところ、「自分に焦点が当たってほしくない」みたいな気持ちが強いからではないかと思う。以前、友人の腐女子がBLの良さについて、「自分はその世界と全然関係ないから良い」みたいに言っていたのが印象的だった。例えば、男女の恋愛を描く物語の場合は、作中の女性登場人物に共感したり、あるいは嫌悪したりと、自分自身を何かと重ねてしまう。そしてそうなると、「私はこのキャラみたいに可愛くないし」「私はこのキャラみたいに上手く喋れないし」と「自分との比較」みたいな感覚がどうしてもついて回り、物語を純粋に楽しめないのだという。

しかしBLの場合は、登場人物は基本的に男だから、読者である自分(女性)は物語の世界観と全然関係ない。そしてだから、自分と比較したりすることなく純粋に物語を楽しめる、みたいな話だった。なるほどなと思う。

で、同じようなことは、リアルの世界でもあるんじゃないかという気がする。「恋愛」となると当然、自分にも焦点が当たるだろう。だから、容姿や性格みたいな「自分が持っている要素」が土俵にさらされてしまいもする。しかし、「推し」の場合は、「ただ自分が一方的に相手のことを好きなだけ」であり、自分には焦点が当たらない。「相手が振り向いてくれないこと」が大前提だからこそ、「自分がどういう存在であっても別に大丈夫」みたいに感じられるんじゃないかなと思う。

またそもそもだけど、「恋愛的な指標で自分のことを判断されたくない」みたいな感覚も強い気がする。誰かのことを「(恋愛的に)好き」という話になると、「そんなお前は、相手に好かれるような存在なのか?」みたいな視線を勝手に感じてしまうんじゃないかと思うが、「推し」という扱いにすると、そういう判断から遠ざかっていられるのだろう。またそもそもだが、「推し」という言葉を使うことで、「あなたのことを恋愛的には見ていませんよ」というメッセージとしても機能するような気もするし。

「自分に焦点が当たってほしくはない、でも誰かを好きになりたい」みたいな気持ちが「推し」という特殊な感覚への親和性を高めているように思う。「推し」という概念が発見されるまでは「他者との関係で気分が高揚する=(恋愛的に)好き」だったのが、今は「他者との関係で気分が高揚する=推し」みたいな感覚が先に来ていてもおかしくないよなぁ、と思ったりする。

また、「推し」という言葉にはもう1つ、「あなたの一側面が好きなんですよ」というニュアンスも込められている感じがして、その点も興味深いなと思う。

「(恋愛的に)好き」となると、「その人の人格まるごとすべて好き」みたいな話になるだろう。で、「そうじゃないんですよ」というニュアンスが「推し」という言葉には含まれているんじゃないかと思う。

例えばあるアイドルを推しているという人の場合、「ステージでキラキラしている◯◯君」のことが好きなのであって、同じ人物でも「ライブが終わって家に帰って缶ビールを飲んでいる◯◯君」を好きになれるかは分からない、みたいに思っていてもおかしくない気がする。若い人は特にそうだと思うが、場や状況によって自分の様々な顔を使い分けているはずなので、他者を捉える際にもこういう感覚が強くなるんじゃないかなと思う。

で、この感覚からも「恋愛にしたくない」という気分が説明できるように思う。「私が素敵だと思う◯◯君」が「私と一緒にいる時にも素敵な存在でいてくれるかは分からない」みたいな不安を抱いているのかもしれない。男友達と一緒にはしゃいでいる時の◯◯君はとても素敵なのに、私と一緒にいる時は全然違う振る舞いなんだとしたら、男友達と一緒にはしゃいでいる姿を遠目で見ている方がいいんじゃないか。こういう感覚が「推し」という言葉には含まれている気がするのだ。

なんてことを考えたりしていた。いやホント、「推し」という概念は、僕の解釈が正しければかなり捻れてて深淵でだからこそ興味深い。日本はなかなか面白い概念を言語化したものだなと思う。「推し」って、外国語に翻訳できるのかなぁ。「推し」という言葉を聞いた時に日本人の脳裏にパッと浮かぶ感覚を正確に表現するのは無理な気がする。

いいなと思ったら応援しよう!

長江貴士 サポートいただけると励みになります!