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【本】近内悠太「世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学」感想・レビュー・解説

メチャクチャ面白い本だな、これ!


僕はもう15年くらい、ずっとブログで本の感想を書いている。
そのブログについて以前、僕は何かの時に、「別に読んでもらいたくて文章を書いているわけじゃない」と発言したことがあって、それに対して、「読まれなくてもいい文章をどうして書いているんだ?」と問われたことがあった。その時には、まあそれっぽい理由を適当に答えたはずなんだけど、その理由の一端は、本書の「贈与」という言葉で表現できるかもしれない、と思った。

とはいえ、後でまた触れるが、贈与の差出人は、自分が差出人であることを明かした時点で、それはもう贈与ではなくなってしまうので、こういう文章を書くことは、あまり良いことではないのだけど。

【贈与は宛先に届かないかもしれない。
あるいは受取人が受け取っていることに気付いてくれないかもしれない―。
贈与にはそのような不安定な側面があります】

【祈りとは、贈与の差出人の「届いてくれるといいな」という倫理でした。
それは「届かない可能性」を前提とする態度です。
届くことがないかもしれないから、祈りながら差し出すのです。】

そういう意味で言えば、僕も届くことを祈っているな、と思う。

例えば、本を読んだ感想を誰かに直接話してもいい。SNSでフォローしてくれる人に向けて呟いてもいい。依頼があれば、新聞や雑誌の書評欄に文章を書いてもいい。
でもそれは、ほぼ確実に「届くこと」が分かってしまう。「届かないかもしれない」という可能性が非常に低い。

昔は、「確実に届くこと」を望んでいた時期もあったけど、今はちょっと違う。「届くかもしれないけど、届かないかもしれない」という感じがとてもいい。僕は、15年もブログを続けてきているくせに、アクセス数とかは別に全然高くない。コメントをもらう機会もほとんどない。僕が一方的に文章を垂れ流しているだけで、それに対する反応はほぼない。

そして、そういう環境だからこそ、「届いてくれるといいな」という祈りが成立する。

何故、「確実に届く」のではなく、「届いてくれるといいな」が良いのか。それは、「確実に届く」ものは、「交換」の論理に絡め取られてしまうからだ。

【「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと展示、その受取人の自由を奪います。手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それは直ちに返礼の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」へと変貌してしまいます。そして、交換するものを持たない場合、負い目に押し潰され、呪いにかかってしまうのでした】

本書には、「最近の若者は献血のコスパが悪いと考えている」という話が出てくる。ボランティアへの関心は高いのに、何故か献血は不人気だ。その理由を著者は、【自分の行為がどれくらい人の役に立っているのかが認識しにくいから積極的になれないということらしいのです】と書いている。これは、「感謝というレスポンス」を求めているということで、つまり贈与ではない。ボランティアという行為と、感謝というレスポンスを「交換」するという行為に他ならない。

「誰が」与えてくれたのかが分かってしまったら、そこにはどうしても「返礼の義務」が生じる。そして、そう思わせてしまえば、もはやそれは「贈与」ではなく「交換」なのだ、と著者は言う。

この理屈を回避するために生み出された有名人がいる。サンタクロースだ。サンタクロースは、「親」からのプレゼントという記号を覆い隠す。そして、「誰が」与えてくれたのか分からないものとして子供に届く。子供は、サンタクロースを信じている間は「交換」の論理に絡め取られないで済むのだ。

僕は、文章を書くという行為が「交換」の論理に絡められないようにしたい、と思っていう。文章を書くことで見返りをもらえることもあるが、少なくともブログで文章を書いている時は、それは「交換」ではない。僕は、少なくない時間を費やして、日々長々と文章を書く。目に見える見返りは特にはない。ただ、「誰かに届くかもしれない」という祈りを抱くことは出来る。そして、どこかの誰かがひっそりと、僕のブログを読んで、「こういう考え方もあるのか」「こんな面白い本があるのか」と思って、それでその人の人生がちょっとでも変わるといいなぁ、と思ったりする。

さてしかし、差出人として名乗らない、というだけでは「贈与」には足りない。贈与に参入するには、あるルール存在する。そのルールについて説明するために著者は、「ペイ・フォワード」という映画を引き合いに出す。

理由は分からないが他人から親切にされた新聞記者が、自分に親切にしてくれた相手に理由を聞くと、「自分も親切を受け取ったからだ」と言う。親切をしてくれた人にお礼をするのではなく、次に渡す(Pay it forward)という善意が連綿と続いているというのだ。記者はその人の流れを逆に辿り、ついに最初の人物を見つける。それが、トレバー少年だ。トレバー少年は、「ペイ・フォワードは自分が考えて始めた」とインタビューで答え、その直後に死んでしまう。

この結末を著者は、贈与論的に正しい、と解釈する。何故なら「贈与」というのは、「自分は誰かから過剰に受け取ってしまった」という感覚無しには始まらないからです。トレバー少年は、自分は誰からも受け取っていないのに「贈与」を始めてしまった。だからこれは、「贈与」ではなく「供犠」であり、「ペイ・フォワード」というのは「贈与の失敗」の物語なのだ、と著者は言う。

僕も、本の感想を書いているのは、自分が本に救われたという感覚があるからだ。本だけがすべてではないけど、適切なタイミングで適切な本に出会うことで、人生が救われることがある。僕はこれまで、本を読んで様々なものを受け取ってきた。少なくとも、そういう感覚を持っている。だから、自分が受け取ってしまったものを「次に渡す」ために文章を書いている、という側面はあるかもしれない。

著者はあとがきでこんなことを書いている。

【そんな僕の取るに足らない愚痴に、加藤(典洋)さんはこうおっしゃいました。
「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」

からっぽだと自覚するところから文章は始まる。
それで正しいんだよ。
そう言ってくださった気がしたのです。

「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰かからもらったものだ、ということです。他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです】

なるほどなぁ、と思う。こういう感覚は、確かに僕の中にもあるように思う。

さて、ここまでで、「贈与の差出人は名乗ってはいけない」「これは贈与であると告げてもいけない」ということが明らかになった。それでは、しかし、だったら「贈与」というのはどうして存在しうるのだろうか。というのも、誰が与えてくれたのかも分からないし、そもそも「これが贈与だ」ということさえ宣言されないのだ。「贈与」という現象は、どんな風に立ち上がるのか?

それに対して著者は、「受取人の想像力」だと答える。

【贈与者は名乗ってはなりません。名乗ってしまったら、お返しがきてしまいます。
贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。
しかし、ずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しません。
だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要があります。
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。
だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない】

【だとするならば、受取人が現れさえすれば、あらゆるものが贈与になります。
贈与はどこから始まるかと言うと、第1章で見た通り、「受け取る」という地点からでした。
僕らは受取人としてのポジションからゲームを始めるのです。】

これらの説明として著者は、「16時の徘徊」と、「『テルマエ・ロマエ』のルシウス」という2つの例を出す。

「16時の徘徊」は、酒井穰『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』という本に出てくるエピソードだ。ある男性の母親が認知症になり、毎日16時になると外出しようとして暴れる。男性が母親に、どうして16時なると外に出ようとするのか聞いても答えない。そこで、男性はベテランの介護職員に助けを求めた。その介護職員は、母親の兄に連絡をし、「16時」というキーワードに心当たりがないか聞いてみた。すると、「幼かった頃の息子が幼稚園からバスで帰ってくる時間ではないか」という。そこで介護職員は母親に、「息子さんは幼稚園のお泊り会だから帰ってきませんよ」と告げると、「そうだったかね?」と言って大人しく部屋に戻った、というのだ。

さて、このエピソードから何が分かるのか。それは、「受取人が現れることで、それが贈与であることに気づく」ということだ。母親は、「息子を迎えに行く」という行動を取ろうとしていた。それは、愛情から来る行動だ。しかし、その行動を「徘徊」と捉えている男性には、それが愛情だとは分からない。そこに介護職員が現れ、母親の行動を解明した瞬間、男性は「受取人」となり、その瞬間に「贈与」が立ち上がる。こんな風に「贈与」というのは、「受取人」が現れることで存在することが出来るのだ。

さてではもう一方の『テルマエ・ロマエ』の話をしよう。有名だろうから『テルマエ・ロマエ』の内容についてはほとんど触れないが、古代ローマの浴場設計技師であるルシウスが現代にタイムスリップしてしまう物語だ。この物語において、現代のお風呂事情を知ったルシウスは、そのあまりの秀逸さに驚嘆する。しかしそれらは、現代人にとってはなんの変哲もない、ごく当たり前のものなのだ。

【ルシウスは、現代を生きる僕らに何が与えられているのかを教えてくれます。
ルシウスが見て驚くもの、驚く対象。それは、古代ローマには存在していなくて、現代においては存在しているもののおよそすべてです。
それらは、僕らが気づかぬうちに受け取っていた贈与なのです。
なぜなら、古代ローマには存在していなかったということは、この世界に初めからあったわけではないものです。
ということは、歴史の過程で、それを生み出した誰かがいるということになります。
だとすれば、それは誰かからの僕らに宛てた贈り物と言えます】

こんな風に「贈与」には、差出人が存在しないものもある。これも、受取人が出現することで初めて存在しうる「贈与」なのだ。

【贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
これは本書の贈与論において、決定的に重要な主張です。
そして、倫理と知性はどちらが先かと問われれば、それは知性です。
つまり、受取人のポジションです。
なぜなら、過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来へ向かって贈与を差し出すことができるからです。その主体は「もし私が気づかなかったら、この贈与は存在しなかった」ということを痛いほど理解しています。つまり、「この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない」と直覚できているからこそ、今から差し出す贈与も他者へと届かない可能性が高く、届いてくれたならこれほど素晴らしいことはないと分かっているからです。
この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない。
ということは、私がこれから行う贈与も他者へは届かないかもしれない。
でも、いつか気づいてくれるといいな―。
かつて受取人だった自身の経験から、そのように悟った主体だけが、贈与が他者に届くことを待ち、祈ることができるのです】

さてでは、どうしたら「贈与」に気づくことができるのか?という話の前に、本書における「資本主義」の話を書こう。

【資本主義というシステムに「資源の分配を市場に委ねる」という側面があるのだとすれば、資本主義は、ありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。
市場の拡大、資本の増殖。
そのためには、あらゆるものが「商品」でなければならない。
したがって、資本主義のシステムの内部では「金で買えないもの」はあってはならないことになります。資本主義を徹底し、完成させようとするのならば、僕らは金で買えないものを排除し続けなければなりません。
「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです】

本書の初めの方で、著者はこう書く。この文章は、受け取る人によってポジティブにもネガティブにも取れるだろうが、著者はネガティブなものとしてこういう文章を書く。すべてが金銭的な価値を媒介として「交換」できてしまうことが、色んな問題を引き起こしているのだ、と。

しかしじゃあ、「交換」をすべて「贈与」にすればいいのかというとそうではない。この感想の中では詳しく触れていないが、「贈与」は容易く、他者を縛る「呪い」として機能してしまうのだ。

じゃあどうすればいいのか。そういう問いを最初の方で提起しておいて、後半で著者はこう書く。

【ですから本書が論じた形の贈与は、市場経済を否定していません。
それどころか、むしろ、市場経済を必要としているのです】

どういうことだろうか?それを理解するためのキーワードとして著者は、「不合理性」を持ち出す。

【他者の不合理な振る舞いの中に、差出人としての姿が隠されている。
僕らは不合理性を通して、他者からの贈与に気づくことができる――。】

【贈与にはある種の「過剰さ」「冗長さ」が含まれています。なぜかというと、ある行為から合理性を差し引いたときそこに残るものに対して、僕らは「これはわたし宛の贈与なのではないか」と感じるからです】

例えば本書には、こんな会話表現の例が出てくる。「座れ」「座りなさい」「おかけください」「もしよかったらおかけになってはいかがですか」という風に、文字数が増え、冗長度が増すほど丁寧になる。合理的に情報を伝えるだけなら「座れ」でいいのだが、そうではない不合理な部分が含まれる。その不合理の分が、自分に対する敬意(=贈与)である、という風に理解することが出来る。

このように「贈与」というのは、「不合理なもの(本書ではさらにこれを「アノマリー」と呼んでいる)」として現れるのだ。つまり、「アノマリー」に気づくことが出来れば「贈与」に気づける、ということだ。

しかし、「アノマリー」に気づくのは容易ではない。例えばこんな例が出てくる。人間の心臓は、一日に6000キログラムもの血液を送り出しているという。これを聞いてあなたはどう思うだろうか?「心臓って凄い!」と思うかもしれないが、「不思議だ」「矛盾」だ、つまり「不合理だ」と感じる人はいないだろうと思います。

しかし、この事実を発見した、17世紀に生きたハーヴェイという人物は、心臓が一日6000キログラムもの血液を送り出していると知って「おかしい」と感じた。何故なら、当時「血液」というものは、「肝臓で作られ、体中に運ばれ、末梢組織で消費される」、つまり、血液は手や足などの末端で消えてなくなるという一方通行の流れだと思われていたからだ。「手足で毎日6000キログラムも消費されるなんてことがあるだろうか?」とハーヴェイは考え、「血液は体内を循環している」という事実に気づいたのだ。

さて、ここで整理しよう。ハーヴェイが「血液の循環」という新事実を発見できたのは、「心臓が一日6000キログラムもの血液を送り出している」という事実に気づいたからだ。しかし実はもう一つ、重要な要件がある。それは、「当時血液は、末端で消費されると考えられていた」という「常識」も理解していた、ということだ。つまり、「一日6000キログラム」という「事実」を知っただけでは、それは「アノマリー」として捉えることは出来ない。それが「アノマリー」であるためには、「血液は末端で消費される」という「常識」を知っていなければならないのだ。

【パラダイスという枠組み、つまり科学者たちの常識の総体が存在しなければ、そもそもアノマリーが発生することができないという点です】

さて、これで、「贈与」に「市場経済」が必要な理由が説明できる。

【ですから本書が論じた形の贈与は、市場経済を否定していません。
それどころか、むしろ、市場経済を必要としているのです。
なぜなら、無時間的な等価交換、相手を問わない形の交換が日常となっているからこそ、贈与がアノマリー、すなわち「間違って届いたもの=誤配」として立ち上がるからです】

贈与者は名乗らないし、そもそも「これが贈与だ」という形で提示されない。だから受取人は想像力を駆使して、「あれは贈与だったのか」と気づかなければならない。その気づきがなければ、自身も贈与者になることはできない。ではどうやって贈与に気づくのか。それは「アノマリー」を見つけることによってだ。「贈与」は、不合理なものとして届く。そしてその不合理さをきちんと理解するためには、「合理」、つまり「世界の常識/当たり前」を理解していなければならないのだ。だから「勉強」しなければならないのだ、と著者は主張します。

また、この「贈与」の議論を通じて著者は、「仕事のやりがい」や「生きる意味」などについても論じていく。

【なぜ僕らは「仕事のやりがい」を見失ったり、「生きる意味」「生まれてきた意味」を自問してしまうのか。それが「交換」に根ざしたものだからです。
ギブ&テイク、ウィン-ウィン。残念ながら、その中から「仕事のやりがい」「生きる意味」「生まれてきた意味」は出てきません】

【不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次につなげなければならない。
誤配を受け取ってしまった。だから、これを正しい持ち主に手渡さなければならない。

誤配に気づいた僕らは、メッセンジャーになる。
あくまでも、その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が、偶然帰ってくるのです。

「仕事のやりがい」と「生きる意味」の獲得は、目的ではなく結果です。
目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすことです。
だから僕は差出人から始まる贈与ではなく、受取人の想像力から始まる贈与を基礎に置きました。
そして、そこからしか贈与は始まらない】

「贈与論」という難しそうだが、本書は、『テルマエ・ロマエ』の他にも、平井堅やbacknumberの曲の歌詞、シャーロック・ホームズ、小松左京や星新一といったSF作家の作品など、身近に感じられるモチーフが様々に登場する。哲学者や思想家の引用もあるが、全体的には非常に親しみやすい内容になっていると思う。メチャクチャ面白いぞ


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