【映画】「先生の白い嘘」感想・レビュー・解説
本作は、監督のインタビューによって、悪い意味で注目を集めた。まあ、その辺りのことについては色んな人が色々書いているだろうからここでは別に言及しないが、「監督がそんなことを言ってるのはダメだろ」という感じだった。
ただまあ、その騒動が無ければ僕が本作のタイトルを知ることもなかっただろうし、積極的に観るつもりはなかったものの結果こうして観に行ったので、その1点(つまり「観客が1人増えた」)だけを取り上げれば良かったと言えるかもしれない。
さて、本作では明確に「男性性の加害性」が描かれる。そして、それを軸にして「女性性の不平等さ」が浮き彫りにされるというわけだ。それを、かなりハードな性描写と共に描く作品というわけだ。
さて、ここから書く話は少し「自分を優位に捉えている」という話になるので、ちょっと書きにくいのだが、「本作のような形で直接的に『男性性の加害性』を描かなければ伝わらない人もいるのだろう」という感覚が強かった。
その話をするために、少し前に観た映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(以下『ぬいしゃべ』)と比較しよう。『ぬいしゃべ』でも「男性性の加害性」が描かれるのだが、その描写は「気づかない人もいるかもしれない」という感じのものだった。登場人物の1人が。男であるということによる自身の「加害性」に対する葛藤を告白するシーンがあるのだが、そのシーンを観て「何が描かれているのか分からない」と感じる男も多いのではないかと感じた。その人物が「加害性」について悩む必然性など無いとまったくないし、っていうか何を悩んでいるか分からないみたいに思う男もいるんじゃないかと思った。
そして僕は、『ぬいしゃべ』で描かれるような「男が気づくか気づかないか分からないような『男性性の加害性』」に結構驚かされたし、そのような繊細な描写がなされる『ぬいしゃべ』にはかなり惹かれた。
さて、一方本作は、「誰がどう見たって『加害性』としか言いようがない状況」が描かれている。と僕は感じるのだが、その一方でこうも感じた。本作のような「明らかな加害性」をベースにして「男女の不平等」を描き出す作品が存在するということは、「この『明らかな加害性』さえ『明らか』とは感じられない男がいる」という事実を示唆しているのだろうか、と。
もしそうだとしたら、ちょっと驚かされる。
ただ、そうである可能性も無くはない。本作で「明らかな加害性」を体現するのは、風間俊介演じる早藤である。そして彼は随所で「イカれた理屈」を駆使して、「あたかも自分には非がないかのような主張」を繰り出す。僕は彼のその主張を「口先だけで相手を丸め込もうとするやり口」程度に感じていたのだが、ここまで書いてきたような思考を踏まえて、「もしかして本心からそんな風に感じている奴が世の中にいるのだろうか」とも考えた。それは、とても恐ろしい想像だ。
そして、「そんなクズが世の中にはいるのだ」という警告としてこの作品が存在するというのなら、「そんな社会にしてしまっている男の一人」として、この世の中に対して強く憤りを覚える。
さて、本作がそのような「女性に対する警告」の役割を担っているのであれば目的は果たせていると言えるかもしれないが、一方で少し難点もある。それは、「男の側に自省を促すことが難しい」という点だ。というわけでまた、『ぬいしゃべ』との比較で語ることにしよう。
『ぬいしゃべ』で描かれる「加害性」は、「男が普通に生きていたら気づかない可能性もある」というレベルのもので、しかし一方でそれは、「女性にはかなり大きなダメージを与えるもの」である。『ぬいしゃべ』では、そのような打ち出し方が明確になされていたと思うし、だからこそこの作品を観た男は、「もしかしたら自分も、自分が全然気づいていないところで女性に対して『加害性』を帯びてしまっているかもしれない」という思考を抱くことが出来ると思う。
しかし本作『先生の白い嘘』はそうはならない。何故なら、早藤があまりにもイカれているからである。「早藤のような人間がいる」ということは確かに事実だろうが、決してマジョリティではないはずだ。そしてだとすれば、本作を観た多くの男は、「俺はあんな奴とは違う」「あれほど酷い奴は批判されて当然だ」という感覚になると思う。それはつまり、「自省」の方向に思考や感情が向かないということだ。
もちろん、誰が何を言おうが変わらない人間は変わらないし、そんな人間に労力を費やす価値はない。ただ、『ぬいしゃべ』の場合は、「もしかしたら自分も……」という感覚を与えることによって、これまで考えもしなかった思考を展開する人もいるかもしれないし、実際にその後言動を変える人もいるかもしれない。本作が「あまりにゲスい男」を描く作品であるが故に、その辺りの難しさを孕んでしまっている点は、作品としてのちょっとした弱さとは言えるかもしれない。
さて、本作では「男性性の加害性」をベースに「女性性の不平等さ」が描かれるわけだが、それに付随してまったく逆のことも描かれる。それは、ある人物が「セックスはいつだって男のせいだって思ってますか?」と聞くことによって浮き彫りになる。
主人公の原美鈴は、「親友の婚約者から犯され続けている」という最低最悪な状況にいる。あらゆる意味の「暴力」を駆使して、早藤は美鈴をコントロールしようとし、あたかも「美鈴の自由意思によってこの状況が実現している」とでも言わんばかりの雰囲気を作り出す。美鈴は冒頭で、「私はいつも、少し取り分が少ない方にいる」と言っていたが、「女である」という自身の女性性故に「取り分は少なくても仕方ない」と思い込もうとして、この最悪な状況からずっと抜け出せないでいる。
そんな美鈴は、当然と言えば当然だが、「男である」というだけで拒絶反応を抱くようになる。そしてそれは、「異性同士に関わるあらゆる事柄は男が悪い」という、仕方ないものの極端な考えに行き着いているのである。
一方で、高校生の新妻は、ある事情から人妻と不倫してしまう。その際彼は、「やっぱり嫌だと思ってそう口にしたけど、その状況に呑まれて抜け出せなかった」みたいなことを言っていた。それに、担任の教師である美鈴が違和感を示すのだが、それに対して新妻が「セックスはいつだって男のせいだって思ってますか?」と問い返すのである。
美鈴は、「男の方が力が強いんだから、嫌だったら逃げられるはず」と口にするのだが、新妻は「力だけが暴力ですか?」と返す。力だったら確かに男は負けないかもしれないけど、そういう身体的なものでだけではない暴力も存在するはずだというわけだ。
この時のやり取りは不完全燃焼といった感じで終わる。ただ、ここで提示された「暴力」についての考え方は、早藤が美鈴に対して行っていることの一端でもあり、美鈴は一部納得させられたんじゃないかと思う。そして結果として、このような考えを持つ新妻との関わりによって、美鈴は違う闘い方が出来るようになっていくのだ。
さて、そのような「物語の中で必要な要素である」という部分を抜きにして、純粋にこの問いについて考えることも出来るだろう。つまり、「異性との関わりに関して『加害性』を帯びるのは男だけなのか?」ということだ。
この点については本作では深堀りされないのだが、やはり視点としては忘れてはいけないようにも思う。確かにほとんどの場合、「性加害」は男が女性に対して成すものだろうが、ジャニー喜多川のように男が男に成す性加害もあるし、あるいは女性が男に成す性加害だってあり得るだろう。この辺りも「性加害」について考える上で難しいポイントだと思うのだが、「『性加害』は男が女性に対してするものだ」という思い込みが強固になりすぎることが、別の「加害」を生む可能性もある。その辺りのことは別途気をつける必要があるだろう。
さて、個人的にどう捉えたらいいのか難しいと感じたのが、早藤と婚約した美奈子である。原作ではどういう存在として描かれているんだろうなぁ。本作において、少なくとも僕の中では、一番理解が困難なキャラクターだった。映画で描かれている限りにおいては、「美奈子がなぜ早藤を選んだのか」が分からない。本作を観れば分かると思うが、美奈子は「選べる側」の人間であり、だから早藤を選ぶ必然性がない。そのため、後半に行くほど、美奈子というキャラクターがちょっと現実離れしている感じがして、受け取り方がなかなか難しかった。
さて、映画とは関係ないが、公式HPに書かれている原作者・鳥飼茜のコメントがとてもいい。「書けるギリギリの範囲内」で、自身の漫画が実写化されることへの不安・葛藤・憤りを表明しているような感じがあって、この文章が公式HPに載っているという事実もとても良い。こんな風に、言葉をちゃんと紡ぐ人が僕は好きだ。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!