「関わりたい」と思う人の言動を制約したくない
ドラマ『冬のなんかさ、春のなんかね』の中で、こんなセリフが出てきたことがある。
土田さんの日々が楽しければいい。
最悪、その時隣にいるのが自分じゃなくても。
メチャクチャ分かるな、と思った。いや、ホントその通りなんだよなぁ。
僕は、自分が「良いな」「素敵だな」と思った人には、自由に楽しく幸せでいてほしいと思う。やりたいことをやり、やりたくないことはやらず、会いたい人がいるなら会い、言いたいことを言ってくれたらいい。もちろん、その時に僕が隣にいられればより良いだろう。でも場合によっては、僕が傍にいることによって、相手が「言動や価値観を制約される」みたいに感じるかもしれない。
そして僕は、それがとにかく嫌なのだ。僕のせいで相手が何か躊躇してしまうようなことがあるなら、僕は近くにいない方がいいなと感じられてしまう。お互いが良い影響を与え合えているならいいが、「こんなことしちゃいけないよな」「こういうことしたら嫌がるかな」みたいな発想から言ったりやったりするのを諦めてほしくない。
それは付き合っている相手に対しても同じで、だから僕は全然「浮気」とか気にならない。もちろん、「誰かに言い寄られて断れなかったから」みたいな消極的な理由だったらあまり好ましくないが、「自分がしたいと思ってする浮気」なら、「望んだ通りにしてほしい」と思ってしまう。「相手がしたいと思うように行動してもらうこと」が僕にとっては「快」に、そして「僕に遠慮してしたいと思う行動を躊躇してしまうこと」が僕には「不快」に感じられるからだ。
もちろん、こういう感覚は一般的にはまったく受け入れられないので、付き合っている人にちょっとこういう話をしたこともあるが、決まって「私のこと好きじゃないよね」という反応になってしまう。うーむ。僕からすれば「好きだからこそ」相手には自由でいてほしいのだけど、どうもそうは受け取ってもらえないみたいだ。
そして僕のこのような感覚は、「僕に対して好意から何かをしてくれる」みたいな行動にも及んでしまう。「料理を作る」を例に挙げると、「自分が食べる分を今から作るけど、ついでだからあなたの分も作ろうか?」みたいな感じなら「うん、お願い、サンキュー」と言えるが、「あなたのために料理を作ってきたの」みたいなのは正直ちょっと嫌なんだよなぁ。これも、「『僕の存在』が『相手の行動』に影響を与えている」みたいに感じられてしまうからだ。
そんな人間なので、やはり「恋愛」には圧倒的に向いていない。それを10年ぐらい前に悟ったので、「積極的に恋愛にしようとするのは止めよう」と思うようになった。
さて、以前読んだ『こうして世界は誤解する』の中に、「メディアが伝える『独裁政権下を生きる人々の姿』は、『小さな檻に閉じ込められたホッキョクグマ』を観察するようなものだ」みたいな話が出てくる。小さな檻の中に閉じ込められたホッキョクグマは、野生にいる時とはまるで違う行動を取るだろう。暴れたりイライラしたりするはずだ。しかし私たちは、檻の中のホッキョクグマの行動を見て「ホッキョクグマとはこういう生き物なのだ」と理解する。で、独裁政権下での人々を映し出すメディアというのは結局、「檻を映さないようにして檻の中のホッキョクグマを撮影しているみたいなものだ」というのだ。本来の姿を捉えられているとは言えないのである。
どうしてこんな話をしたかと言えば、僕は出来る限り「相手の本当の姿」を知りたいと思っているからだ。「僕の存在を考慮してあれこれ言動を考えてくれている」という状態は、「相手の本当の姿」ではないだろう。だからそんな相手の姿にはあまり興味が持てなくなってしまう。つまり僕は結局、「僕にあまり関心がない人」の方がいいんだろうなと思うんだけど、これはまさに、「蛙化現象」の本来の意味を説明するものとしても機能するかもしれないな、と思ったりもする。まあそれは別にどうでもいい話だけど。
僕は「関わりたい」と思う相手が楽しそうにしてくれているのが嬉しいし、そういう状態の相手と関わりたい。簡単じゃないのは分かっているけど、「お互いが制約なく振る舞った上で、お互いが相手と関わりたいと思える関係」が理想だなと思う。
「恋愛」がそういうものであれば、もう少しちゃんと「恋愛」が出来たかなって思うんだけどなぁ。難しい。
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