【映画】「美しく、黙りなさい」感想・レビュー・解説
本作の予告はかなり観る機会が多く、公開されたら観ようと思っていた。50年前に作られたドキュメンタリー映画である。
本作の構成は実にシンプルである。監督は伝説的女優(らしい。僕は知らない)デルフィーヌ・セリッグで、彼女が、ハリウッドとパリて活躍する23人の女優にしたインタビュー映像を繋げた作品だ。画面には常に女優1人(2人1組というパターンもあるが)だけが映し出され、喋ってる様子を撮って繋げている。
そして、質問もシンプルだ。監督は、以下の2つを女優たちに投げかけたという。
1.「もしあなたが男性だったとしても、この職業を選びましたか?」
2.「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」
「この2つのどちらかに対する返答なのか?」と感じるような脱線も多いが、それがまた、撮影時の気楽な雰囲気を反映させている印象にもなって、彼女たちの本音である感じを強めているなと思う。
で、僕が観た回は上映後にトークイベントがあって(1時間弱というなかなかの長さのトークだった)、彫刻家の小田原のどか、映画研究家の斉藤綾子、映画監督の清原惟の3人が登壇した。で、この脱線的な返答について斉藤綾子が、「編集で切ることも出来たけど、そうしなかったから、単に『業界やジェンダーの問題を指摘する』みたいな作品になってない」みたいなことを言っていた。本作は元々劇場公開を想定して作られたわけではなく、さらに、監督・カメラマン・編集の超小規模なスタイルで作られたこともあり、女優たちのリアルな本音みたいなものを引き出せているんだろうという感じがする。
あと、トークの中で印象的だったのは、清原惟のある発言。彼女は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』という映画を高校生の時に観て映画が好きになったという(この映画については作中でも何度も言及される。当時としては珍しく、女性の友情を扱った作品なのだそうだ)。で、それから本作『美しく、黙りなさい』に登場する女優画出てくるような映画もたくさん観たそうだが、ただ、本作を観るまで、彼女たちがそんな想いを抱いて映画に出続けていたことなどまったく想像も出来なかったそうだ。とにかくそのことに驚かされたと言っていた。
というわけで、2つの質問の話に戻ろう。正直なところ、現代的な観点からすると、この2つの質問はちょっと意味が分からないんじゃないかと思う。「男だったら役者は目指さなかったの?」とか「他の女優と友好的な場面を演じたことないの?」と疑問を抱くんじゃないかと思う。それは、少なくともこの当時と比べればジェンダー的な感覚がマシになっているからだろう。
で、個人的に興味深いなと感じたのは、この2つの問いを投げかけられた女優たちもまた、ちょっとした疑問を抱いてるように見えたことだ。いや、「疑問」という表現は正しくないか。要するに、「そんなこと考えたこともなかった」みたいな反応がチラホラあったのだ。「なるほど、それは良い質問ね」とか、「メモして後で考えなくちゃ」みたいなことを言う人がちょいちょいいた。
で、これはつまり、「当時の常識では当たり前すぎて、疑問に感じていなかった」みたいなことなのだと思う。
この点に関しては、ある女優が「『映画監督になろう』なんて発想をしたことは今まで一度もなかった」みたいな発言をしていたことも同じ括りと考えていいだろう。彼女はある時監督をやってみて、「なんて楽しいんだ」と思ったようだ。ただ、「映画監督は男がなるものだ」という固定観念が強すぎて、そんなこと考えたこともなかったというのだ。「女だからなれないだろう」とかではなく、そもそも「映画監督を目指す」という発想そのものが浮かばなかったと言うわけだ。
で、同じようなことが、先の2つの質問についても言えるだろう。問われて初めて「確かに考えてみればそうかも」みたいになった人もいるのだろう。本作はそんな、「女性たちが疑問を抱けないくらいにジェンダー平等的な感覚がほぼ存在しない社会」を背景にした作品である。
さて僕は、本作の監督を始め、作中に登場する女優をほぼ誰も知らなかったが、唯一マリア・シュナイダーだけは知っていた。しかし彼女のことも、つい最近まで知らなかった。映画『タンゴの後で』を観て初めてその存在を知ったのだ。
『タンゴの後で』は、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影の舞台裏を描いた、実話を元にしたフィクションである。で、「映画の撮影中に性被害を受けた」と主張したのが、『ラストタンゴ・イン・パリ』の主演のマリア・シュナイダーである。映画は評価されたようだが、斉藤綾子は「やはりあのシーンが生理的に受け付けなかった」と話していた。僕は『ラストタンゴ・イン・パリ』を観ていないのでなんとも言えないが、『タンゴの後で』を観る限り、確かに許容しがたいシーンなんだろうなと思う。そしてマリア・シュナイダーは、映画業界のジェンダー問題をいち早く告発した人物として知られているようだ。
そんなわけで僕は、本作に登場する人をほぼ知らない。公式HPには、「ジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーン、ジュリエット・ベルト、アンヌ・ヴィアゼムスキー、マリア・シュナイダーら著名な映画女優からテレビドラマの女優、無名の女優などさまざま」と書かれている。とにかく色んな人から話を聞いたのだろう。
それで、本作では1の「もしあなたが男性だったとしても、この職業を選びましたか?」の方がメインで扱われているように思う。112分の映画なのだが、2の「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」の質問が取り上げられ始めたのが、残り30分ぐらいのところだったからだ。
というわけで先に2の話をざっとしておこう。正直、僕はこの2つの質問の内、こちらの方が意味がよく分からなかった。もちろん、監督自身が女優であり、だから「他の女優と友好的な場面を演じたことがない」というのは彼女自身の実感なのだと思うが、しかし「そうだとして、それが何かの問題なんだろうか?」と僕には感じられていたのだ。しかし、彼女たちの返答を聞いてなんとなく理解できるようになった。
印象的だった話が2つある。1つは、「女優と親友だという話をしたある女優が、ミノルタ(だったかな?)から『いくらでもカメラを提供するよ!』みたいに言われた」という話。ミノルタは、「女性同士の友情が成立しているなんて!」と驚き、カメラの提供を申し出たらしい。どうやら当時はそれぐらい「女性同士の友情は成立しない」というステレオタイプが男の中にあったということなのだろう。
で、もう1つが、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の話だったと思うのだが、その映画に出ていた女優が記者から「レズビアンの映画を撮ってるんですよね?」と聞かれたと話していたのだ。先述した通り、この映画は「女性の友情」をテーマにした作品なのだが、当時は「女性の友情」なるものを見慣れていなかったので、「レズビアン」という形でしか認識することが出来なかったのだろう、と話していた。
つまり、「映画の中で描かれる『女性』は、男のステレオタイプの産物だ」という指摘なのである。なるほどな、という感じだった。ある女優は、「歴史上の女性は歴史書に描かれている姿しか分からないが、歴史書の書き手は男性なので、『男性から見た女性』の姿しか記録されていない」みたいに言っていたが、まさにそれと同じことが映画でも行われているというわけだ。
で、よく分からないが、男は何故か「女性は対立する生き物だ」みたいに思い込んでいたのだろう、それで映画でも女性は「敵対関係」ばかりが描かれていたというわけだ。『セリーヌとジュリーは舟でゆく』に出演した女優だったと思うが、その撮影の最初の方しばらくの間、なんか変な感覚を抱いていたという。そしてしばらくしてそれが「女性同士の前向きな関係を演じるのが初めてだから」だと理解できたのだという。
さらに彼女は、「私は初めて『演技していない女性』を演じた」という印象的な表現を使っていた。映画の中の「女性」は「妻・母親」や「メイド」などが多く、そして女性は日常生活の中で「妻・母親」「メイド」という役割を演じている。そして彼女はそれまで、そのような「ある役割を演じている女性」ばかりを演じていたというわけだ。しかし『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で初めて「役割を演じているわけではない女性」を演じることになり、そのことが印象的だったみたいに話していた。
というわけで、2の方の話はざっくりこんな感じなのだが、しかしこの「男のステレオタイプ」という話は1の方の話とも関係してくる。彼女たちは「もし自分が男だったら女優”なんて”絶対に選ばなかった」みたいに口を揃えて話していたのだが、その「なんて」の部分にこの話が関係してくるのだ。
彼女たちは実に様々な言い方をしていた。「娼婦かアル中か捨てられた女ばかり」「型にハマった女性像ばかり」「人物をまったく描いていない。ステレオタイプをなぞっているだけ」「くだらない役ばかり」「『この役は自分だ』なんて思ったことは一度もない。私の本質を出したこともない」「『あの役は君そのものだ』とか言われるけど、君って誰?」などなど色んな表現が出てきた。
ある女優は、「役者としてそんなこと言っちゃって大丈夫?」と感じるようなことを言っていた。
【「素晴らしい役だった」と言われても、それは私じゃない。クソくらえって感じ。役柄を見て好きとか言わないで。】
もちろん、いつどの時代の役者でも同じようなことを感じているのかもしれないが、にしてもここまで堂々と口にするのは凄いなと思う。それぐらい「役が酷い」ということなのだろう。
また別の女優は、「ウーマンリブのお陰で変わってきた。最近では、陳腐な女性を描くことを脚本家が恥と感じるようになってきている」と言っていた。これに関連して印象的だったのがトリュフォー(フランソワ・トリュフォーのことだろう)に関するエピソード。ある女優が、「女性が脚本を書くようになったら全然違ってくる。トリュフォーも『女性が手綱を握るべきだ』って言ってた」みたいな話をしていた。トークイベントでも斉藤綾子が、「トリュフォーは『最近の女性は怖い』って思ったんだろうね」みたいなことを言っていたが、そういう変化の兆しは見えていた時代でもあったようだ。
ただすべてが上手く行っていたわけではない。ある女優が映画の脚本を読んで違和感を覚えた。ストーリーは、「教師が何かに反抗して教職を追われる」みたいな感じらしいのだが、その話の中で教師の妻が、「このままだと家も冷蔵庫も失うかもしれないのよ!?」と言う場面があるのだそうだ。これに対してその女優は、「男がすべてをなげうって何かをしようとしているのに、どうして女性は冷蔵庫の心配をするの?」と感じ、監督に話したそうだ。すると「確かにあなたの言う通りだ」として脚本が変わった。新しい脚本では、妻が夫の決断に賛同し、背中を押す。妻が演説をして夫を鼓舞する、みたいな感じに変わったようだ。
でその女優は出演したいと監督に話したそうだが(「出演する前提で脚本読んでたんじゃないの?」と感じたが)、監督は「出演料は最高額を出すが、NYまでの航空券は出せない。来てもらっても出演料と航空券代でトントンだ」と言ったという。それでも彼女は「意志のある女性を演じたい」とNYまで行ったそうだ。ただ結局、猛々しい演説をするのは男性に変わっていて、女性はそれに賛同するだけの役だったという。途中まで「おぉ、良い感じの話じゃない」と思って聞いていたのだが、全然良くなかった。
また、「どうして映画の中の女性はステレオタイプ的なのか?」について分析している人もいた。彼女もまた、「脅威のない女」「頭の悪い女」ばかり演じてきたそうだが、脚本の中で女性がそういう描かれ方になってしまうのは、「男が対等な立場で女性と向き合うのが怖いからだろう」と言っていて、それはきっとそうだろうなと感じた。対等な立場の女性が描かれた脚本(当時既に女性脚本家もいたようなので、そういう人が書いたものがそうなるだろう)を読んだ男性は、無意識的に嫌悪感を抱き、NOを突きつける。だから映画には「強い女性」は出てこないというわけだ。
また、「年齢」に関しても色々と言及がある。「一般的に、人は大人の女性の身体には惹かれない」「35歳以上に見られたら端役しかもらえない」「(50代の女優は誰か思い浮かぶ?と聞かれ)全然思いつかない」などである。ある女優が、「映画は結局、男の巨大な幻想なのよ」みたいなことを言っていたが、当時はその感覚がかなり強かったのだろう。さすがに今は大分変わっていると思うが。とはいえ、依然として映画業界が男性優位であることは確かだろうし(日米の映画業界の性加害問題が色々持ち上がったのも割と最近の話だ)、大枠は変わっていないのかもしれないが。
まあそんなわけで、彼女たちは「ステレオタイプ的な女性像の役ばかり演じさせられるし、だからこそ女優という仕事に誇りが持てない」と感じている。そしてだからこそ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業を選びましたか?」という問いが成立するのである。現代の感覚では、「女優(役者)」は目指したい世界に挙げられるだろうし、実際に多くの人が積極的に目指していると思うのだが、当時は「他の選択肢があまりなかったから仕方なく」というようなものだったのである。誰かが、「男性が役者を目指そうとしたら『女々しい』と言われる」みたいなことを言っていたが、役者というのは当時そういう扱われ方だったのだろう。
で、何人かが「男だったら船乗りになっていた」「荷物を背負って旅に出てた」みたいなことを言っていたのが印象的だった。女性であるが故に、そういうことが自由には出来なかったのだろう。ただ中には、「シングルマザーの妹と一緒に暮らしている」とか「結婚して誰かの世話をする生活が無理だと気づいて、そういうすべてのことから離れた」みたいな、恐らく当時としてはかなり一般的ではないスタンスで生きている人もいて、「ある意味では、そういう生き方が出来ているのは女優だからではないか」という気がしなくもないなと感じた。とはいえ、「男と比べれば自由も選択肢も限りなく制約されていた」というのはもちろんその通りだろうし、とにかく皆が口を揃えて「男だったら女優なんて絶対に選んでない」と言っていたのが印象的だった。
50年前の作品だが、「50年前と比較して、一体何が変わり、何が変わっていないのか?」という観点を持てるという意味でも今観るべきだと思うし、「現在視点では当たり前すぎることに、当時の女性は気づいていなかった」みたいな姿を垣間見ることで、「我々も何か大事なことに気づいていないのではないか?」という視点も持てるんじゃないかと思う。映画業界の話ではあるが、それに留まらない内容だと思うし、広く観られていい作品だと思う。
あと、トークイベントの中で斉藤綾子が提起していて「なるほど」と感じたのが、「『問題があるけど良いと思える作品』と『そうではない作品』は何が違うのか?」である。彼女は先述した通り、『ラストタンゴ・イン・パリ』はあの問題のシーンを受け入れられず作品としても好きになれないが、一方で、ヒッチコックの作品(よく知らないが、同種の問題があるのだろう)は、問題があると分かってはいるが作品としては好き、みたいなことを言っていた。ここにどんな違いがあるのか? というのは確かに興味深い問いだなと思う。
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