【映画】「3月のライオン 前編」感想・レビュー・解説

勝つことは、誰かを傷つけることと同じだ。
勝つことは、孤独だ。

『あんたが帰れば、あの家に。
おめでとう。父さんに勝ったんでしょ?』

強さは、生きるための武器になる。
そして強さは、自分を傷つけるための刃にもなる。

『得意げな顔してんじゃないわよ』

強いことは、弱さを蹴散らすことだ。
強いことは、自分の中の何かをどんどんと弱くしていく。

『負け犬でも見るような目しやがって』

弱いことからは、逃げることが出来る。
強いことからは、逃げられない。

『なんだよ、その目は。俺が途中で投げたって言いたいのかよ』

勝つことは、強くなることでもあり、弱くなることでもある。

『みんな俺のせいかよ!
ふざけんなよ!
どうすりゃ良かったんだよ!
他になんにもねぇってぐらい、将棋しかねぇんだよ…』

生きることと勝つことは、基本的にはイコールにならない。
勝とうと努力するかどうかは、ほとんどの場合、本人の意志次第だ。
しかし、そうではない環境も、時には存在する。
勝つことが、生きることと直結してしまうような、そういう環境が存在する。
勝たなければ、生きていけないのだと思わされるような、そういう環境が存在する。

勝つことは、生き抜くための手段だった。
しかし、そのことが誰かを傷つける。
そして、自分自身をも傷つける。

『その家族を壊したのは、どこの誰?』

傷つけることが分かっていても、勝つことから逃げることは出来ない。
自分が傷つくことが分かっていても、強くなることから逃げることは出来ない。
そうしなければ、生きてこれなかったからだ。
そうしなければ、これまでの自分の人生すべてを否定することになるからだ。

だから彼は、努力をする。
自分の中の何かを削り取りながら勝つための努力をする。
誰もが勝つための努力をしている世界の中で、勝つためでもあり、生きるためでもある努力を、彼は重ね続ける。

その軌跡しか、彼は「人生」と名付けられるものを持たないのだから。

内容に入ろうと思います。
桐山零は、中学生でプロ棋士になった史上5人目の天才棋士としてデビューした。しかし、9歳の時交通事故で両親と妹をいっぺんに喪った彼は、父の友人だった棋士の幸田に引き取られ、内弟子として育てられた厳しい過去を持っている。17歳、高校に通う零は、今は幸田の家を出て一人暮らし。家族も友人もなく、ただひたすら将棋と向き合う日々を送っている。
そんなある日、酒に酔って潰れている零を見かねた川本あかりは、零を自宅まで連れ帰る。あかり・ひなた・モモという三姉妹に気に入られた零は度々川本家に足を運ぶようになる。家族団らんという、長らく経験したことのない時間に心が浮き立つが、ここは自分がいる場所ではない、という思いも芽生える。

師匠の幸田の長女であり、弟の歩と共にプロ棋士を目指していた香子は、妻のいるプロ棋士である後藤と微妙な関係を続けている。香子は度々、幸田家を壊したのは零だとして零に辛く当たる。零は香子の行動を諌めるが、香子は後藤との関係を終わりにしようとしない。川本家で年越しをした零は、初詣の折に香子と一緒にいる後藤と出くわす。聞く耳を持たない後藤に、獅子王戦トーナメントで後藤を倒したら香子を家に戻せと詰め寄る。しかし後藤にたどり着くには、後藤と同じA級に所属する島田を倒さねばならないが…。
獅子王戦と同じくして、新人戦のトーナメントも進んでおり、幼い頃からライバルとして一方的に桐山に絡んでくる二階堂との対戦も実現間近だったが…。
というような話です。

凄く好きな映画でした。とにかくセリフが極端に少ない映画で、表情や仕草(それも非常に抑制されているのだけど)によって感情を伝えようとする映画だなと思いました。原作はマンガなので、マンガのやり方に近いと言えば近いですけど、ただマンガにはセリフだけではなく内面を描くような心の声も文字で書かれている。映画の方では、それも非常に抑えられていて、その場面場面で観る者がそこに何を観るかを問われているような、そういう映画だと感じました。

零を中心とした棋士の世界は、まさにそういうあり方を体現している。もちろん棋士の中にも、例えば二階堂のような騒がしい者もいる。しかし、この映画の中で描かれる棋士は皆、内に何かを秘めているような佇まいを見せる。その内面が、はっきりと描かれる場面は少ない。何を考えているのか分からないような、表情もあまり動かないような場面が非常に多くある。

それは、棋士らしい世界を表現しているなと感じる。棋士にとっての言語は、将棋であり、駒の動かし方を記した棋譜だ。彼らは、棋譜を読み込むことで、他の棋士と対話をする。実際に対局をしている時の駒の動かし方でも、対話が生まれる。実際に言葉を交わさなくても、彼らには伝わるものがある。そういう棋士ならではのあり方を、映画という手法の中でうまく描き出しているように感じました。

零を中心とした棋士の世界が「静」であるとすれば、棋士・桐山零の外側にある世界は「動」だ。
学校での零には、友達がいない。しかし彼には、担任の教師という強い味方がいる。零のことを応援してくれる存在だ。映画の中では目立つ存在ではないが、要所要所で零にとって重要なポジションを取る。零は、そのままにしておけば自分から動く人間ではない。そんな零のことを、「動」の世界にいる誰かが押し出していく。

「動」の世界にいるのは、川本家も同じだ。川本家の女たちは、零が何者なのか知る前から、零をあっさりと受け入れる。そして、やはり自分では物事を切り開いていかない零の世界に良い感じに入り込んでいって、零を動かしていく。

この物語は、「居場所」の物語でもある。

「静」の世界には、零の居場所はある。そこが、心地よい居場所であるかどうかはまた別の問題だが、零は「史上五人目の中学生プロ棋士」であり、「将来を嘱望される新人棋士」として関係者からも世間からも注目されている。そこは、勝ち続けなければならない厳しい勝負の世界であり、気の休まる時はないが、しかし零にとって居場所であることは間違いないだろう。

しかし、「動」の世界には、零が居場所だと思える場所はない。

『あんたの居場所なんて、この世のどこにもないんだからね』

幸田家からは、出て行くしかなかった。零が幸田家にいることが、諸悪の根源のような状況に陥ってしまったからだ。結局零は、幸田家の面々とは家族になりきれないまま、幸田家を離れることになった。

学校にも居場所はない。常に屋上で一人で飯を食い、担任の教師以外に話す相手はいない。

川本家は零にとって居場所になりうる場所だった。しかし零は、川本家を居場所だと思うことに抵抗を感じてしまう。

『今度はこの人たちなんだ。
得意だもんね。不幸ぶって他人の家族メチャメチャにするの』

零には、幸田家での苦い記憶がある。生きるために選択せざるを得なかった、将棋で勝つという道。しかしそのことが結局、零を幸田家から追いやる結果となった。
川本家は、棋士・桐山零を求めているわけではない。そのことは、零にもきちんとわかっているはずだ。あの人たちは、零が何者であろうときっと受け入れてくれる。とても素晴らしい人たちだ。
でも、だからこそ、自分という異分子が入り込むことで、川本家がバラバラになるようなことがあってはいけない。そんな可能性が少しでもあってはいけない。
そこまで踏み込んで描かれることはないが、零が積極的に川本家に足を向けないのには、そういう理由があるはずだろうと思う。

『家族を大事にできない人間は、サイテーです』

後藤に向けて放ったこの言葉は、零にとってどんな意味を持つ言葉なのだろうか?9歳の時に家族を喪い、その後他人の家で育てられてきた零は、自分が家族を大切にしてこれなかったという後悔を抱えているのだろうか?大切にした家族を持つことを望んでいるのに自分にはそういう存在がいないことを哀しんでいるのだろうか?あるいは、家族という存在を強く捉えすぎるが故に川本家に深入り出来ない自分を悔いているのだろうか?

『僕ならどこに行っても心配する人はいない』

「動」の世界では勝つことを常に宿命付けられ、「静」の世界では居場所を見つけることが出来ない桐山零。彼がどんな風に未来に向けて進んでいくのか、楽しみだ。

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