【映画】「Playground/校庭」感想・レビュー・解説
本作は、ここ最近劇場で目にした映画の予告の中でもっとも気になっていた作品で、そして、やはりちょっと圧倒されてしまった。「学校でのいじめ」という、残念ながら”よくある”テーマを描き出す作品なのだが、それを「妹視点」で捉えるという構成が非常に印象的だった。そもそも「いじめ」が残酷なのだが、それだけではない残酷さが本作では描かれていて、ちょっと圧倒されてしまった。
物語は、妹のノラが小学校に入学したところから始まる。彼女は人見知り的な性格なようで、友達もいない学校に馴染めるか不安がって、学校まで送ってくれた父親からなかなか離れたがらない。また、同じ学校には兄アベルが通っている。ノラは、休み時間に兄と遊ぼうとしたけど「近寄るな」と言われてしまうし、昼食を兄と一緒に食べようと思ったけれども、先生から「昼食の時間は歩き回らないで」と言われ近づけない。ノラはしばらく、この世界に馴染めるかと不安な日々を過ごしていた。
しかし次第に、ノラには2人の友達が出来、休み時間に遊んだりするようになる。しかし一方で、「兄がどうやらいじめられている」ということも知ってしまう。蹴られたり、便器に顔を突っ込まれたりする場面を目にしてしまうのだ。ノラはもちろん、兄を助けたいと思った。しかしアベルは、「誰にも言うな」「関わるな」と言うばかり。アベルとしては、妹を巻き込みたくない気持ちからそう言っているのだけど、兄のことが好きなノラとしては、この状況を放っておいていいとは思えない。
そのためある時、口止めされていたにも拘らず、父親にアベルの窮状を話してしまう……。
みたいな物語です。
なんというか、ホントに「圧巻」という感じの物語だった。映画の後半の展開や、ラストの終わり方のインパクトなんかも含め、無音のままスクロールされるエンドロールをちょっと呆然とした感じで眺めていたような気がする。一言で言うなら「やってられない」という感じなのだが、妹には妹なりの気持ちと世界が、そして兄には兄なりの気持ちと世界があり、そしてそれらが大人の気持ち・世界とはほぼ切り離されているため、色々とややこしくなる。
さて、本作の大きな特徴は、「最初から最後まで、カメラはノラ(とノラが見ているもの)しか映さない」ということだ。もちろん、ノラの周辺にいる人も映り込みはするのだが、あくまでもカメラが捉えているのはノラだけである。兄がいじめられているシーンも、「ノラが見ている」という形で提示されている。カメラはひたすらノラを追うし、ノラが認識できていない状況は作中では映し出されないというわけだ。父親の顔さえ、ノラの目線まで顔が下がらないと映らないぐらいである。
この構成で最も印象的だったシーンは、アベルをいじめていた生徒やその親を含めた話し合いが開かれている場面でのことだ。ここでは、完全にノラは部外者である。しかしカメラはずっとノラだけを捉えている。色んな声がノラの周囲を飛び交い、それによって状況の進展は伝わってくるのだが、映像的には、ただただ縮こまっているノラだけを映し出すのである。本作におけるこの演出がとにかく印象的で、そして物語全体としてもとても意味あるものに感じられた。
ノラは映画の冒頭から、2つの困難に晒されている。1つが「人見知りであるため、新しい環境に馴染めない」である。また彼女は、全般的に体育の授業が苦手なようで、平均台やプールの授業などでの上手く行かない感じも描かれていた。とにかく、「友達もいないし、苦手なことも多いから、学校という環境には上手く馴染めない」みたいな部分が、最初の困難さである。
そしてもう1つが、「兄がいじめられているが、どうにも出来ない」である。「どうにも出来ない理由」はいくつかあって、まずは、ノラが「妹」であること、つまり「女性であり、年下である」という点にあるように思う。少なくとも、「自分の力で、上級生男子の暴力を止める」みたいなことは、まず不可能である。
その上でさらに、アベルから「関わるな」「誰にも言うな」と言われていることが挙げられる。「関わるな」というのは、この問題に妹を巻き込みたくないという気持ちが強いのだと思う。そして「誰にも言うな」というのは、「大人が介入すると余計酷くなる」ということが感覚的に分かっているからだと思う(ただ後半の描写を踏まえると、それだけが理由だったわけでもなさそうだけど)。
ノラはたぶん、この辺りの理由を正確に理解していたわけではないと思うが、それでも「兄にそう言われたから」という理由で言いつけを守り、しばらく誰にも言わなかった。兄が便器に顔を突っ込まれた時も、「水遊びです」と監視員(フランスの小学校には、子どもたちを見守る監視員がいるらしい)に嘘をつく兄の横で、何もせずに黙っていた。
ノラもアベルもセリフは多くなく、その時々で何を考えているのかは推し量るしかないのだが、「大好きな兄がいじめられている」という状況に対しては「何か解決する方法はないだろうか」と考えていたはずだと思う。ただ同時に彼女は、自分の問題に対処する必要もあった。友達がいない、体育が苦手、蝶々結び(フランスでは「リボン結び」と呼ぶらしいが)が出来ない、などなど、日々乗り越えなければならないことに直面しているのである。
こういう状況の中で妹がどう行動・決断をしていくのかが1つの焦点となる。
しかし決してそれだけではない。この記事では既に書いてしまっているが、ノラは、兄から口止めされていたにも拘らず父親にアベルの状況を話してしまう。もちろんそのことによって色んな状況の変化があり、アベルもノラも色んな状況が変わっていくのだが、さらにそこからの展開もあるのだ。
このことがまた1つ、ノラの苦悩を大きくする。というのも、後半からラストに掛けての展開においてノラは、「自分のせいだろうか?」という気持ちを強く持たざるを得なくなってしまうからだ。まあ、普通に考えれば、圧倒的に悪いのはいじめている奴らなわけで、ノラが気に病むことなどないのだが、実はそうも言っていられない状況になってしまう。ノラとしては信じられなかっただろうし、まさかという感じだったと思う。
繰り返しになるが、ノラがどんな感情を抱いているのかは言葉にされないことが多いので分からないが、場合によっては「兄がいじめられているよりも酷い状況になってしまった」とさえ感じていた可能性はある。そしてもしそうだとしたら、「自分が父親に告げ口しなければ、『兄がいじめられている』だけで済んだ」みたいな感覚になってしまうだろう。
そう、この時点でノラは、兄アベルに対する親愛の情みたいなものを失っているのである。
この事実は、映画の冒頭シーンを思い出すとちょっと信じられない気分になる。小学校に入学した当時のノラは、何なら「兄の存在がすべて」ぐらいの感覚で生きていたはずだ。しかしそれが、様々な状況の変化を通じて変わっていってしまう。そのことが一番残酷にも感じられた。
さてそんなわけで本作は、妹ノラの視点を通じて、「いじめられている兄アベルに対する気持ちの変化」を描き出す作品なのだが、それと同時にもう1つ、「大人のクソさ」みたいなものが随所に描かれているのも興味深い。
個人的に最もクズだなと思ったのが、アントワンという生徒を中心としたいじめっ子3人とアベルとの話し合いの場にいた教師(だと思う。声しか聞こえない)である。彼は話し合いの終盤、「君たち4人ならまた仲良くすることが出来るよな。じゃあ握手だ」と言うのである。
僕がいじめられているアベルの立場だとしたら、教師のこの言葉を聞いて最も絶望するだろうなと思う。現状の認識が出来ていないとしか思えない。別に仲良くする必要などないだろう。お互いが関わり合わずに済む距離感のままでいられればそれでいい。しかし教師は、「仲直りさせれば一件落着」とでも言うように握手を許容するのだ。
あるいは、同じ場面でのアベルの父親の振る舞いも好きになれなかった。アントワンらいじめていた側の児童ら3人は、教師に促される形でアベルへの謝罪の言葉を口にするのだが、そこでアベルの父親が「父親の私ではなく、息子に言え」「もっと大きな声で、全員に聞かせろ」と言うのだ。アベルが父親に「(謝罪の言葉は)聞こえたよ」と言っているにも拘らずである。
父親のこの態度も僕には、「謝罪さえさせれば問題解決」と思っている感じがして、全然好きになれなかった。っていうか、はっきり言って嫌いである。
ちなみに、この時のアベルの振る舞い、と言っても、父親に「聞こえたよ」と口にするぐらいなのだが、そこから僕は、「アベルはアントワンらとの関わりを断ちたくなかったのではないか」という気がした。
アベルはサッカーが好きなようで、そして恐らくアントワンらと普段サッカーをしているのだと思う(ちなみに、ノラの友人の女児は「サッカーが好きな人は差別主義者」という、なかなかの偏見を持っていた)。サッカーというのは普通、1人では出来ないものだ。だからアベルは、「『いじめられている』という状況に耐えてでも、『サッカーが出来る環境』を守りたかった」みたいに思っていたかもしれない、とも感じた。
そう考えると、妹に「誰にも言うな」と言った理由も、「いじめが酷くなるから」ではなく(それもあったとは思うが)、「大人が介入することで、アントワンらとの関わりが無くなることを恐れたから」かもしれない。同じことは、アベルがアントワンらに無抵抗な理由であるとも言えるかもしれない。すべてを受容し、相手の好きなようにさせることで、最小限の我慢で「サッカーが出来る環境」を守ろうとしたのかもしれない。
いや、これは完全に僕の憶測でしかなく、根拠らしい根拠は特にないのだが。しかし、後半、いじめそのものが無くなって以降の兄アベルの振る舞いを見ていると、そういう可能性についても考えたくなる。
また、大人のクソさの話に戻るが、ノラに対して父親がかける「信じてるからな」も嫌だった。これは「兄の窮状を告げ口して以降」に言われるようになった言葉で、要するに「(アベルに何かあったらまた教えてくれるって)信じてるからな」という意味である。
そしてこの言葉は、「お前を信じている」という意味ではなく「何かあったら言えよ」という強制力を発動する言葉として使われている。それを「信じている」という言い方でくるんでいるというわけだ。そういう雰囲気も嫌いだなと思う。
また、ノラが唯一信頼している大人が担任の教師のようだが、彼女もまた「うーん?」と感じるようなことを口にしている。例えば、「兄に問題が起こった」と告げられ、教室を出て担任と待っている時に、彼女はノラに「大きい子はケンカするものよ」と言っていた。そこまでの物語を追っている観客からすれば「そんなレベルの話じゃない」と感じるし、もちろんノラもそう思ったはずだ。確かに教師視点では何が起こっていたのか分からないだろうから、こういう的外れな言い方になってしまうのも仕方ないとは思う。しかしなぁ、という感じもしてしまった。
こんな風に本作では、「大人の言葉や理屈のクソさ」みたいなものが随所で浮き彫りになる。ホントにこういう大人にはなりたくないなと思うし、こういう大人と関わるしかない子どもは本当に大変だろうなと感じてしまった。嫌な世界だなと思う。
色んな意味で絶望的な世界であり、子どもの世界だからこその残酷さもあり、そして無理解な大人たちによる不快さもある作品で、決して楽しくはない。ただ、誰もが直面し得る、あるいは直面していてもおかしくなかった世界であり、そのリアリティに圧倒されてしまった。
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