【映画】「偶然と想像」感想・レビュー・解説
天才の極みだわ、ホント。凄すぎ。
しかしホント、『ドライブ・マイ・カー』を観て良かった。濱口竜介という監督のこともそもそも知らず、『偶然と想像』って映画の存在は視界に入ってたけど、正直観るつもりがなかった。けど、年末に『ドライブ・マイ・カー』を観て、あまりにも衝撃的に良くて、『偶然と想像』が同じ監督の作品だと理解して、それでようやく観ようという気になった。
マジで観て良かった。天才の極み。
映画を構成する要素は、様々に存在する。脚本、役者、CG、音楽、カット割り、衣装などなど、僕が今パッと挙げただけでもかなりたくさんある。普通は、それらを最適な配分で整えて、映画という構成物を作っていくだろう。
しかし『偶然と想像』は、極限まで要素を排している。大げさに言えば、この映画には「脚本」と「役者」しか存在しない。
映画は3話オムニバスで、(たぶん)関連性のない3つの物語が存在する。そしてそのどの話も、「固定された空間」からほぼ動かずに展開される。タクシーの車内、オフィス、大学教授の部屋、マンションの1室、一軒家のリビングなど、話が展開される場がほぼ固定されている。ワンカット長回しの場面が多く、カット割りも存在するのだが、僕の感触では、別にカットを割らなくても全然成立させられると思う。勝手なイメージでは、画面の単調さを、カット割りによって時々リセットする、みたいな意味合いがあったのではないかという気がした。別にやろうと思えば、カメラのアングルは変えなくても成立させられる物語だと思う。
つまり、非常に「舞台」的だということだ。
さらに凄いのは、その「固定された空間」の中で、「動き」はほぼ発生しない。基本的には、2人ないしは3人の人物が、ひたすら「会話」をしている。そして、その「会話」のみによって物語が展開していく。
もちろん、宅配の荷物が届くなど時々「動き」は起こるのだが、それが物語全体に大きく作用することはあまりない。
だから、イメージだけで言えば、ラジオドラマでも成立させられそうな物語という感じがする。
「映画」という表現において、使える要素は様々に存在するのに、そのほぼすべてを使わず、これがなければそもそも成立しないという「脚本」と「役者」だけで勝負する、という潔さに、まず驚かされた。
しかも、その「役者」にしても、決して有名なわけではない(これは、「顔が世間にそこまで知れているわけではない」という意味であり、「役者としての評判」とは関係ない)。僕は、この映画に出てくる「役者」の経歴などについてほぼ知らないが、「ただ映画を観に行ったいち観客」の視点で言えば「あんまり知らない人ばかり」という感じになる。
顔を観たことがある人もいたが、それにしてもパッと名前まで出てくる役者ではないし、もちろん、どんな演技をする人なのか全然知らない。
さらに、これは濱口竜介監督の特徴的なやり方なのか不明だが、役者は基本的に、感情を乗せないような、極端に言えばロボット的な喋り方をする。『ドライブ・マイ・カー』で初めてそういうスタイルを観てびっくりした。
何にびっくりするかというと、その感情の乗らない演技で成立する物語だ、ということだ。役者は、叫んだり声を荒らげたり崩れ落ちたりするような、感情が分かりやすい演技を一切しない。とにかく淡々と、何を考えているんだか全然分からないような、「無表情な声」で演技を続けていく。
普通に考えれば、そんな演技違和感でしかないはずなのだが、濱口竜介の映画の世界観では成立している。
つまりこういうことだ。誰のか分からない、どんな演技をする人なのか分からない役者が、感情の乗らない平坦なセリフを言う、「動き」がほとんど存在しない映画が、「物語」として成立している、ということだ。ただ「物語として成立している」だけではなく、「とんでもなく素晴らしい物語として成立している」のだ。
天才ですわ、ホント。映画を観ながらとにかく、「こんなやり方で『映画』を成立させられること」にとにかく驚愕させられっぱなしだった。
そして、そういう「かたち」の部分にも色々と驚かされるのだが、何よりも素晴らしいのが「脚本」だ。この作品は、ひたすら「脚本」の力が成立している。もちろん、この「脚本」が成立するのは「役者」の演技あってのものなのだが、この映画の場合は、何よりもまず「脚本」が際立って素晴らしいと感じさせられる。
「第一話 魔法(よりもっと不確か)」
「第二話 扉は開けたままで」
「第三話 もう一度」
この3つの物語があり、とにかくどれも素晴らしい。
一番好きな話は「魔法(よりもっと不確か)」、一番爆笑した話は「扉は開けたままで」、「物語」として最も脚本力を感じさせられたのが「もう一度」だ。
「魔法(よりもっと不確か)」は、最初のタクシーの場面でもうグッと掴まれてしまった。モデルの女性と、その親友のヘアメイクの女性がひたすら喋っているだけなのだが、この場面がまず素晴らしかった。ヘアメイクの女性が、最近知り合った男性と15時間も喋り続けてしまった、という内容だ。初めは仕事の話をするために会ったのだが、早々にその仕事は引き受けないということになった。しかしそれからも気が合って話があって、気づけば15時間もひたすら話してしまった。そんな男性について、ヘアメイクの女性がモデルの女性にずっと喋り続けている。
ホントにただそれだけの話なのだけど、これが永遠に聞いていられるんじゃないかと思うほど面白かった。ヘアメイクの女性は、自分に起こった体験を、「自分でもこんなことが起こるなんて不思議だし信じられないんだけど、でも本当にこういう感じだったのよ」というスタンスで話す。自分が口にしている内容が、不自然だったり不合理だったりすることを理解しながら、それでも、確かにそういう時間が存在したのだ、そしてそんなことがあったということを知ってほしいのだ、とモデルの女性に力説する。
モデルの女性の会話の反応もとてもいい。ヘアメイクの女性が「自分が言ってることはおかしいって分かってるんだよ」というスタンスで話していることをきちんと理解しながら、絶妙なレベル感で「それっておかしくね?」と突っ込んでいく。その突っ込みが、ヘアメイクの女性の会話をさらに誘導し、2人の会話から自然と、その男性のことや、その日何があったのか、ヘアメイクの女性がどんな風に感じているのかがするっと理解できていく。
しかも凄いのが、そうやって会話だけから状況をスムーズに理解できるのに、2人の会話が全然「観客向け」ではない、ということだ。「2人はいつもの感じで喋ってるんだなぁ」というニュアンスを醸し出しながら、それが結果として観客への説明としても成り立っている。その自然さに驚かされた。この脚本を、男性である濱口竜介が書いているんだと思うと、ちょっと信じられない。
さて、その後の展開について具体的に触れるわけにはいかないのだが、とにかく、モデルの女性の存在感がとてもいい。僕は、タクシー内の彼女より、オフィス内の彼女の方が大好きだ。
行動も発言も完全に支離滅裂なのだが、「私は自分の異常さをちゃんと理解しているから」と言っていたように、自身の狂気もきちんと理解している。モデルの女性が吹っかける、目的がまったく見えない会話の応酬はもの凄く刺激的で、ワクワクさせられた。
また、モデルの女性を演じているのは古川琴音という女優だが、彼女は非常に存在感があると思う。映像作品やCMなどでちょいちょい目にする機会があるが、その度に「あぁいいなぁ」と思っていた。そして、元々そんな風に良いなと思っていた女優だからこそ、そのミステリアスな雰囲気にさらに惹かれたのだと思う。
特にこのオフィス内での応酬は、「感情の乗らないセリフ」がよく合っていた。2人の関係性からそれが当然だと感じさせるし、モデルの女性の「タクシーでの話し方」と「オフィス内での話し方」にギャップがあることも、そのモデルの女性のキャラクターを非常によく表していると感じさせられた。
ヘアメイクの女性の「運命的な出会いの話」、モデルの女性の異様さ、オフィス内で展開されるカオス。それらすべてが僕にとっては非常に好きだと感じるもので、話としては一番好きだった。
「扉は開けたままで」は、最初から最後まで実に静かに展開される物語にも関わらず、とにかく観客席から爆笑が連続して上がるような作品だった。僕も、何度も笑わされてしまった。登場人物の誰も、「面白いこと」を言おうなんて思っていないのに、まさにこれも脚本の力で笑わされてしまうのだ。
「扉は開けたままで」のメインとなる話は、芥川賞を受賞したフランス語教授の部屋に、大学に心理学を学ぶために入学した主婦がやってきて、その教授を”誘惑する”というものだ。何故そんな展開が繰り広げられることになったのかは、是非映画を観てほしい。
教授が芥川賞を受賞した作品には、「男性器の剃毛をする女性」の描写が出てくる。主婦はとある理由から教授を誘惑する必要があり、そのきっかけとして、その描写の場面を声に出して朗読をし始めるのだ。そして、そのままの流れで教授の誘惑に移れるように、教授室の扉を閉めようとする。
しかし教授は、主婦が閉めた扉をまた開けるのだ。
そんな風に始まった”誘惑”がどんな結末を迎えるのかは是非観てほしい。2人のやり取りが全然噛み合わない感じ、そしてまったく意想外の形で噛み合ってしまう感じに爆笑させられながら、話の展開の中で自然と主婦が涙し、そして「お礼」という形で奇妙なものをプレゼントする流れとなる。そしてそのプレゼントが……というオチまでつく、よく出来た話だ。
僕が感心したのは、教授が主婦に対して「あなたには才能がある」と勇気づける場面だ。教授は彼女が持つ能力を、
【言語化できない、非決定の領域に留まる能力】
と表現する。
これはもの凄く良い表現だと感じた。
主婦は、自分は意思が弱く、誘惑に簡単に負けてしまうと、自分のダメな部分について話すのだが、それを教授は「言語化できない、非決定の領域に留まる能力」という形で肯定する。教授はたぶん嘘をついているわけでも、取り繕っているわけでもない。本心からそう言っているのだろう、ということが伝わる。
これこれこういう理由でこうする、などと論理的に説明するのは明快であるし、分かりやすい。そして、それができる人は社会的にも評価される傾向があるだろう。だから、論理的であることばかりが良いことであるように思わされてしまう。
しかし、自分がどういう理屈でそんな行動をしてしまうのか説明がつけられない、しかしその状態に特別悩んでいるわけでもない、という状態もまた良いものなのだと、教授は力強く言い切るのだ。
それは、こんな理由からだ。
【世間のものさしに合わせずに、自分のためだけの価値を抱きしめてください。
そういうものでしか、救われない人もいるでしょう。
もちろんそれは、起こらないかもしれません。しかし、誰もやらなければ、一生何も起こらないままです】
「世間的に正しいとされていること」とは違う評価軸が必要な人もいるし、あなたが「言語化できない、非決定な領域」に意識的に留まり続けることで、誰かがあなたの内側にあるものを最適な評価軸だと感じるかもしれない。そんなことが起こらない可能性も十分あるが、しかし「言語化できない、非決定な領域」に留まる者がいなければ、可能性もゼロになってしまう、ということだ。
こうやって文字にすると、正直、分かったような分からないようなという感じの話ではあるが、映画の中では非常に説得力を感じさせられる場面だった。確かに、と思った。そして、そういう説得力を持つ話だったからこそ、主婦の心にガツンと響いたのだし、結果的には別の文章に変えたが、当初教授に送るメールの文面に、「奇妙な時間でしたが、これでこれから少し気楽に生きていけそうです」とさえ書いていた。
【だから、芥川賞を受賞する前にあなたとお話したかった。
しかし芥川賞を受賞しなければ、そもそも話す機会すらなかったでしょう】
教授はそんな風にも言うのだが、映画を最後まで観ると、このセリフも非常に示唆的だと感じさせられる。2人が出会ったことは正しかったのか正しくなかったのか。色々と考えさせられる。
「もう一度」は、どれも素晴らしい脚本揃いの3作の中でも、ずば抜けて脚本力を感じさせられた物語だ。
この映画の内容については、「同窓会に出るために20年ぶりに仙台にやってきた女性が、エスカレーターで偶然再会した女性と話をする」という程度に留めておこう。この話ほど、情報を何も知らずに観るほうがいい。
この脚本の凄まじいところは、「違和感を感じない前半は実は違和感だらけであり、違和感が浮き彫りになった後半は何故か違和感を感じなくなる」という点だ。自分で書いていても、何を言っているんだという文章だが、映画を観た人が読めばなんとなく伝わるのではないかと思う。
3作どの話でも「狂気」が描かれるが、第一話と第二話の「狂気」の背景には、程度はともあれ「悪意」も含まれる。しかし、「もう一度」の「狂気」は、「悪意」が一切混じらないからこそ、余計その「狂気」が際立つことになる。
「違和感を感じない前半は違和感だらけ」「違和感が浮き彫りになった後半は違和感を感じない」という見事な設定こそがその「狂気」の源泉であり、素晴らしいと言う他ない。
しみじみと噛み締めたくなるような、素敵な映画だった。
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