【本】國分功一郎「暇と退屈の倫理学」感想・レビュー・解説
本書は、「なぜ人は退屈するのか?」「なぜ人は暇だと苦しむのか?」という、誰しもが日常的に感じているだろうことをとりあげ、それについて思考・分析する内容です。
内容についてはあとで詳しく触れますけど、これはもう超絶的に面白かった!もう最近面白い本ばっかり読んで感想を書いてるんで、こういう表現に胡散臭さを感じる方もいるかもしれないけど、いや、ホント、べらっぼうに面白かった!
「暇」と「退屈」の話だけで、まさかこれほど面白い作品に仕上がるなんて、全然予想も出来なかった。本書の著者は哲学が専門の大学の准教授だし、確かに作中でルソーだのハイデッガーだのと言った哲学者の話も出てくるんで、なんか難しそうな内容に思えるかもしれないけど、これが本当に全然そんなことないのだ。僕は確かに好きで哲学の本を時々読むから哲学的な知識は若干あるけど、でも本書で描かれていることは一切まったく知らなかった。それでも、全然難しく感じさせずに読ませる。
僕は、国語の授業が嫌いで、特に教科書に載ってる評論的な文章とか、ちんぷんかんぷんだなぁとか思いながら読んでたような、難しい文章になると途端に読めなくなっちゃう人間なんだけど、本書はホントに易しく描かれていると思いました。頑張れば高校生でも読めるんじゃないかなぁ。
本書は、「暇とは何か?」「なぜ人は退屈するのか?」というような哲学的な疑問からスタートしながら、哲学のみならずありとあらゆるジャンルにまたがった考察がなされる。「退屈の起源」として人類史の話が出てくるところとか、ハイデッガーの退屈論と共にとある生物学者が提唱した「環世界」という概念が持ち出されるなど、本当にジャンルミックスな感じなのだけど、その中でも圧巻だったのが、「暇と退屈」と「経済」との関わりの話だ。他の章の話は、生きていく上で悩みを抱えている人にはなんらかの示唆を与えるものかもしれないけど、基本的には知的好奇心を満たす目的で読む感じだと思う。でも、この経済との関わりの話は、この恐るべき消費社会を生きる僕らが捉えておかなくてはならない重要な視点を提示してくれているように思う。本当にこの、経済との関わりの話には感心させられた。確かにその通りだなぁ、と。
さて、多分に引用を駆使しつつ、僕に出来る範囲で(あと僕の時間の許す範囲で)本書の内容紹介に入ろうと思います。
序章で「「好きなこと」とは何か?」と題して、著者は本書で提示したい問題をクリアにする。それをざっと説明しよう。
現代の消費社会は、需要が供給に先立って存在するのではなく、供給が需要に先立って存在する。つまり、企業が売りたいと思うものが先にあり、それを消費者に欲しいと思わせるのだ。そういう形で、資本主義は僕らを豊かにした。
労働の環境も変わった。かつて労働者は余暇などなかった。しかし次第に労働者は余暇を得ることが出来るようになってきた。
しかし僕らは既に、「何が楽しいのか分からない」。広告によって、何が楽しいのかを教えてもらえなければ、僕らは自分たちが何を好きなのかわからないのだ。
資本主義はそこにつけこみ、消費者の「暇」を搾取している。
なぜ「暇」は搾取されるのか?それは人が退屈することを嫌うからだ。
では何故人は暇の中で退屈してしまうのか?そもそも退屈とはなんだろうか?
これが本書のスタートとなる問い掛けです。
序章では、明日もし社会主義革命が起こってしまったらどうしよう、と考えていたモリスという人物のことが取り上げられる。モリスは、社会主義になることで人々は暇になる。その膨大な退屈をどうやり過ごせばいいのか、と革命の前から考えていたのだ。
モリスの解答を発展させて、本書ではこう書かれている。
『人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない』
暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾ることが出来る社会、それこそが「ゆたかな社会」だとモリスは考えた。
第一章は「暇と退屈の原理論」。ここでは、パスカル・ニーチェ・ラッセル・スヴェンセンという四人のそれぞれの退屈論に触れている。
パスカルの退屈論の始点は、
『人間の幸福などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。』
そしてパスカルはこう主張する。
『おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる』
ニーチェはこう主張した。
『苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる同期がないこと、それはもっと苦しいのだ。何をしてよいのか分からないというこの退屈の苦しみ。それから遁れるためであれば、外から与えられる深谷苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。』
ラッセルはこうだ。
『退屈とは何か?ラッセルの答えはこうだ。退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。』
となれば、こうなる。
『ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるおのであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。不幸な事件でもよい。悲惨な事件でもよい。』
『退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば靴にする。だが、彼は実は楽しいことなどもとめていない。彼がもとめているのは自分を興奮させてくれる事件である。』
スヴェンセンの立場は明確だ。
『退屈が人々の悩み事になったのはロマン主義のせいだ。』
『ロマン主義者は一般に「人生の充実」をもとめる。しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。だから退屈してしまう』
こんな調子で引用してたら最後まで終わらないから、引用はもうちょっと減らそう。
第二章は「暇と退屈の系譜学」。ここで著者は、「退屈の起源」がどこにあるのかを探る。
この話は実に興味深い。結論だけ書けば、「遊動生活から定住生活になったことがきっかけで、人は退屈を覚えるようになった」となる。ここでは、西田正槻という人が提唱した「定住革命」という話がとりあげられ、それと絡めて退屈の話が展開されていく。メチャクチャ面白い。
第三章は「暇と退屈の経済史」。僕がさっき圧巻だと言った経済との関わりの話は、次の第四章で出てくるからこの章ではない。ここでは有閑階級のや労働者と言った観点から経済史を眺めることで、「暇」を持つことが権威であった時代が存在したことや労働者の扱われ方の変遷、そして消費者の変化。それらが「退屈」とどう関わっていくのか、ということを見ていく。
第四章は「暇と退屈の疎外論」。この章では後半で、「疎外と本来性」について、これまで哲学的にどんな議論がなされ、それがどのように的外れであるのかを指摘していて、その部分もハチャメチャに面白いのだけど、何よりもそれ以上に、初めの方で展開される「浪費と消費の違い」の話が圧巻だ。
いくつか引用しよう。
『浪費は満足をもたらし。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を越えて食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。』
『しかし人類はつい最近になって、まったく新しいことを始めた。
それが消費である。
浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
なぜか?
消費の対象が物ではないからである。
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。』
『現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなく希少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。
なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出まわらないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。
そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者は消費し続けるように仕向ける。消費社会は私達を浪費ではなくて消費へと駆り立てる。消費社会としては浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人が浪費するのを妨げる社会である。』
『消費は贅沢などもたらさない。消費する際には人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。消費を徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。
しかも単にそれらを奪っているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないあkら、それは永遠と繰り返される。永遠と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられるようになる。
これこそが、20世紀に登場した消費社会を特徴づける状態にほかならない。』
『消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば、それは「贅沢をさせろ」になるだろう。』
この話は感動的に面白かった。
そしてその後で、「疎外と本来性」の議論から、「本来性」へと向かわせるから「疎外」を扱うのは止めよう、という哲学の風潮を切り裂いて、ルソーとマルクスの主張したことを丁寧に読み解くことで、「本来性なき疎外」について思考する。
第五章は「暇と退屈の哲学」。ここでは、退屈論の最高峰と著者が呼ぶ、ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」という難解な作品を、著者が噛み砕いて説明することで、ハイデッガーが主張した退屈論を追っていく。
その中でハイデッガーは、第一形式、第二形式、第三形式という三つの退屈の種類について、具体例を混ぜながら丁寧に思考していく。このハイデッガーの退屈論は、それまでに紹介されたどの哲学者の退屈論よりも詳細に紹介されたから、という理由もあるかもしれないけど、どの退屈論よりも面白かった。もの凄くあやふやなスタート地点から、そこまでかっちりとした議論をすることが出来るのだな、という感動がある。著者は、ハイデッガーの結論に納得がいかないとしつつ、ハイデッガーの主張をうまく援用することで、本書独自の視点を提示する。
第六章は「暇と退屈の人間学」。ここでもハイデッガーの主張が検討される。ハイデッガーは退屈について述べた後、動物の退屈についても主張したという。つまり、動物は退屈するのかどうか、という問いだ。これについてハイデッガーは、ユクスキュルという理論生物学者が提唱した「環世界」という概念を批判しつつ、退屈を論じる過程で人間と動物を区別するものについて主張する。
しかし著者は、ハイデッガーの論証はおかしいとして、同じく「環世界」の考え方を援用しつつ、ハイデッガーの議論とは違う結論を導き出す。
第七章は「暇と退屈の倫理学」。ここでは、これまで追ってきた議論を、主にハイデッガーの主張を柱にしつつ、人間が退屈するというのはどういうことなのか、というまとめに入る。本章の主張を端的に表現していると思われる一文を引用しよう。
『習慣を作らねば生きていけないが、そのなかでは必ず退屈する。だから、その退屈をなんとなくごまかせるような気晴らしを行う。人間は本性的に、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられているのだとすら言いたくなる。』
そして結論・あとがきと続いて本書は終わる。
ちょっと僕の方の時間がなくて駆け足になったけど、本当にこの作品は、知的好奇心を満たす作品、という点ではここ最近読んだ中では比較になるものがちょっと思いつかないぐらい面白かったです。「暇」と「退屈」というたったこれだけのテーマから、哲学だけではなく様々な分野の知識を取り込みながら、人間とは何か?生きていくとはどういうことか?というような問いかけを迫る作品で、それでいて全然難しくない。クスリと笑わせる部分があるわけでもないのに、読んでいると、自分の内側の知的好奇心がドンドンと満たされて膨らんでいくことが分かる。もうとにかくハチャメチャに面白い作品を読んだ。是非是非是非とも読んでみて下さい。
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