【映画】「国宝」感想・レビュー・解説

これは、そりゃあ観るよね。見逃せないでしょう。で、やっぱり圧巻だった。まあ、そりゃあ良い作品だよね。

しかし、作品の良し悪しとはまた関係ない部分で、僕はやっぱり「血」というものに対する嫌悪感みたいなものを抱かされてしまった。これはホントに、色んな作品に触れる中で感じることだし、日常生活の中でも思うことがある。

僕にはどうしても、「血」にこだわる意味が全然理解できないのだ。

以前観た『犬王』というアニメ映画の中で、確か、世阿弥だか観阿弥だかの血筋の子どもの演技が下手、みたいな描写が出てきた記憶がある。天才の血を引き継いでいようが、天才になれるとは限らない。

さてもう1つ。映画『グランツーリスモ』のことも思い出した。これは、「プレイステーションのゲーム『グランツーリスモ』の上位者を実際にレーサーにしよう」という狂気のプロジェクトを描き出した映画であり、何よりも、そのプロジェクトが実話であることに驚かされる。

で、その『グランツーリスモ』の映画の最後だったか、あるいはHPに載っていたのか忘れたが、「このプロジェクトによって、才能あるF1レーサーに門戸が開かれた」というような話が出てくる。意味が分かるだろうか?

F1に限らないだろうが、スポーツなどにはお金が掛かることが多い。F1は特に、ただ参加するだけでも相当な資金が必要なようで、だからこれまでは、「その大金を拠出出来る人間」の中だけで行われていた。しかし「グランツーリスモプロジェクト」が実際にレーサーを輩出したことによって、「金は無いが、レースの才能を持つ人物」の存在が可視化されることになり、そのお陰で、今までよりも遥かに広くレーサーの門戸が開かれるようになったのだそうだ。

まあこんな話を持ち出すまでもなく、「血」と「才能」には基本的に関係はないはずだ。しかし、本作でメインテーマとなっている「歌舞伎」では「血」を無視することは出来ないし、そのような世界は他にも様々に存在するはずだと思う。

そういう世界は、凄く嫌だなと感じてしまう。

ただ、「歌舞伎」に関しては少し違った捉え方も可能だ。例えばそれが「F1」や「マラソン」など「完全なる勝負の世界」なのであれば、「血」がどうとか言ってる場合じゃない。「勝てる人間」を見つけてくる、あるいは育てるなどして勝負の場に立つしかないだろう。

しかし、「歌舞伎」のような「芸」の世界というのはまた違う。特に「歌舞伎」は日本でしか行われていない。「バレエ」や「ミュージカル」のような「日本でも世界でも行われているもの」なら、「芸の良し悪し」みたいなものはある程度客観的に判断されるだろう。しかし「歌舞伎」というのは日本でしか行われていないし(海外公演とかそういう話ではなく)、さらに日本の中でさえごくごく狭い範囲内(これは、観る人が少ないとかそういう話ではなく、担い手が制約されているという意味)でしか公演が行われていないのだ。

となれば、「歌舞伎における『芸の良し悪し』」は、どうしたって「客観的」にはなり得ないと思う。むしろ、歌舞伎側が「これが『良い芸』である」と提示したものを「良い芸」と受け取る、みたいな関係性さえあると言えるのではないだろうか。

これは「歌舞伎」の話として捉えると受け入れにくいかもしれないが、例えば「アフリカで行われているある部族の祭り」みたいなものを想像してみよう。その祭りでは、「神さまに捧げる舞」みたいなものが披露されていて、そしてその「舞」は選ばれし者しか踊れない。この場合、僕らのような外部の人間がその「舞」の良し悪しを判断することは不可能だと思う。そうではなくて、その部族(の長)が「これは良い舞である」と判断したものを、僕ら外部の人間も「なるほど、これが良い舞なのか」と受け取る、となるはずだ。

そして「歌舞伎」にもそういう側面があるはずだと僕は思っている。

ではこの場合、「芸の良さ」とは一体何を指すのだろうか?

「バレエ」であれば、ボリショイ・バレエのような、バレエに詳しくない僕のような人間でも知っている「頂点」みたいなものがあり、そして多くの人がそこを目指している。大勢がその「頂点」を目指しているという状況があるならば、「審査基準」はある程度可視化されざるを得なくなるし、そういう歴史が積み重なれば、「芸の良さ」というものが言語化されることにもなるだろう。もちろん、「芸の良さ」のすべてが言葉で表現できるなんてことはないと思うが、そういう方向に進んでいくことは確かだと思う。

では「歌舞伎」の場合はどうだろう? 「歌舞伎」の場合は「頂点しか無い」みたいな存在であり、「歌舞伎に出られるか、出られないか」の2つに1つという感じがする。しかも、色々例外はあるのだろうが(本作でもまさにその例外が描かれている)、基本的には「歌舞伎に出られるかどうか」は「血」で決まっているのだ。もちろん、だからと言って「芸」が軽視されるなんてことはないだろう。ただ、最終的には「血」がそのほとんどを決するとしたら、「芸の良さ」というのはどのような形で浮き彫りにされるのか。

本作では、「任侠の一門に生まれた喜久雄が、数奇な運命から上方歌舞伎の名門・丹波屋の部屋子となり、丹波屋の跡継ぎである俊介と共に女形として切磋琢磨する」という話なのだが、物語も後半に入った頃かな、歌舞伎では東一郎という名前の喜久雄が「干された」みたいな状態になってしまう。理由は色々あるのだが、結局のところそれは「親がいないこと」に原因があると言っていいだろう。

ある場面で、喜久雄を丹波屋に引っ張り込んだ二代目半二郎が喜久雄に、「この世界では、『親がいないことは首がないのと同じ』ってよく言ってな。ただお前は、どんな辛い状況になっても、芸で生き抜いていけ」みたいなことを言っていた。まさに「血」の重要さを物語る話ではあるのだが、やはり「親がいない」喜久雄は、歌舞伎の世界では良い扱いを受けられないのである。

しかし観客はそこまでの描写から、「東一郎(喜久雄)は女形として圧倒的な才能・存在感を持っている」ということを理解している。物語がそのように描かれているからだ。本作では、丹波屋以外の歌舞伎一門からの評価についてはあまり描かれないのでよく分からないのだが、二代目半二郎は上方歌舞伎の中でも名門かつ看板役者であり、そんな人物がその圧倒的な才能を認めたのだから、歌舞伎の世界において喜久雄は「芸達者」と認められていたと考えるのが自然ではないかと思う。

にも拘らず喜久雄は、「親がいない」という理由で(まあそれだけではなく、「父親が任侠だった」という事実が週刊誌にすっぱ抜かれたことも無関係ではないと思うが)、役をもらえないどころかセリフさえないという状況に陥ってしまうのだ。

そのような世界において、「芸の良さ」とは一体何を意味しているのか? 僕はずっとそんなことを考えながら本作を観ていた。

こういうことを考える時、いつも思い出すことがある。高橋留美子へのインタビューの中で出てきた「尻を叩いて美しい音を出すことが評価される世界」の話である(実際のインタビューマンガは以下のリンクから読めます)。

もし宇宙のどこかに、「尻を叩いて美しい音を出すことが評価される星」があるとしてみよう。その星では、「尻を叩いて美しい音を出せる人」はヒーローであり、国民的な人気を得ることが出来る。しかし何らかの理由でその人が地球にやってきたとして、じゃあその人は母国(というか母星)と同じように国民的な人気が得られるだろうか? まあ、それは無理だろう。地球では「尻を叩いて美しい音を出すこと」は別に評価されないからだ。「なんか変なことをしている奴」みたいに観られておしまいだろう。

そして、あらゆる「芸」はこれと同じ可能性を有していると僕は考えている。つまり、「評価基準が共有されていない世界ではまるで評価されない」というわけだ。まあ当たり前と言えば当たり前かもしれないが、「歌舞伎」というものを考える時、このような視点は持って行く必要があるように思う。

そんな世界の中で、「芸の良さ」とは何なのか?「タイム」という客観的な評価基準を有する「F1」「マラソン」みたいなものでもなく、「ボリショイ・バレエ」のような「絶対的頂点」を有し多くの人がそこを目指そうとしている「バレエ」のようなものでもない「歌舞伎」において、何が一体「芸の良さ」を決するのか?

それが判然としていないからこそ喜久雄は葛藤させられることになるのだし、本作のような様々な「因縁」渦巻く物語も生まれ得るのである。

映画『蜜蜂と遠雷』の中で、主人公の1人が、「僕は、世界に自分しかいなくてもピアノを弾くよ」みたいなことを言う場面がある。僕は、これが「芸の究極」じゃないかなと思っている。「他者による評価」なんてものとはまったく無縁の、「自分がそうしたいからそうするまで」というようなスタンスこそが「芸道」であってほしいというような気持ちが、僕の中にはあるように思う。

そしてある意味では、喜久雄が進み続けた、いや、進まざるを得なかった道も、結局のところはそのような方向性だったんじゃないかという気もする。喜久雄はある場面で、自分の娘に、「神さんと話してたんやない。悪魔と取引してたんや」と言う。彼は何を願ったのか。それは「もっと歌舞伎を上手くやらせて下さい。そのためやったら、他の何もいらしまへん」だった。「他の何もいらしまへん」というのは、究極的には「観客さえ不在でいい」という宣言にも受け取れる。自分が納得出来る「芸」が出来れば、それ以上の何も望まない。

そしてそんな宣言通り、喜久雄は、他のありとあらゆるものを壊し傷つけ踏み潰しながら、それでも、己が思う「芸道」を突き進むのである。

内容に入ろうと思います。

1964年、長崎。立花組は新年会の真っ最中だった。そこへ、大阪の歌舞伎役者である立花半二郎が顔を出す。組長とは昵懇であるようだ。そして半二郎が着いてすぐ、余興が始まる。歌舞伎の演目「関の扉」である。

半二郎はそこに出てきた女形に目を留めた。「随分芸達者な芸子がいたものだな」と口にすると、「いや、恥ずかしながら、あれは私の倅でして」と返ってくる。素人とは思えない振る舞いに圧倒された半二郎は、組長を通じて喜久雄というその倅と話がしたいと伝える。

しかしまさにその時、対立する組の者が宴席に乱入し、抗争が始まった。組長は逃げようとせず、その死に様を息子に見せるようにして銃で撃たれて命を落とした。喜久雄、15歳のことである。

その後紆余曲折あり、喜久雄は大阪の立花家に引き取られることになった。半二郎は彼を弟子として育てるつもりでいるが、妻はあまり良い気がしていない。跡取りは息子・俊介がいるし、それに背中に入れ墨が入った極道の息子である。そんな子どもを引き取って育てるなんてと思っているのだが、半二郎は、宴席で目にした女形が忘れられないでいる。そんなわけで、喜久雄は俊介と一緒に歌舞伎の修行に励むことになった。

喜久雄は、「真綿が水を吸い込むようやわ」と妻がこぼすほどの驚異的な成長を見せる。そしてやがて、俊介と共に女形の二枚看板として人気を博すのだが……。

というような話です。

もうとにかく「圧巻」としか言いようがない作品だった。歌舞伎自体は観に行ったことはないし、演目もまったく知らないが、それでも、作中で展開される歌舞伎のシーン(かなりちゃんとやっている)に飽きることがない。本作を観る前に何かのテレビ番組で、「吉沢亮と横浜流星は、1年半も歌舞伎の訓練をして撮影に臨んだ」みたいな情報が紹介されていた。歌舞伎の良し悪しなど分からない僕でも「メチャクチャちゃんとしてるな」と感じるような振る舞いで、身体の使い方や存在感、そしてその美しさなどあらゆる要素を含めて、縁もゆかりも無い「歌舞伎」にまずは圧倒されてしまった。

そしてその上で、本作において様々な形で浮き彫りにされる「血」の問題が、色々と思考を刺激する。この記事の冒頭からダラダラ書いてきた通り、僕は「血」なんてものを重視する発想はないし、けど、「芸の良さ」を客観視するのが困難な「歌舞伎」という特殊な世界においては、「血」をよすがに物事を決するしかないのかもしれない、という感覚も分からないではない。さらに本作では、喜久雄には「任侠の血」が流れているという設定であり、この「血」の問題もまた喜久雄を苦しめることになるのだ。

喜久雄が、尋常ではない大舞台に立たなくならなくなった際、「幕開く思たら震えが止まらん」と俊介に零すのだが、さらに続けて、「怒らんと聞いてくれるか。俺な、今一番欲しいんはお前の血ぃや。守ってくれる血ぃが俺にはないねん」と口にするのだ。この「守ってくれる血」というのは、その少し前の場面で俊介の父親である半二郎が口にしていたものであり、こんな風に本作では、とにかく「血」の問題がずっとのしかかって行くことになる。

「血」という、自分の努力ではどうにもならない領域で勝負が決してしまう世界で翻弄されるのは決して喜久雄だけではなく俊介も同じである。彼もまた、丹波屋の家に生まれなければ、もっと違う人生だったことだろう。丹波屋に生まれたことが良かったのかどうか、それは、他の人生を経験しようがないのだから何とも言えないところではある。ただ、その「血」を持っていなければ見られなかった世界があるのは確かである。

そしてそんな世界を、「血」を持たないのに見たのが喜久雄であり、吉沢亮が、そこに至るまでの壮絶な葛藤を抑圧的に、しかし圧倒的に描き出していた。横浜流星演じる俊介との関係性も非常に良く(こういう状況ならこういう関係になるだろう、というステレオタイプ的な感じではないのが良かった)、「こういう雰囲気はメチャクチャリアルだな」と感じさせられた。とにかく、さすがとしか言いようがない。

喜久雄には、帰れる場所などなかった。もし仮に喜久雄にそんな場所があったら、途中で引き返していたかもしれない。このまま進んでいけば、あらゆるものをなぎ倒し、傷つけ、ぶち壊していることが火を見るよりも明らかだったからだ。しかし喜久雄には、そんな場所はなかった。だから、舞台上で小さく「すんません」と呟きながらも、半二郎の妻に嫌味を言われようとも、目の前に広がる道を突き進んでいくしかなかったのである。

それはもはや、喜久雄自身が「悪魔」になるようなものであり、実際にそれはその通りなんだと思う。舞台袖である人物が、「あんな風には生きれんよな」と呟く場面があるのだが(まあそれは喜久雄だけに言及した言葉ではないのだが)、ホントにその通りだと思う。あんな風には生きれん。それこそ、悪魔に魂を売り渡したか、あるいは悪魔そのものでもない限り無理だろう。

まだ学生だった俊介と喜久雄が、人間国宝であり、当代一の女形である万菊の演目を観るシーンで、2人は「怪物」という言葉を使っていたが、まあ同じようなものだろう。2人は、万菊のような「綺麗な怪物」になるために、その一生を捧げようと奮闘するのだ。帰る場所がなかった喜久雄だけではなく、歌舞伎しか帰る場所がなかった俊介にも「戻る」なんて選択肢は存在せず、どれだけその先に地獄の釜の蓋が開いていようが、前進し続けるしかなかったのだ。

まあホント、とにかく圧巻だった。

公式HPを読んで驚愕したのだが、本作の原作小説を書いた吉田修一は、3年間歌舞伎の黒衣を纏って歌舞伎の世界を体感したのだそうだ。そんな圧倒的な原作を、吉田修一とのタッグは三度目となる李相日が圧倒的な迫力と映像美で描き出している。原作も監督も役者もとにかく最高で、こんなタッグはそうそう実現しないだろうと思わせるものだった。良い映画に仕上がって当然という感じはするのだが、その高い期待をあっさりと超えてくるような、ちょっとぶっ飛んだ完成度の映画だったなと思う。

さて最後に。喜久雄の若い頃を演じた役者をどこかで見たことあるなぁ、と思っていたら、映画『怪物』(是枝裕和)に出ていた子だった。さらに、俊介の若い頃を演じてたのは、映画『ぼくのお日さま』の子。この2人も良かったなと思う。あと、田中泯はとにかくさすがである。歌舞伎はもちろん未経験だろうが、田中泯という配役はちょっと完璧過ぎる。

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