【乃木坂46】齋藤飛鳥の自覚ー「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2」を読んでー

『実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです』

乃木坂46の15thシングルで初めてセンターに立つ齋藤飛鳥。その齋藤飛鳥の、センター決定前のインタビューが、本書の巻頭に掲載されている。THE齋藤飛鳥、とでも言うべきネガティブ思考が、相変わらず展開されている。

ちなみに僕は、今回、乃木坂46のシングルを初めて買うつもりだ。だから齋藤飛鳥の「私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?」という問いには、全力で「はい」と答えたいところである。

巻頭のロングインタビューでは、齋藤飛鳥の葛藤が切り取られていく。齋藤飛鳥は常に葛藤している印象があるが、今回はその葛藤がよりくっきりとしているように思う。センターに決まる前のインタビューとはいえ、雑誌のモデルから始まり、様々な雑誌への露出、ラジオ番組、福神入りなど、確実に環境が変化している齋藤飛鳥。それに伴って彼女の葛藤も、より輪郭がはっきりしてきたのではないか、という気がする。

僕はその葛藤に、「自覚」という名前を付けたい。「自身への自覚」と「他者への自覚」である。

『でも、モデルのお仕事を始めてからは、メイクや洋服によって自分であって自分じゃない姿になれることに気付いて、写真を撮られることが好きになったんです。その意識を変えてくれたのはファッション誌やモデルのお仕事のおかげ。』

写真を撮られることへの自覚、みたいなものは、これまでもインタビューの中で語ってきた。苦手だったもの、よくわからなかったものが、自分の中で違った意味付けを持つようになる。モデル、という仕事において、齋藤飛鳥は「自身への自覚」を積み重ねてきた。

そしてそれは、アイドルという仕事全般に及ぶようになっていく。

『こう言ったらファンの方には申し訳ないですけど、もともとはそんなに自分の人生のなかで乃木坂を大きく考えてなかったから。今ほどいろいろ深く考えて行動してなかったし、でも今はそういうわけにもいかないので。』

僕は、齋藤飛鳥が選抜入りするようになった頃から乃木坂46を好きになった。だから、齋藤飛鳥のアンダー時代のことはよく知らない。しかし、選抜後の齋藤飛鳥を見ていると、何故この子がアンダーだったんだろう?と感じる。様々な面でポテンシャルを秘めた存在だと僕は感じるのに、何故アンダーだったのだろう?と。しかし、「深く考えて行動してなかった」と自身が認めているように、意識の問題だったのだろう。どれほど強い武器を持っていようとも、それを意識的に見せていかなければ伝わらない。齋藤飛鳥は、様々な環境の変化と共に、アイドルとしての「自身への自覚」を徐々に身につけていった。そして、あくまでも結果論だが、それがセンターに繋がった。そういうことだろうと思う。

『それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした』

ちょっと話は脱線するが、少し前何かでこんな話を読んだ。「今の若い人は、学生の頃から将来のビジョンなんかを求められるから大変だ」と。昔はそういう時代ではなかったし、長いこと働いたり努力したりした結果そういうものって見えてくるものなんだ、という話だった。齋藤飛鳥のこの話も、まさにそうだろう。やりたいこともやる意志もなかったけど、環境に巻き込まれるようにして劇的な変化を遂げた。もちろん、齋藤飛鳥ほどの環境に身を置くのは困難だろうし、良い環境に身を置くために将来のビジョンを語らなければならないのだ、という事情もあるかもしれない。しかしそれでも、齋藤飛鳥のこの言葉は、働くこと、社会に出ることなどに悩んでいる若い人の希望になるのではないかと思う。

さて、「他者への自覚」の話をしよう。

『みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです』

僕は、齋藤飛鳥のこの言葉の中に「他者への自覚」を見る。これは「自身への自覚」に見えるかもしれないけど、そうではない。

僕には、「東京タワー理論」と呼んでいるものがある。

大学の友達と大学の近くを歩いていたら、ビルの間から東京タワーが見えた。なんだ近いんじゃん。ちょっと言ってみようか、というノリで、歩いて東京タワーを目指すことになった。

しかし、メチャクチャ遠いのである。

知識としては、東京タワーが333mだということは知っている。凄く高いのだということも知っている。でも、視界に入ると、あっ結構近いんだな、歩いて行けそうだなと思う。でも全然辿りつけないし、近づいたらあまりにデカくてびっくりする。

こういう感覚のことを僕は「東京タワー理論」と呼んでいる。

これは、人間に対してもまるで同じことが当てはまると思うのだ。

知識としては「凄い」と感じている人がいる。でも、視界に入ると(つまり、存在としてまだまだ遠いレベルにいる時は)、案外近いのかも、と思う。で、近づいてみるのだけど、全然追いつけないし、近づいたら(つまり、存在としての距離が狭まったら)、あまりにデカくてびっくりする。

齋藤飛鳥がここで語っている感覚は、まさにこの「東京タワー理論」だろうと僕は感じている。

『だって自分に自信ないですし。昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて。単純に自分がいろいろ持っている人だったら、もうちょっと自己評価も高かったかもしれないけど、私のこの感じでどういう考えをしたら自己評価が高くなるんだろうな、っていう感じです』

「昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて」という実感こそが、まさにその象徴だろう。昔自信があったのは、存在としての距離感がまだまだ遠かったからだ。だから、対象がそこまで離れているようには見えなかった。しかし、少しずつ近付くに連れて、対象の大きさが分かってくる。それにつれて、自信も失っていく。

(補足すると、ここで言う「対象」というのは、特定の誰かでもいいし、自分の中の理想でもいいし、誰かから与えられた目標でもいい)

主に本などで、様々なトップランナーの話を読むと、トップランナーほど謙虚で他者の才能を認めている、と感じることが多い。それは、ある面では、他を圧倒するだけの地位を築き上げた余裕から来るのかもしれないけど、ある面では「東京タワー理論」から来るだろうと思う。自分が対象に近づけば近付くほど、その対象の大きさが理解でき、その自覚を通じて、自身の立ち位置をより細密に理解することが出来るのだ。

これこそ「他者への自覚」だと僕は感じる。

齋藤飛鳥は様々な場面で、気弱な発言をする。容姿や自分の声に対する評価は、さすがにちょっと自己評価が低すぎると感じるが、そういう目に見える部分ではなく、アイドルとしての意識、番組収録での貪欲さ、センターに対する意欲などの内側に関係する部分について自信がなくなっているのは、悪いことではないと感じる。何故ならそれは、齋藤飛鳥が対象に向かって近づいていることに他ならないからだ。

『逆に自分にないものがいろいろと見え過ぎちゃってる、というのはあります』

自分にないものが見えるくらい、対象に近づけている齋藤飛鳥。対象に近づかなければ決して見えないものがある。見えれば見えるほど奮起する人もいれば、落ち込む人もいる。そういう、見えた時の反応は人それぞれ様々だろうが、他者との違いが自覚できるほど接近しているという事実に変わりはない。

齋藤飛鳥はまさに今その場所に立っていて、もがいている。しかし、齋藤飛鳥は結論を急がない。

『だからといって、そういう武器が欲しいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

ここが齋藤飛鳥の強さだと感じる。今齋藤飛鳥がいる場所は、齋藤飛鳥の性格にとってはかなり厳しい場所だろう。チャレンジを楽しめるタイプならエネルギーが湧き上がってくる場所かもしれないが、基本的にネガティブな齋藤飛鳥には、答えのない問いが渦巻く辛い場所のはずだ。しかし齋藤飛鳥は、そこを積極的に脱しようとしない。

そこには、齋藤飛鳥のこんな考え方がある。

『でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ』

齋藤飛鳥にとって「現実」とは、解釈するものではなく受け入れるものだ。解釈する方が、本当は楽なはずだ。答えの出ない問いに無理やり答えを出し、これが私の武器になるのだと言って様々なものに飛びつく。そういう生き方の方が、瞬間瞬間は楽なはずなのだ。しかし齋藤飛鳥はそうしない。現実を解釈しないで、そのまま受け入れる。それは当然、納得とは程遠いものになる。しかし齋藤飛鳥は、納得出来ないままのそのモヤモヤしたものを、そのまま受け入れる。齋藤飛鳥には、その度量がある。

齋藤飛鳥は恐ろしくネガティブだ。しかしその土台に、どんな現実も受け入れる強さがある。『たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ』と語る齋藤飛鳥。もうすぐ18歳というその若さで、どんな経験をすればそんな価値観を持てるのか。外面を見ているだけでは決して分からない、内面の奥底に横たわる強さこそが、他のアイドルが持ち得ない齋藤飛鳥の強みだと感じるし、そういう部分に、僕は強く惹かれるのだ。

『でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね』

ヤバいヤツになってたかどうかはともかく(まあ、その可能性もあるかもしれない、と思わせる存在ではあるが)、今の齋藤飛鳥の立ち位置にとって、齋藤飛鳥が築き上げてきた価値観は適しているのかもしれない、とは感じる。現実を丸ごと受け入れ、他者との差を明確に意識し、答えのない問いに答えを出さないまま保持しておける。それは、常に誰かから見られ、万人受けしないと言いながらもより多くの人に好かれる振る舞いを模索し、大人数グループの中で常に差別化が求められる今の環境でその真価を発揮するのではないか。

『私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます』

齋藤飛鳥は、ますます進化していくことだろう。アイドルとして、そして人間として、どんな変化を遂げるのか。益々楽しみである。


「いろんな面を見せなきゃいけない」と感じている齋藤飛鳥は、この「別冊カドカワ」の中で「齋藤飛鳥、書く。」という連載をスタートさせた。二回目である今回のテーマは「女の子」である。


正直に言うと、僕は今回の齋藤飛鳥のエッセイは、あまり好きではなかった。これには二つ理由があると僕は感じている。

一つは、テーマの問題だ。

今回齋藤飛鳥は、自身の握手会に女の子が来てくれることが多くなってきた、ということを思考のきっかけとして、女の子という存在そのものについて思考を巡らせている。そしてそういう中で、自分が女の子に対してどういう感情を抱いているのかを書いていく。

確かに齋藤飛鳥は、女の子というものに対する自分の感覚も書いている。しかし本書のほとんどは、女の子という存在そのものについて触れられている。

これはつまり、テーマが「齋藤飛鳥の外側」に存在していることになる。

前回のテーマは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だった。まさに、齋藤飛鳥自身のことについて触れた文章だった。テーマの良し悪しは、完全に僕の個人的な趣味なので齋藤飛鳥に罪はないのだけど、やはり僕は、齋藤飛鳥が齋藤飛鳥自身について掘り下げる文章の方がいいな、と感じる。他者の観察を通じて自分の内面を捉える、というやり方ももちろん出来るし、齋藤飛鳥にはその能力はあると思う。しかし、僕の印象では、齋藤飛鳥はまだ、他者の観察を通じて自分の内面を「言葉で表現する」ということにまだ長けていないのではないか、と感じた。

自分自身についてのことであれば、捉えかつ言葉で表現するということは、実際に文章を書くかどうかはともかくとして昔から続けてきただろうと思う。しかし、他者についてとなると、感覚的に捉えることはあっても、それをうまく文字化出来ていないのではないか、と感じる。

そして、だからこそ(で繋げるのはおかしいかもしれないが)、齋藤飛鳥には他者を捉える文章を書いていって欲しいと感じる。それはきっと、うまくいかないだろう。僕自身の感覚で言えば、今回のエッセイはあまりうまく行っていないと感じる。でも、人に見られる場で文章を書き続けることで、文章というのは変わっていく。この「別冊カドカワ 乃木坂46」は、一冊丸ごと乃木坂46の特集なわけで、ある意味ではホームと言える。そのホームで試行錯誤を重ねて欲しいな、と思う(齋藤飛鳥はきっと、うまくいっていない感じを他人に見せたくない人だろうから、そういう意識は許容出来なそうだけど)。

そして二つ目の理由は、文章の論理展開だ。これは純粋に、文章の技法というか、書き方の問題だ。

ところどころ僕は、文章の繋がりが理解できない部分があった。

ある箇所では、「こういう人が好き」という話を書いたあとで、逆説の接続詞がないまま、「そういう人の考え方はちょっとダメだよ」と書く。結局その箇所では、何が結論だったのかイマイチわからない。

ある箇所では、ある行動に対して「難しいよ!」と言ったあとで、そういう行動をする人を「可愛い!」と評す。それ自体はいいのだけど、「難しいよ!」から「可愛い!」への変化に一体何があったのか、もう少し書いて欲しいな、と感じる。ちょっと飛躍しすぎているように思えてしまう。自分でもきちんと理解しきれていないということは伝わるのだけど、その箇所が全体的に、出てくる価値観が突然、という感じがしてしまう。


ある箇所では、「女性の偽る力」の話をした後で、そのままの流れで「ライバル心」の話になる。「偽る力」から「ライバル心」へと移行する部分がちょっと飛躍しすぎてる気がするんだよなぁ。

もちろんこれらは、すべてわざとやっているという可能性もある。演出なのかもしれない。あるいはこれは無意識の行為であり、こういう理路整然としていない部分に齋藤飛鳥の文章の魅力が潜んでいるのかもしれない。文章は、当然論理だけではない。まったく論理的じゃないけど、なんか惹きつけられる文章、というのも存在する。齋藤飛鳥は、その境地に至る道半ばであって、この方向を突き進むことで齋藤飛鳥独自の文章が確立されていくのかもしれない。もしそうだとすれば、僕のこの意見は、齋藤飛鳥の才能を潰す方向にしか働かないだろう。

出版物には必ず編集者がいて、編集者の目を通る。編集者がこういう部分をスルーしたまま掲載しているということは、編集者はここにこそ齋藤飛鳥の魅力があると分かっているのかもしれない。こういう部分を指摘せず自由に書かせることで、齋藤飛鳥の文章を伸ばそうとしているのかもしれない。

いずれにしても、僕が今回齋藤飛鳥のエッセイを読んで感じたことは、「この「齋藤飛鳥、書く。」の場で、とにかくやれるだけのチャレンジをして欲しい」ということだ。結果的にそれが成功しなかったとしても、「別冊カドカワ 乃木坂46」というホームでしか出来ない実験があると僕は思う。人によるだろうが、圧倒的な才能を生まれながらに持っている人以外は、文章は書いて書いて書きまくることでしか上達しない、と僕は考えている。だから僕は、齋藤飛鳥には「齋藤飛鳥、書く。」で、それまでの自分の手数にはないもので戦って欲しいと感じる。それこそが、「アイドル齋藤飛鳥」ではなく「文筆家齋藤飛鳥」に至る最短距離だと僕は思う。


さてここからは、齋藤飛鳥以外の部分から、乃木坂46全体に関係する部分を抜き出しつつ、乃木坂46の現状と未来について書いてみたいと思う。

一番印象的だったのは、「乃木坂らしさ」についての話だ。

西野七瀬と桜井玲香の対談の中で、桜井がこんなことを言っている。

『でも、そういった子(※三期生に言及している)が入ってくることによって、今までの乃木坂のカラーが変わってしまうことはちょっと怖いので、そこは基盤を築き上げてきた1期生が3期生の勢いを保てるようにうまくやりつつ、従来の乃木坂のカラーを守っていくという役目があるんじゃないかなと思っています』

そしてそれに続けて、乃木坂のカラーを保つ役割は1期生2期生がやるから、3期生は自由にやってくれ、と続けている。


乃木坂46のメンバーは様々な場面でこの「乃木坂のカラー」「乃木坂らしさ」みたいなものに言及している。僕は他のアイドルのことはよく知らないが、知らないなりに捉えているイメージで言えば、乃木坂46というのは確かに他のアイドルグループとは違う印象を受ける。それは、同じ対談で西野が『厚かましくできない子のほうが多いからなのかな』と言っているように、そして同じようなことを様々な場でメンバーが言っているように、控えめで後ろ向きなメンバーが多かった、という点に大いに立脚しているだろうとも思う。そういう「乃木坂らしさ」みたいなものを気に入っているファンももちろん多いだろうし、それを自覚している彼女たちも、それを守るべきものとして捉えている。

しかし、総合プロデューサーである秋元康氏は、「乃木坂らしさ」に対してこんな風に感じている。

『去年の神宮球場で、ライブが終わった後に反省会みたいなのがあって、そこでやたらとメンバーが“乃木坂らしさが”“乃木坂らしさが”って言うわけ。“乃木坂らしさを出していきたい”って。いやそれは違うよと。』

秋元氏は、メンバーが“乃木坂らしさ”という、言ってしまえば実態のないものに囚われている現状に対して違和感を覚えているようだ。

その違和感を言い表すのに秋元氏は、アルゼンチンにあるカミニート通りの例を出す。

『港町なんだけど遠くから見ると、淡いピンクやグリーンでものすごくキレイ。ところが近づいて見ると、一戸一戸の家は濃い原色で、しかも半分だけピンクとか半分だけブルーとかなの。どういうことかと言うと、船の塗料が余るとそれを自分の家に塗ってるんだよね。その行き当たりばったりでバラバラな感じが、遠くから見るとすごく美しい色彩になる』

秋元氏は、メンバー自身が、全体の風景に言及するようではダメだ、と言っているのだ。個々のメンバーは、勝手に自分の色を出していくべきだ。そして、本来であれば統一感が失われるかもしれない中で、渾然一体とした美しさが生み出される時、それが「らしさ」と称されるものになっていくのだ、と言う。

これはもしかしたら、齋藤飛鳥の思考に近いものがあるのではないか、と僕は感じた。

齋藤飛鳥は、乃木坂46というメンバーの一人であるが、同時に、齋藤飛鳥という一人の人間でもある。秋元氏のこの話は、「乃木坂らしさ」というグループ全体の話にも当てはまるが、「齋藤飛鳥らしさ」という個人の話にも当てはまるだろう。

武器は周りから付けてもらうものだ、と考えている齋藤飛鳥。齋藤飛鳥の中にいる「様々な齋藤飛鳥」が「齋藤飛鳥らしさ」という大きなものを指向せずに、誰かから与えられた課題、誰かにもらった武器、そういうものをその時その時で組み合わせていきながら、ある種行き当たりばったりに「齋藤飛鳥らしさ」を組み上げていく。「“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃない」と語る彼女は、内側にいる「様々な齋藤飛鳥」に自由に裁量を与えることで形ある「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものから逃れ、同時に、カミニート通りのような不定形な「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものを目指しているのではないか。秋元氏の話から、そんなことを連想した。

メンバーが「乃木坂らしさ」と言いたくなる気持ちは分かるような気がする。それまではがむしゃらにやってきて、どんな形になるのか分からないまま突っ走ってきた。これからもその気持ちは変わらないだろうが、しかしある程度形が出来てくると、逆にその形を手放すのが怖くなる。齋藤飛鳥はインタビューの中で、『今は…ファンの人が飽きないのかなって心配になることもあるんです』と言う。つまり、変えないことへの恐怖も同時に感じているのだろう。しかしそれでも、「乃木坂らしさ」という言葉を使うことで、今のままで行く自分たちの存在を肯定しようとする。

決してそれは悪いことではないと思う。恐らく多くのファンも、「乃木坂らしさ」(ファン一人一人捉えている部分は違うだろうが)みたいなものに惹かれ、変わってほしくないと感じているだろう。しかし、これまで様々なものを世に問い、時代を創り出してきた秋元氏は、メンバーに変革を求めているのだろうと思う。これから3期生も入ってくる。妹分の欅坂46も出来た。乃木坂46もそのままではいられないぞ。「乃木坂らしさ」みたいなものに安住するんじゃないぞ。秋元氏のそんな言葉が聞こえてくるような気もする。

「透明な色」ファーストアルバムのそのタイトルは、永遠に固着しない、どんな色にも変わり得る色、という意味でもあるのかもしれない。個々のメンバーの変化が、乃木坂46というグループをどう変えていくのか。益々楽しみである。


乃木坂46は、先程も触れたが、3期生の加入や欅坂46の登場など、様々な変化の渦中にいる。それらをメンバー自身はどう捉えているのか。

3期生の加入に対して、松村沙友理はこんな風に語っている。

『今気にしているのは、2期生のみんなのこと。欅坂46もできて、乃木坂3期生募集となると、そのはざまにいる2期生のことを心配してしまうんです。どうしてもこの子たちを知ってもらいたいと思っちゃう。うちにはもっとすごい子たちがいるんだぞって。』

桜井玲香はこんな風に語る。

『あと私が個人的に感じているのは、1期生は控えめな子が多かったこと。2期生は、向上心というか前を狙いにいく姿勢がはっきり見える子が、1期生に比べると多くて。それまでは狙いにいくという姿勢を取る環境じゃなかったというのもあったんですけど、今は違う。たぶん3期生が入ってきた時はそういうお手本にできるような先輩もいると思うから、もしかしたら入ってきてすぐに前に出てこられる子が増えるんじゃないかなっていう期待はあります』

捉え方は様々だが、3期生の加入で乃木坂46がどうなっていくのか、メンバー自身も様々に考えているのだろう。3期生の加入というのは乃木坂46にとっては内的な変化だ。それによって直接的に変わっていくメンバーも増えていくことだろう。秋元氏が語る「それぞれが自分勝手に色を出す」という起爆剤の一つになってくれたらいいと思う。

3期生の加入とは対称的な外的な変化が、欅坂46の登場だ。これについては西野七瀬がこんな風に言っている。

『でも欅のみんなは全てがすごいスピードで進んでいるから、それを喜ぶ余裕があるのかな、大丈夫かなって思うこともあります。そこも私たちの時とは全然違うかなって見てる感じです。追われてるというよりは違う道を進んでいるというか』

桜井玲香もこんな風に言っている。

『今のなぁちゃんの話じゃないですけど、こういうところに乃木坂のマイペースさが出ているのかなっていう気がします。そこまで「追われてる」とかって思うわけでもなく、でも普通に曲が良いからみんなも楽屋で歌ったり踊ったりしていて。(中略)そんな感じでいい距離感なのなかって思います』

先行者の余裕とも読めるし、乃木坂46のマイペースさの表れとも読める。外側から見ている限り、内部での競争みたいなものをほとんど感じさせない乃木坂46。張り合う、競い合う、闘う、と言ったような感情ではない部分で成立しているように見えるこのグループは、欅坂46に対しても競争心みたいなものが湧き出ないのかもしれない。そういう意味で改めて、「乃木坂らしさ」という言葉を使わせてもらうが、「乃木坂らしさ」の凄さ、みたいなものを感じた。

最後に、乃木坂46のメンバーの言葉ではないが、非常に印象的だった武井壮の言葉を引用して終わろうと思う。

『アイドルもタレントもアスリートも、その価値っていうのは頂き物だと思うんです。パフォーマンスのクオリティが上がったり、競技のレベルが上がったりするのは、あくまでもクオリティであって、=(イコール)バリューではないと僕は思うんです。観てくれる人が“楽しい”とか“うれしい”とか思ってくれて初めてひとつの価値になるんです』

これは、乃木坂46に限らずどのアイドルでもそうだろうが、何をするか、何が出来るかではなく、どう感じさせたか、そこにバリューがあるのだろう。乃木坂46は僕にとってバリューのある存在だが、より多くの人にとってバリューのある存在になってほしいと思いました。

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