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【本】西加奈子「サラバ!」感想・レビュー・解説

僕は出来るだけ、それぞれの場で、マイノリティであろうと意識している。
出来るだけ、周りの人がしていることをしない。同じ方向を向かない。違った意見を言う。常にそう出来ているわけではないと思うけど、出来るだけ、そう振る舞えるように意識している。


それは、本書の登場人物である『姉』とは違う感情の発露だ、と思っている。『姉』は、構って欲しくてそんな行動を取ってしまう。自分のことを見て欲しいと思ってしまう。それで、周りからすれば「奇妙な」行動ばかりしてしまう。


僕の場合は、マイノリティであろうとすることは、生存戦略に近い。


例えば、ソメイヨシノのことを考える。ソメイヨシノのは種子では増えず、接ぎ木によって増えていったという。つまり、全国各地に存在するソメイヨシノは、すべて同じDNAを持っていると言える。


さて、ある時、ソメイヨシノを枯れさせるような病気が発生したとしよう。その場合、すべて同じDNAを持つソメイヨシノは、恐らく生き残れないだろう。全部、その病気にやられてしまうはずだ。一本残らず、失われてしまうだろう。


なんというか、そういうのがイヤだなと僕は思うのだ。


同じ感じの人間が集まっていると、集団としては脆いような気がするのだ。ちょっとしたことですぐ壊れてしまうような気がするのだ。だから、僕自身は、なんとなく保険のつもりで、人とは違うことをしてみる。みんなが右を向いていれば左を向き、みんなが太陽が好きだと言っていれば僕は月が好きだと言ってみる。その方が、集団としての生存確率が、上がるような気がしているのだ。


実際にそれを経験する場面もあった。ちゃんと覚えているのは一度きりだけど、きっと何度かはあったと思う。僕自身が天邪鬼で、みんなと同じ方向を向いていなかったお陰で、結果的に集団全体が救われたようなことが、何度か。もちろん、そう頻繁にあるわけじゃない。大抵の場合、僕の選択は集団全体に影響を与えない。まあ別にそれでいい。たまに、本当にごくたまに報われるようなことがあれば、それでいいような気がする。


なんせ僕には、「こうしたい」「こうありたい」という感覚があまりないのだ。そういう意味で僕は、『姉』のようなマイノリティ思考でありつつ、基本的なベースは本書の主人公である『歩』に近い。

『だから僕は、誰かが僕の「感情」を待っている状態になると、落ち着かなかった。

「何考えてるの?」
「あたなの好きにしてよ。」
「自分の意見はないわけ?」

などという言葉や、それにまつわる言葉が、僕は怖かった。
感情を発露するのは、いつだって姉だったし、母だったし、とにかく僕以外の誰かだったのだ。』


『僕の得意技は?そう、諦めることだ。
諦観に寄り添うことで、僕はこれまで生きてこられた。生きのびてこられた、といってもいいだろう。』

『僕は家の中で、ただただ、空気と化していた。とことんまで中立であろうとすると、人間は輪郭がなくなるのだと、そのとき学んだ、僕はもう母と姉から評価されることを望んではなかった』

『僕が受け身でいたのは、ことを荒立てたくなかったからだ、能動的に何かに参加するのではなく、つまり何かの渦中に飛び込むのではなく、しばらく静観して、ことが収まるのを待つのが、そんなに悪いことなのだろうか?』

『自ら為すことなく、人間関係を常に相手のせいにし、じっと何かを待つだけの、この生活を、いつまで続けるつもりなのだろうか。』


『僕は何かことが起きると、いつも自分がそれにどれだけ関与しているか確認した。そして、「僕は悪くない」と安心していた。僕が悪くない限り、自分はそれには関係がないと思った。つまり逃げた。』

僕ももし、歩のように美しい容姿を持っていたら、歩のような生き方をしたかもしれない。僕は自分が、歩のような「卑怯な」生き方をしている姿を、ありありと思い浮かべることが出来る。僕は、歩のような容姿を持たない今でも十分卑怯なのだけど、たぶんあまりそれは目立たない(はずだ)。歩とは違って、その部分が目立ってしまうような場にあまりいる機会がないからだろう。


僕は、金持ちになるとか出世するとかそういうことにあまり関心がないのだけど、それも自分の性格をそれなりに認識しているからだと思う。たぶん僕は、金や地位を持ってしまえば、今以上にますます卑怯な人間になるだろう。そして、それに慣れきってしまうだろう。そういう自分のことを、リアルに想像することが出来る。そしてそれは、嫌だなと思う。


本書に、『須玖』という人物が出て来る。歩の高校の同級生として登場する。僕は、須玖のような高潔さに憧れる。別に須玖でなくてもいい。人間的に高潔だなと感じる人には、いつも憧れてしまう。それは、僕自身が、絶対にそうはなれないと知っているからだ。

たぶん僕は、須玖のような人間の近くにいたら、とても劣等感を抱く。祝福すべき時に、相手の幸せを踏みにじるかもしれないことをした歩のような行動を取ってしまうだろう。そういう自分が好きではないけど、まあしょうがない。

『もう、生まれ落ちてしまったのだ。
僕には、この可能性以外なかった』

歩が、まだ幼い頃に、そう達観する場面がある。歩の家族は、普通の家族と比べてかなりトリッキーなのであるが、歩は幼い頃からそれに対して、仕方ないという諦念を抱いていた。


僕も、まあそうだなと思う。この可能性以外なかったと思う。僕は決して、過去に遡ってやり直したいなどと思わないのだけど、もしそうせざるを得ない状況があったとして、でもきっと僕は、今と同じ場所にいるだろう。


子どもの頃から、マイノリティ路線でいられたわけではない。子どもの頃は、まったくもって歩と同じ戦略を取っていた。空気のように気配を消すこと。そして、人気のある人の近くにいること。


空気のように気配を消すことは、これまた歩と同じく、家庭環境にとって培われた。と言っても僕の場合、別に家族が変だったとか辛い境遇にあるとかそういうことはなく、ただ僕が家族のことが嫌いだっただけなんだけど、自分の部屋もないような狭い実家の中で、どうやってこの嫌いな人達と一緒にやり過ごすかということを考えて、気配を消す術を身につけたのだと思う。


そして、人気のある人の近くにいる方法は、勉強をすることだった。僕は、どこにいても、勉強を教えるという立ち位置を確保することで、人間関係を乗り切ったと思う。歩のような、容姿でリードすることは出来なかったから、何か自力で武器を身につける必要があったけど、やっていることは歩と同じだった。


マイノリティ路線を進めるようになったのは、たぶん、20歳を超えてからだろう。その時点で僕は、背負っていたもの(大したものではないのだけど)を一度全部肩から下ろして捨ててしまわないと、身動きが取れなくなっていた。そのついでに、背負っていなかったものも一緒に捨てたのだと思う。それから、少し気が楽になった。他人の視線を意識しないこととか、誰かの意見に影響されないとか、そういうことがとても心地良かった。


マイノリティ路線を進むと、自分を評価する評価軸を自分で作れるという利点がある。作れる、というか作らざるを得ない。何故なら、同じようなことをしている人が少数であるが故に、明確な評価基準がないからだ。


マジョリティの中に身を置くと、そこには様々なモデルケースを見つけることが出来るだろう。それは、今の自分との違いを比較する対象がたくさん存在することになる。後ろ向きな人であれば、自分より良いモデルケースばかりを見て、自分はダメだと思うかもしれない。また、マジョリティであればあるほど、メインとなる評価基準がいつしか出来上がる。そのメインの評価基準から外れてしまうと、自分を自分なりに評価することは難しくなるかもしれない。



恐らくそうなってしまったのが、歩だ。歩は常に、他者の評価基準の中で生きていた。自分がどう思うかではなく、他者からどう見られるかで自分の人生を判断していた。もちろんそれは、20歳前の僕も同じだ。自分で自分を評価する術を知らなかった。


マイノリティであった『姉』は、自分で自分を評価する余地があった。しかし、『姉』にはそれは出来なかった。何故なら『姉』は、マイノリティであることによって、「見られたい」「注目されたい」と思っていたからだ。ここに『姉』のねじれがある。『姉』は、自分で自分を評価できるようになるまで、長い長い遠回りを続けることになった。


須玖こそまさに、自分で自分を評価できる男だろう。僕も、もっと若い頃から、そんな風に自分で自分を評価できる人間だったら良かったな、と思う。昔のことを後悔しているわけではない。結果的に勉強をしまくった学生時代は、僕にとって悪い思い出ではないし、他者の視線が気になるからこそのコミュニケーション術みたいなものもきっと体得出来たのだと思う。だから後悔ではないのだけど、時々思う。もっと健全な流れで、自分で自分を評価できる人間になれていたら、どんな人生だっただろう、と。


歩の生き様を読んで、改めて僕は、自分の軽薄さを、卑怯さを、真剣味のなさを実感した。まあそれでも、もう僕はこういう自分をかなり認めている。『もう、生まれ落ちてしまったのだ。僕には、この可能性以外なかった』のだ。それは結局逃避なのだろうけど、これからも僕は逃げ続けるし、逃げ場所がなくなったってきっと逃げ続ける。そうなった時に、僕にも、「ティラミス」みたいなものが見つかるといいんだけど。


歩は、イランで生まれた。生まれた時から「恐怖」と戦うかのように、僕は左足から出てきたそうだ。父の海外赴任先だったイランのことは、あまり覚えてない。大阪で、姉の奇行と、姉の奇行に振り回されまいと踏ん張る母に振り回されながら、歩は、びくびくしながら生きていた。歩は、姉のようにはヘマをしなかった。姉をずっと反面教師のようにしながら、無難な日常をこなしていた。


それぞれの時代に、様々な年代の人と関わり、歩の人格は形成されていく。他者基準でしか物事を判断できない歩は、いつだって、何かに熱くなろうとはしなかった。もちろんそれは、姉の奇行も影響していただろう。いつでも、どんなものでも手放すことが出来るような立ち位置を確保して、他者を見下すようにしてしか、他者と関わることが出来なかった。


それでも歩は、美しかった。それに、歩の卑怯な内面は、歩のたゆまぬ努力によって、常に覆い隠されていた。歩は、表面上、とても良い風に振る舞うことが出来た。でもそれは、親密な関係になればなるほど、ボロが出た。


そして三十歳を過ぎて歩は、自分が、ダメになっていることを知った。


現時点(というのがいつのことかはさておき)の歩の視点から、歩と歩の周辺の人たちを描いた自叙伝のような作品になっている。『歩』という人格を作り上げてきたものをすべてひっつかんで並べたというような感じで、幼稚園の時の好きな女の子の話なんかも出て来る。自分がどんな場面でどんな風に感じ、どういう判断を下してきたのか。そしてその背景に、姉や母や父の影響がどのようにして関係しているのか。奇行を繰り返す姉と、女であり続ける母、そして優しすぎる父。彼ら4人の関係性は、うなるようにして変化し、その変化がさらに彼ら家族に影響を与え、バタフライ効果のようにして大きな変化をもたらすことになる。

『あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ』

姉の言葉だ。姉は、長い遠回りの末に、この言葉を歩に伝えた。

『信じるって何?』

歩は、人生で最も大切な親友に、そう尋ねた。彼も、長い遠回りの末に、その親友の元へとたどり着いた。

僕は、何かを信じるということが怖い。それは、信じたものに裏切られることが怖い、ということだ。だから僕は、出来るだけ何も信じないようにしている。というか、裏切られても、まあ別に信じてなかったしね、と思えるように心の準備をしている、という感じだ。

だから僕にも、姉からそう言われた時の困惑と、親友にそう問うてしまった時の不安が、分かるような気がする。歩も僕も、何かを信じるということをしないことで、心の平穏を保つ。


歩はこれから、どんな風に人生を歩んでいくのだろう。何かを信じることが出来るだろうか。信じられるものを見つけただろうか。見つけたかもしれないし、見つけていないかもしれない。

でも、見つけていなくても大した問題ではない。歩には、姉の言葉が届くようになった。『でもね、歩。私は少なくとも、信じようとしたのよ。』という姉の言葉が、たぶん理解できるようになっただろう。歩は、姉とはまた違った形で彷徨を始めた。長い長い彷徨だ。きっとその過程で、何かを見つけることだろう。


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