【映画】「太陽の子」感想・レビュー・解説

凄く面白かったというわけではないが、なかなか興味深い作品だった。しかし、「日本でも原爆開発が行われていた」というのは正直全然知らなかった。本作で描かれているのがどの程度史実を反映させているのか分からないけど、研究の規模や進み具合などはきっと実際に即しているのだろうし、だとすれば本当に無謀な研究だったなと思う。

僕は物理学が好きで、当然、マンハッタン計画に関連する話も色々知っているので、そりゃあもう比べ物にならない。本作で描かれる「日本の原爆開発」は、「京都大学の一研究室で学生と共に行っている研究」でしかないが、「マンハッタン計画」は「当代随一の原子物理学者を集めて行われた研究」なのだ。しかも「町を1つ作る」ぐらいのむちゃくちゃな予算規模で数年もかかっているのだ。そりゃあ、日本が勝てる余地なんかないだろう。

本作でも、「原爆開発」と言ってやっていることは「遠心分離機の開発」である。彼らは、焼き物の工房に保管されている「硝酸ウラン」をどうにか手に入れ実験を行っている。しかし、硝酸ウランの99.3%はウラン238で、これは核分裂しない。核分裂するのはウラン235だけである。含有率はわずか0.7%。そしてそれを単離するために遠心分離機が必要になるのだ。

計算によれば、「最低でも10万回転(毎分かな?毎秒ってことはないと思うけど)」は必要らしい。しかし、彼らが当初組み上げた遠心分離機は、1万回転がやっと。1944年時点でも、そのレベルに留まっていたのだ(ちなみに、このような話は作中で解説される。核分裂の仕組みについても割とちゃんと詳しく説明されるので、その辺りは結構頑張ってるなと思う)。

さて、仮に10万回転の遠心分離機を作れたとして、まだまだ問題はある。そもそも「硝酸ウラン」が手に入らないのだ。原子爆弾を作るのに必要な硝酸ウランは数万トンらしいが、海軍に言っても全然届かない(そもそもこの研究は、海軍から秘密裏に依頼されたものである)。焼き物の工房にある硝酸ウランをどうにかかき集めて実験を行っているが、そもそも爆弾を作るのであれば原料が足りなすぎるのだ。

この点に関して、ある場面で学生と教授らが議論をしていた。要するに、「こんな先の見えない研究じゃなくて、もっと実用的なものを作るべきじゃないか?」というわけだ。

しかしここで教授(だと思う)が、こんな話をしていた。

【今の戦争はどうして始まった? エネルギーの問題だ。前の戦争もそうだ。そして原子核物理学は、無限のエネルギーをもたらす。そうなれば、世界から戦争は無くなる。これは夢物語か? 科学者が夢を見ないでどうする】

なるほどな、と思う。少なくともこの教授は、「戦時中に原子爆弾の開発は不可能」だと理解していたのだろう。しかしそうだとしても、原子核物理学には価値がある。後に原子力発電に繋がる技術だからだ(個人的なスタンスを書いておくと、僕は「原子力発電の技術は信頼しているが、運用する人間(技術者以外)を信頼していない」となる)。

恐らくこの教授は(公式HPによると、「日本の原子物理学の第一人者」らしい)、海軍から「原子爆弾の開発」を依頼され、遠い未来のことを思い描いたのだと思う。爆弾はきっと作れないだろう。しかし今ここで研究を続けることが、未来への種となる。それが日本を、そして世界を豊かにするはずだ、と。

そういうスタンスは、後半のある場面でも強く示唆される。研究室のある学生が教授に「どういうことですか?」と詰め寄る場面があるのだが、その際にもこの教授は「未来の日本のために」というスタンスを明白に示すのである。

さて、「日本の未来」という話でいうと、全然別の状況だが面白い場面があった。本作の主人公は、原爆開発を行う兄・修と、軍人になった弟・裕之、そして2人の幼馴染である世津なのだが、この3人が縁側で話をする場面がある。そしてその中で世津が、「戦争が終わったら教師になる」と宣言するのだが、それに対して修が「戦争が終わった後のことを考えているのか?」と聞くのである。

修がどんな意図でそんな発言をしたのか、はっきりとは分からない。「『戦争が終わる』という発想がそもそもなかった」のか、あるいは「研究に没頭しすぎてそんなことを考える余裕もなかった」のか、あるいは別の理由なのか。いずれにせよ、そんな修の発言に対して世津が、「日本を良くするための戦争なんでしょ? だったら終わった後のことを考えておかないとダメじゃない」みたいなことを言っていて、「そりゃそうだよな」と感じた。

ただそれは現代から過去を見ているからそんな風に思えるわけで、特に終戦直前の時期は「敗戦濃厚」みたいな雰囲気もあっただろうから、だから余計「戦争が終わる」なんて言えない雰囲気があったのかもしれない。「戦争に勝つ」ならともかく、「戦争が終わる」なんて言ったら、「日本が負けるとでも言うのか!」みたいに言われる時代だったなんてこともあるだろう。そんなわけで、「戦争が終わった後のことを考えているのか?」なんていう「アホみたいな質問」が成立してしまう時代だったんだなという感じだし、この点だけでも「イカれた時代だったんだな」という感じがした。

さて、本作には「アインシュタインの声」がちょいちょい挿入されるのだが(というか、観ている間はアインシュタインの声だと確信は持てなかったけど)、そんな演出がなされている理由は、主人公の1人である修が「科学バカ(というか実験バカ)」だからだろう。

「核分裂によって放たれるエネルギー」は、アインシュタインが生み出した有名な式「E=mc2」で計算出来るわけで、それでアインシュタインが関わってくる。で、英語でのアインシュタインの問いかけは要するに、「人間は真理を追わずにはいられない」ということを示唆しているのだと思う。

アインシュタインの声が、「核分裂が発見された時、科学者は狂喜したが、同時に恐れもした」みたいなことを言っていた。最初に理論的な枠組みが作られたわけだが、当時は「理論的には可能だが、実際には無理だろう」と思われていた。というか、そう思いたかった、みたいな部分もあるかもしれない。なにせ、ほんの僅かな質量で化け物のようなエネルギーを生み出せてしまうからだ。

しかし人類は結局、核分裂の技術を手にしてしまった。真理を追うことを止められないからである。そしてそんな1人が修であり、マンハッタン計画に参加した科学者たちも同じだった。

原子爆弾を開発した科学者の多くは、爆弾を完成させた後で、その使用に反対した。科学者としては、「トリニティ実験」と呼ばれる、砂漠での爆破実験を行い、その威力は十分に理解していたし、これが街に投下されたらとんでもないことになるということも理解できていた。恐らく、「作らなければ良かった」と後悔した者もいたことだろう。

ただそれでもやはり、「そこに未知の安易化があれば突き進みたくなってしまう」のが科学者であり、本作ではそんな「どうにもしようがなさ」みたいなものも描かれている感じがした。

広島に原爆が投下された後、京大の研究室のメンバーはその調査のため現地に向かった。そしてそこで、「これが私たちが開発しようとしていたものなんですね」と修が零すのだ。もしかしたら彼らは、「原爆を開発出来なくて良かった」とさえ感じていたかもしれない(そうではないことを示唆する描写も本作中にはあったが)。

で、ここまで書いたようなことが色んな形で描かれるのだが、正直、焦点が定まらないというか、散漫というか、そんな印象が結構あって、全体としてのまとまりは何となく歪な感じがした。原爆開発の話と、修・裕之・世津の話があんまり上手く混じり合っていない感じがして、「全然違う2つの物語が同時並行で進んでいく」みたいな印象があった。ちょっとその点はしっくりこなかったかな。

あと、「修の狂気」が存分に発揮される後半のあるシーン(というか「決断」)は、「なるほど」という感じだった。「凄いことを考えるものだな」と思うけど、「狂気的な科学者であれば自然な発想か」という気もする。ここは「おっ」という感じがしたし、その後、「山を爆走した末にある事実を知るシーン」は、最初それが何を意味しているのか分からなかったぐらい情報が少ないのだけど、「あぁ、なるほどそういうことか」と分かって、その極限まで要素を削ぎ落とした形で「その事実」を描く描写はなかなか印象的だった。

あとは、凄く思い入れがあったというわけではないのだが、やはり三浦春馬を久々に目にして、何とも言えない気分になった。ホントに、その訃報に接した時には驚愕したことを覚えている。

さて、今回は再上映みたいな形で、だからだろう、エンドロール後に未公開のメイキング映像が流れた。10分弱といったところだろうか。エンドロールが始まったら席を立ってしまうという方は注意してほしい。

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