【映画】「紙の月」感想・レビュー・解説

物凄い、緊張感だった。
とてつもない、緊迫感だった。
アクションがあるわけではない。爆発が起こるわけではない。地球が滅亡するわけでもない。
それなのに、この張り詰めた雰囲気は、一体どこから生み出されるのか。

『自由って、そういうこと?』

取り除けない異物を、ずっと内側に感じ続けていた。
ずっとずっと、腹の底に、重たい石があるような感じだった。
石が、その重さでもって、僕をどんどん沈めようとしていくのが分かった。
締めつけられるのは、胸ではなく、腹だった。こんな感じ方をさせられる体験は、ここ最近記憶がない。

『行きます。行くべきところに』

冒頭で、少しずつ、主人公の置かれている状況が明らかになっていく。
ほとんどの情報が出揃った時、観客は、その後の物語の展開をほぼ予測することが出来るだろう。
この映画の中には、観ている者を裏切るような驚きの展開や、想像もつかないような状況が描かれることはない。
日常とは言いがたいが、僕たちの世界と地続きであると、力強く実感させるような舞台で、
どこにでもいるような、少し幸せで、少し不幸せな女性を描いていく。

『みじめなの?』

彼女の人生が破綻することは、明確だ。
そうならなければ物語は閉じないし、そうなる過程も、ほとんど予測がつく。
「しかし」と繋げるべきか、「だからこそ」と繋げるべきか、ずっと判断に迷っているが、
「しかし/だからこそ」、観客は、重苦しい緊迫感にさらされることになる。

『それでも、何も変わらない?』

主人公の女性がどんな心情でいるのか、それははっきりと捉えられる形で描かれる場面は少ない。
僅かな変化から、観客はそれを読み取ることになる。
しかし、主人公の心情とは別に、観客は観客で、主人公と恐らく似ているだろう感情を抱かせられる。
観ているこっちが、ヒヤヒヤする。
どうなるかわかっているからこそ、崩壊を恐れる。
もう引き返すことが出来ないことを知っているからこそ、主人公の笑顔が痛い。
観客は、映画を観ている間中ずっと、「落下直前のジェットコースター」に乗せられている気分になる。
いつしか、「早く落ちてくれ」と願っている自分に気づく。

『ニセモノだから』

物語は、淡々と進んでいく。誰も声を荒らげないし、感情の爆発は見られない。
物語的に、ここで大いに盛り上げるだろう、という場面でさえも、他の場面と同じようなテンションで描かれていく。
それは、主人公の「ニセモノの感情」にリンクしているようにも感じられる。
「私は、ずっと平常心よ」とでも言いたいかのように。

『一緒に、行きますか?』

梅澤梨花は、銀行に勤めている。
ずっと専業主婦だったが、パートから始めて4年目で契約社員になった。他の担当では口説き落とせなかった気難しいおじいさんから契約を取る。仕事は順調だ。やりがいを感じられるほどに。
子供のいない梅澤夫婦。梨花は、少しずつ、夫との「ズレ」を感じる。一つ一つは、大したものではない。しかし、それが積み重なっていく。夫に意見する自分は、内側からは出てこない。初めから存在しないとでもいうように。

そんな時梨花は、人生を一歩踏み外す決断をする。自分に好意を寄せているようにしか感じられない大学生と関係を持つのだ。
仕事は順調。顧客からも信頼されている。夫との関係は相変わらず。浮気相手との関係には、ずぶずぶとのめり込んでいってしまう。
そして梨花は、一線を越える。

物語の導入は、非常に繊細にスタートする。梨花という人物が、いかに仕事熱心で、悪意がなく、真面目に生きてきた人間であるかを描きつつ、その穏やかな日常に、少しずつヒビを入れていく。冒頭では、実に日常的な状況が細やかに描かれていく。銀行内部での人間関係、夫との関係、ちょっとした出来心、ちょっと奮発した買い物。浮気でさえも、この物語の中では「日常」に含めてしまっていいだろう。そういった細やかな「日常」から、印象的な場面をいくつも挟み込むことで、「始点」と「終点」の、その壮大な落差を埋める準備を進めていく。

この物語では、「お金」が人を変えてしまう。あっさりと、否応なしに。
しかし、この映画を、「お金は人を変えてしまう」というテーマの物語と捉えることに、僕は少しだけ抵抗がある。
何故なら、この物語で描かれる「お金」は「ニセモノ」だからだ。もっと言えば、「手触りのないお金」である。

もし梨花が手にしたのが、「両親の遺産」や「自身が作った芸術作品の対価」などの「手触りのあるお金」であれば、同じお金であっても、梨花は恐らく道を踏み外しはしなかっただろう。梨花は、自堕落な女ではない。堅実で、真面目で、どこにでもいるような、敢えて表現すれば「小市民」的存在である。目の前にあるのが「手触りのあるお金」なら、梨花は惑わされることはなかったと思う。
しかし、梨花の掌の上にあったのは、「手触りのないお金」だ。顧客から大金を受け取り、銀行内でその紙幣を数えているという意味では「手触り」は存在するのではない。そもそも、「紙幣」という形そのものに、お金の価値があるわけではない。そこに「手触り」は宿らない。梨花にとっては結果的に、掌の上にあったものは、ただの「数字」だ。数宇としての「お金」でしかない。
もちろん、「手触りのないお金」を前にしたら、すべての人間が惑わされるわけではない。ないのだが、しかしこの物語においては、「手触りのないお金」であったということは、非常に重要な要素だと思う。
この物語を、「お金は人を変えてしまう」物語と捉えると、「お金」が主役に思える。しかし、この物語において「お金」は主人公ではない。何故なら、それは「ニセモノ」だからだ。「ニセモノ」、つまり「何かの代替物」でしかないからだ。

『キレイですね。ニセモノなのに』

それは一体、なんの「代替物」なのか?
それが、冒頭で描かれる「スキマ」である。
この物語は、「スキマはお金では埋められない」という物語だ。「お金は不格好な代替物でしかない」という物語だ。
梨花には、「以前から積もり積もっていたスキマ」があった。そして、これは別の時間軸で描かれるが、梨花には「スキマはお金で埋められるはずだ」という原体験があった。そしてそのタイミングで、「数字でしかない手触りのないお金」が目の前にあった。
だからこそ梨花は、足を踏み外してしまう。
この物語の肝は、この三要素を、いかにしてリアリティ溢れる描き方をするか、という点に掛かっている。いやむしろ、可能な限りリアリティのある描き方をして欲しいと、観客の誰しもが切実に願っているという表現をしてもいいかもしれない。
何故か。
徹底的にリアリティを追求し、自分とは違う環境であることを知ることで、「自分はそうはならない」と思いたいからだ。

『受け取ったら、何か変わっちゃうよ』

しかし、観客のその期待は、良い形で裏切られることになる。映画の中で、先に挙げた三要素は、圧倒的なリアリティをもって描き出される。しかし、観客の期待をよそに、そのリアリティは、僕らの日常にも同じことが起こりうるのだということを、見事に突きつける形になる。
梨花は、まず「妻」であり、それから「女」になり、最後に「犯罪者」となる。「妻」から「犯罪者」への道のりは遠いはずだ。誰しもがそう思う。自分はそうならないはずだ。そう思いたい。しかし、物語は、観客をそんな地点に安住させない。遥かな落差があると思っていた「妻」から「犯罪者」への道筋が、思っていたよりずっと近いことを僕らは知ることになる。ちょっとしたきっかけが、僕らの背中を押すことがあるのだと、突きつけられることになる。

『お金なんて、みんな同じじゃない』

冒頭から淡々と描かれてきた様々な描写が、ここで力を持つことになる。「日常」の範囲内に収まっている要素を組み合わせるだけで、「非日常」へと引き寄せられることがあるのだと、僕たちは知ることになる。「誰しもが抱く感情」の有限な組み合わせが、無間の闇に繋がっていることを、僕らは知ることになる。
僕たちは、「青信号なら前に進むことが出来る」ということを、無意識の内に信じている。「青信号になったから渡ろう」なんて意識することはほとんどないくらいに、それは当たり前の行動になっている。

だから、「青信号」に変わっても前に進むことが出来ない自分を発見して、呆然とすることになる。そんな風に世界が崩壊するという現実に、唖然とすることになる。
だからこそ、この物語においては、冒頭の地味でなんでもないような、でも「日常」の内側に属している些細なズレの存在が、最後まで力強く響いてくるのだ。
その中でも、夫の関係の違和感の描き方が絶妙だった。

『どうして、時計にしようと思ったの?』

夫とのやり取りの描かれ方の絶妙な点は、「この映画の中で描かれる夫は世の中にたくさん存在しそうだ」と感じられること、そして「夫のやり取りに何故妻が違和感を抱くのか、本当に理解出来ない男も一定数存在しそうだ」と感じさせるところにある。
それぐらい、夫婦の間の違和感は、さりげなく、些細な形で描かれるのだ。
それは、『えっ、(送別会)楽しかったの?』 『おめでとうは?』という言葉に現れ、また妻の服装の変化に気づかない(気付いていても言わないだけという可能性もあるが)に現れる。一つ一つは、本当になんでもない、誰かに愚痴って相談するようなものではない、些細なことだ。しかし、表に現れるこれらの些細な描写から明らかなのは、梨花と夫はあまりにも価値観が違いすぎるということだ。梨花がおかしいわけでも、夫がおかしいわけでもたぶんない。どちらにしても、それぞれを受け入れてくれる異性は存在するだろう。ただ、二人の価値観は合わない、というだけだ。そして、梨花にとっては困ったことに、梨花だけがそれに気付いている。
梨花が「犯罪者」となり、その在り方がいつ崩壊するか、という形でハラハラさせられたのと似たような感じ方を、この夫婦に対して感じた。恐らく、梨花が「犯罪者」とならなくても、この夫婦の関係はいずれ破綻していただろう。そう僕には思わされる。先ほどと同じように、その内包された崩壊の予兆に、ハラハラさせられるのである。

梨花は明らかに「犯罪者」であり、言い訳が受け入れられるような状況にはない。しかしだからと言って、僕らは、梨花の有り様を責めることが出来るかと聞かれたら、それはNOと答えるしかないだろう。梨花とまったく同じ道を行くことはないかもしれない。しかし、誰の人生にも、梨花が落ちたような奈落は口を開いて待っている。運が悪かった、という表現では、梨花の主体性を無視する形になって適切ではないが、しかし、たまたま落ちてしまったと言ってもいいくらい、梨花と同じことは僕らの人生にも起こりうるのだ。その恐ろしさが、物語全体から、圧倒的な質量をもって飛び出してきていた。それが観客の腹の底に溜まり、僕たちは、重苦しい何かを抱えたまま、自分の分身であるかもしれない梨花の人生を「見させられる」ことになる。
その恐ろしさは、圧倒的だった。

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