東京オリンピック開会式の騒動に関するモヤモヤについて
本日、東京オリンピックの開会式が行われる。そして、その直前にバタバタと、小山田圭吾、小林賢太郎が辞任・解任されるという事態になった。
この騒動に関して、僕にはどうもモヤモヤする点がある。今回は、僕が感じるモヤモヤについて書いていく。
そのモヤモヤを一言で説明するとこうなる。
【我々日本人に、小林賢太郎を責める権利があるだろうか?】
具体的な理屈についてはこれから触れていくが、この記事で僕が主張したいと思うのがこの点である。
さてまずは、今回の騒動に関して、僕が理解している事実を下に挙げる。この事実の捉え方に何か誤りがあるとすれば、この記事の主張にも誤りが出てくるので、その点はご容赦いただきたい。
<僕が理解している今回の騒動の要点>
・小山田圭吾は、雑誌に掲載された内容に事実と異なる点があるとしながらも、「いじめを行っていた」という事実については認めている
・小山田圭吾に関しては、同様のインタビューが掲載された雑誌が複数存在する
・小林賢太郎は、コント内でのユダヤ人に関する発言以外、指摘されている点はない
また、僕は、小山田圭吾にも小林賢太郎にもさほど興味がない、とも書いておく。ラーメンズは、いくつかネタを映像で見たことがあるし、面白いと思ったが、だからと言って特にファンというわけではない。
それでは、僕のモヤモヤについて書いていこう。
まず大前提として、「小林賢太郎の解任」「小山田圭吾の辞任」は妥当だ、と僕は考えている。ここは揺るがない。
そして、この記事の中で僕が主張する判断基準は、以下の2点である。
(A):加害者の「行動」の「直接の被害者・関係者」の主張は最大限考慮されるべき
(B):加害者の「行動」の「直接の被害者・関係者」ではない場合、「思想に問題があり、社会の構成員として認めたくないという判断を元に非難する権利がある」と考える
「小林賢太郎の解任」が妥当だと判断する理由は、判断基準Aによる。今回、ユダヤ人の団体が声明を発表し、「どのような理由があれ、小林賢太郎の発言は許されない」と言っている。
ユダヤ人の団体は明らかに「直接の被害者・関係者」と言えるだろう。その主張は最大限考慮されるべきだと僕は考えるし、ユダヤ人団体がこのような声明を発表した以上、小林賢太郎は当然解任されるべきだ。
一方、小山田圭吾の場合、詳しく知っているわけではないが、「直接の被害者・関係者」からの反応は、少なくとも世間に知られる形では出されていないように思う(障害者団体が声明を発表しているが、これが「直接の被害者」と関係するのかは分からない)。
しかし仮に「直接の被害者・関係者」の反応がなくても、小山田圭吾の辞任は当然だと思う。それは判断基準Bの理由からだ。
小山田圭吾は、「障害者へのいじめという『行動』」「自身のいじめを人前で堂々と自慢するという『行動』」をしているが、これらは我々には直接的には関係ない。「行動」の直接の被害者である「いじめられた本人とその周囲の人」にのみ関係がある、と僕は考えている。
しかし彼の「行動」から、我々は「小山田圭吾は障害者を差別する『思想』を持っている」と判断できる。報道によれば、小中高校と長きにわたっていじめは継続したようだし、その後もそれを自慢話のように語っている。これらの「行動」から小山田圭吾の「思想」を問題視するのは当然だ、と僕は思う。
そして、このような「思想」に問題のある人物を社会の成員として認めたくない、と考えるのは当然であり、それ故、小山田圭吾は辞任してしかるべきだと思う。
このような理由から僕は、「小林賢太郎の解任」「小山田圭吾の辞任」は妥当だと考えている。
さて、ここで問題になるのは、「我々日本人は小林賢太郎を、判断基準Bを理由に非難することができるのか?」という点だ。この点に僕はモヤモヤしている。
まず、現時点で知られている小林賢太郎の「行動」は、「コント内でユダヤ人を蔑視するような発言をしたという『行動』」である。しかしこれは、我々には関係ない。関係があるのは、ユダヤの人たちである。
では、この「行動」から「小林賢太郎はユダヤ人を差別する『思想』を持っている」と判断できるだろうか?
僕は、この点には無理があると感じている。
もちろん、小林賢太郎がユダヤ人への差別感情を持っている可能性は完全には否定しきれない。しかし、少なくとも現時点で分かっている限りにおいては、彼がユダヤ人への差別発言をしたのは一度である。
「一度だから問題ない」と主張したいのではない。たとえ一度であっても、その「行動」は「直接の被害者・関係者」を傷つけることは間違いないし、その点は先述の通り僕も問題視している。
しかし、たった一度の発言から、「小林賢太郎はユダヤ人を差別する『思想』を持っている」と判断してしまうのは無理があるのではないかと思うのだ。
しかもこれは、コント内の発言だ。繰り返すが、「コント内の発言だから問題ない」と言いたいのではない。「行動」としては問題だが、その「行動」から「小林賢太郎の思想」を推定するのは暴挙ではないか、と言いたいのだ。
小林賢太郎の発言は問題である。しかしそれは「行動」として問題なのである。そして、その「行動」からは彼の「思想」までは推定できない、というのが僕の考えだ。
だとすれば、判断基準Bを理由に、我々日本人が小林賢太郎を「社会の成員として認めたくないので非難する」と考えるのは正しくないように感じられてしまう。
もちろん、繰り返すが、小林賢太郎の「行動」は問題だ。そして、「行動」には「直接の被害者・関係者」がおり、小林賢太郎がその「直接の被害者・関係者」に対して適切な対応をしているのか否か、という観点から彼を非難できる可能性はある(しかしあくまで「可能性」程度の話であり、正直言って余計なお世話だと僕は思う)。
その点に関しても、少なくとも騒動が発覚してから小林賢太郎は、きちんと自らの非を認める声明を出している。直接的にユダヤ人団体にアクションを起こしているのかどうかまでは知らないが、マスコミを通じて発表した謝罪文を読めば、「タイミングを見て小林賢太郎は何らかのアクションを起こす(あるいは既に起こしている)」と読み取れるだろう。
このように考えた場合、我々日本人には、小林賢太郎を非難する理由は無くなると私は思っている。
今の世の中では、「行動」の「直接の被害者・関係者」ではない人間がでしゃばりすぎていると僕は感じてしまう。「直接の被害者・関係者」なら何をしても構わない、と言いたいわけでもないが、少なくとも「直接の被害者・関係者」じゃないなら黙ってろよ、と感じてしまう場面が多すぎる。
今回の小林賢太郎の件に関しては、「直接の被害者・関係者」の声明があるが故に、解任自体は妥当なのだが、だからといって、直接的にまったく関係ない我々日本人が小林賢太郎を非難していいのかと言えば、それはちょっと筋違いではないか、と思うのだ。
もちろん中には、「たった一度であろうが、コント内であろうが、差別的な発言をすれば、そういう『思想』を持っていると判断されて当然だ」という主張の方もいるだろう。そういう主張を持っている方に届く言葉を、僕は持っていない。恐らくそういう人とは、僕は永遠に分かり合えないだろう。
人間はどんどん変わる生き物だ。過去に起こしてしまった「行動」は変えられないし否定もできないが、「思想」は時間経過や経験によってどんどんと変わる。過去にたった一度行った「行動」から何らかの「思想」が判断可能だと認めるとしても、その「思想」がずっと継続しているという証明にはならない。
その理屈を真面目に適用すれば、小山田圭吾に関しても同様の判断が可能ではある。つまり、過去の「行動」から差別的な「思想」を持つと判断されるが、今ではその「思想」は変わっている可能性がある、と捉えることはできる。
ただ、あくまでこれは僕の感情的な判断でしかないが、小山田圭吾の場合は、そう判断するにはちょっと無理があると感じられてしまうほど、報道内容が酷い。実際に現在は差別的な「思想」を持っていないのだとしても、それを他人に信じてもらうための多大な努力が必要、というのが僕の判断である。
このような理由から、僕は小林賢太郎の取り上げられ方にはモヤモヤしたものを感じてしまう、というのがこの記事の趣旨である。
そして、最後にこう付け加えたい。どれだけ過ちを犯した人間であっても、やり直すチャンスのある社会であってほしい、と。もちろん、やり直すスタートラインに立つためにしなければならない、卑近な表現を使えば「禊」のような行動は山ほど必要だろう。しかし、「過ちを犯した人間には二度とチャンスはない」という社会は、あまりにも厳しすぎると思う。
というような思考が、ここ最近頭の中をぐるぐるしていたので、きちんと文章という形で出力することにした。
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