【映画】「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」感想・レビュー・解説

本当にクソみたいな現実だった。そりゃあ、イスラエルとパレスチナの間で起こっていることはすべてクソみたいな現実だとは思うし、本作で描かれているのがその中でどの程度のヤバさなのかは、知識のない僕にはなんとも言えない。ただ、本作を観れば、そのあまりの酷さに驚かされるだろう。

まずは、そんなあまりにも酷い、本作で映し出される現実を説明しておこう。

舞台は、イスラエルにあるヨルダン川西岸地区の中のマサーフェル・ヤッタという地域。「19世紀の地図にも載っている」という、パレスチナ人(アラブ人)の住む地域である。

本作は2019年の映像から始まり、2023年まで継続的に撮影が行われているのだが、その間何が行われていたかというと、「イスラエル軍による住居の破壊」である。武装したイスラエル兵士が大挙してやってきて、住民に「家から家財道具などを出す」ように命令する。そして空っぽになった家をブルドーザーで破壊していくのだ。

マジで意味が分からない。

正直なところ、僕は本作を観終えて公式HPを見るまで「マサーフェル・ヤッタがヨルダン川西岸地区にあること」を理解していなかったのだが(作中で説明があって、僕が見逃しただけかもしれないが)、僕の理解では、「ガザ地区とヨルダン川西岸地区は、パレスチナ人の生活が認められている」はずだ。もちろん、イスラエル軍がガザ地区を空爆したりしているので、ガザ地区もヨルダン川西岸地区も安泰なわけではないが、少なくとも「パレスチナ人の生活が許容されている土地」として扱われているはずだ。

にも拘らず、マサーフェル・ヤッタにはイスラエル軍が大挙し、強制的に住居を壊す形で住民を追い出そうとしているのだ。

どうしてそんなことになっているのか?

本作では、主人公的な存在であるマサーフェル・ヤッタ出身のパレスチナ人・バーセル(彼は活動家の両親の下で育った)が、目の前で起こっている現実をスマホで撮影し発信することで現状に影響を与えようとしているのだが、そんな彼が「僕がカメラを持つようになった頃から、終わりが始まった」と言っていた。恐らくその頃から、イスラエル軍による破壊が始まったのだろう。そのタイミングで挟み込まれたニュース映像では、「1967年の占領以来、最大規模の立ち退きの可能性」「8つの村で1000人(別のニュースでは2500人)が危機に瀕している」と報じられていた。

どうやら、イスラエルの最高裁が、マサーフェル・ヤッタの住民を追い出すことを許可したそうなのだ。その理屈は、「軍の訓練地だから」だそうだ。「元々軍の訓練地だったから」という主張なのか、「軍の訓練地に新たに指定されたから」という主張なのかはよく分からなかったが、とにかくイスラエルは「マサーフェル・ヤッタは軍の訓練地であり、軍の訓練地に居住することは禁止されているので、家も水道も井戸もすべて違法だ」という理屈で、何もかもぶち壊していくのである。

もちろん、住民たちも何もしなかったわけではない。この問題は1990年代から顕在化しており、住民は裁判所に「立ち退きの取り消し」を求めて提訴していた。しかし裁判所は、22年間掛けてその訴えを退け、裁判所からの許可を得た軍が実力行使に打って出ているのである。

それは本当に「実力行使」としか表現できないものだった。パレスチナ人(アラブ人・アラビア語?)とイスラエル人(ユダヤ人・ヘブライ語?)では言語が違うようで、お互いに直接的に会話は通じない。映画の字幕は、言語の違いが分かるような表記になっていて、「お互いが通じない言葉で怒鳴り合っている様子」が見て取れる。そしてイスラエル軍は、通訳などを連れてくるでもなく、身振り手振りで「家財道具を出せ」みたいなことを指示し、その上で、有無を言わさずに建物をぶち壊していくのだ。

本当に、イカれているなと思う。

こういう時僕は、「イスラエルの兵士たちは何を考えているだろう?」と考えてしまう。もしも、「本当はやりたくないが、軍の命令だから仕方ない」と思いながらやっているのなら、まだ救いがあるように思う。ただ、もちろんパレスチナ人のカメラで撮られた映像なのでそういうシーンが多いだけかもしれないが、僕の目にはそういう風には見えなかった。「言葉が通じない」というのは置いておいて(というか、コミュニケーションを取るつもりならイスラエル軍が通訳を連れてくるべきだし、そうしていない以上、彼らにはコミュニケーションの意思はないと判断するしかない)、イスラエルの兵士たちは「お前たちは違法なことをしているんだ」の一点張りですべてを進めようとしているように見える。

まあもちろん、「他人の家を壊す」なんて行為をやろうと思ったら、「自分は正しいことをしているんだ」とでも思い込まなければやってられないと思うので、そういう感じに見えてしまっているだけかもしれない。まあこの辺りはなんとも言えないが、しかし、別の形でイスラエル人(ユダヤ人)の本音を知ることが出来る。

本作にはテレビ番組の映像が何度か使われるのだが、その1つに、「マサーフェル・ヤッタでの立ち退きに関する是非を討論するもの」がある。そして、イスラエル擁護の主張をする人物が「軍の訓練地に居住しているのは違法だし、強制的に退去させられて当然だ」みたいに発言している場面があるのだ。そう言っていたのが誰だったのかよくわからないが、何か専門家的な人なのだろう。恐らく、イスラエル人的には、そういう感覚が支配的なんじゃないかと思う。

しかし本作には、そうではないイスラエル人も登場する。それが、もう1人の主人公であるユヴァルである。彼はイスラエル人記者であり、「マサーフェル・ヤッタの立ち退き問題」に憤りを感じ取材を進めている。実際に、武装したイスラエル兵士に歯向かうような行動も取っている。パレスチナ人であるバーセルとイスラエル人であるユヴァルは、国同士は争っているが、立場を越えて友情が芽生えている。そんな2人の関係も描き出す作品である。

本作には何度か、バーセルとユヴァルが2人で語り合う場面が映し出される(本作を観ながら僕は、「誰がカメラを回しているのか?」と思っていたのだが、本作は、バーセルとユヴァルを含む4人の若き映像作家兼活動家が監督・撮影を務めているようだ)。「両親が活動家」という特殊な環境で育った彼は、当然のように活動家となり、マサーフェル・ヤッタでも中心的な人物と目されている。何度も逮捕された勇敢な父親は、家族を養うために給油所の仕事に専念しており、今はバーセルが抗議活動の中心になっている。そんな期待に自覚的であり、どうにかしようと奮闘しているのだ。

そんなバーセルを、ユヴァルは「凄まじい」と感じている。「自分が同じ立場にいたら、そうはいられないだろう」と感じているというわけだ。2人は同い年らしく、そのこともあってユヴァルは、バーセルの「強さ」に圧倒されるのだろう。

だからこそユヴァルは、「こんな酷い現実を世界に伝えなければ」と奮闘するのだが、その想いは空回ってしまう。印象的なシーンがあった。車の中でバーセルがユヴァルに「君は熱くなりすぎている」と諭すシーンだ。「ダメかな?」と問い返すユヴァルにバーセルは、「君は10日でこの地を離れるだろうけど、この問題は数十年も続いているんだ。すぐには解決しないし、負けたって続けていくしかないんだ」みたいに言っていた。

そう、これは2人が出会ってからまだそう時間が経っていない頃のことだと思うのだが、バーセルの「君は10日でこの地を離れるだろうけど」に、やはり棘を感じる。いや、恐らくバーセルは棘を含めたつもりではなくて、単に事実を指摘しただけだろう。10日かどうかはともかく、「ここにはずっといられない」というのは事実だ。数十年関わっている問題なのだから、ユヴァルがどれぐらいここに留まろうと考えていたとしても、バーセル視点からは「すぐに帰っていく」ように見えてしまうだろう。

そして、ユヴァルは実際に「帰ることが出来る」のだ。ここには2つの意味がある。1つは、本作のタイトル『ノー・アザー・ランド』にも関係するが、「他に帰る場所がある」という意味だ。彼は日々マサーフェル・ヤッタに通ってくるのだが、夜になると家に帰る。別にそれは責められることではないが、いずれにせよ「他に帰る場所がある」ということだ。バーセルたちとは違って。

そしてもう1つは、「イスラエルのあらゆる場所を行き来出来る」という意味だ。実は車のナンバーの色に意味があり、イスラエル人の車のナンバーは黄色、パレスチナ人の車のナンバーは緑と決まっている。そして「黄色のナンバーの車でなければ通行できない場所」がたくさんあるのだ。ユヴァルの車はもちろん黄色ナンバーで、だからどこにでも行ける。しかしバーセルの車は緑ナンバーであり、ヨルダン川西岸地区からは出られないのだ。

バーセルとユヴァルは、同じような想いを持って現実に対処し、同じぐらい危険な状況に直面しながら日々活動を続けている。しかし、やはり圧倒的に立場が異なる。どれだけユヴァルが熱心になろうとも、その”恵まれた”立場がある意味では邪魔になる。バーセルとユヴァルが仲違いするようなシーンはないが、本作には、バーセルと同じ村の住民(顔の区別がつかないのだが、もしかしたらバーセルの父親だったか?)が、ユヴァルと喧嘩(本人は「ディベート」と言っていた)しているシーンがある。「こんな状況で、ずっと『友達』でいられるか?お前の親族や友人が家を壊している可能性だってあるんだぞ」と詰め寄っていたのだ。

まあ、そう言いたくなってしまう気持ちも分かる。というのも、イスラエルの兵士とはそもそも言葉が通じないので、議論にもならないからだ。アラビア語が流暢に話せるユヴァルに意見をぶつけ、「お前はどう思っているんだ?」と聞きたくなる気持ちも分かる。分かるが、しかしやはり、「ユヴァルに詰め寄ってもなぁ」とも思ってしまう。

ちなみにユヴァルは、高校時代に友人とアラビア語を学んだことで流暢に話せるまでになったらしいが、そのお陰(と言っていいのか分からないが)で、イスラエルの諜報部からスカウトが来たという。スパイ的なことを期待されていたのだろう。しかしユヴァルは、アラビア語を学んだことで「物の見方が広がった」と話していた。だからこそ、そのスカウトを断れたのだという。異なる言語で物事を捉えることで、新たな視点が得られたということなのだろう。

さて、先程「イスラエル軍による強制的な立ち退きを肯定するようなコメントをテレビ番組でしていた話」をしたが、その際マサーフェル・ヤッタの現状を伝える人間として出演していたのがユヴァルである。そして彼はその番組の中で、「パレスチナ人の自由無しには、我々の安全はない」と主張していた。もちろん、彼は本当にそう思っているのだと思うが、単にそれだけの発言ではなく、「他人事だと思っているだろうけど、実は自分たちの問題なんだぞ」という理解を広めようという意図も含まれているはずだと思う。

映画の後半、バーセルとユヴァルが2人で話しているシーンで、どちらが言ったのか覚えていないが(ユヴァルだったかな)、「世界が狂っていく」という発言があった。本当にその通りだなと思う。別に僕は、自分がまともで常識的だなんてまったく思っていないが、それにしたってイカれた主張・価値観が当たり前のように蔓延る世の中になってしまったなと感じている。トランプ大統領は、的を射たことを言っていることもあるように思うがムチャクチャな発言だなと感じることも多いし、彼に限らず「極右」みたいに呼ばれている世界各国のリーダー的な人たちの発言も結構ヤバい。あるいは、もっと身近な話で言えば、特に若い世代は「SNSの情報は、『発信者のフォロワー数』や『ツイートのリツイート数』の多さで真偽を判断する」ことが多いらしく(僕にはちょっと意味不明すぎる)、だからこそ「誤情報」が簡単に広まってしまう。

そりゃあ、世界も狂っていくわなと思う。

そして、少しでもそんな「狂い」を押し留めようと、「正しいことを正しいようにやる」という信念だけで彼らは行動しているのだと思う。

マサーフェル・ヤッタの住民は「非暴力的な抵抗」を続けている。イスラエル軍は暴力的な横暴で無茶苦茶なことをしてくるわけだが、住民は家を壊されても井戸を埋められても、長年住み続けた土地を離れずに奮闘する。それは相当茨の道だが、「暴力なんかには屈しない」という強い想いの現れなんだと思う。

そういう状況において、バーセルが口にした次のような言葉は、とても印象的だった。

【確かに今彼らは、強い軍と技術力を持っている。
でも、弱かった時のことを忘れるべきじゃない。
暴力では何も解決しない。】

本当にその通りだなと思う。というか、イスラエル軍による「暴力」は、「『解決』なんて別に望んでいない」という態度の現れのようにも見える。プーチンやトランプと同じように、「どういう形であれ『終結』させればそれでいい」みたいな発想なのだろう。当事者の一方がそういう立場だとすれば、本質的にはきっと何も解決しないだろうし、イスラエルに住むパレスチナ人はこれからもしんどい状況に置かれ続けるのだろう。

本当に狂った世界だなと思う。

作中で誰かが(バーセルだったか)、「水1滴じゃダメでも、しずくが続けば変わる」みたいに口にする。イスラエルがこんな横暴を続けられるのも、世界がその現実を知らないからだろう。だから、「誰か1人がこの現実を知ること」が「水1滴」なのだろうし、多くの人が知れば知るほど、それは「しずく」になっていく。

遠く離れた地の出来事ではあるが、僕らにも「水1滴」になれる方法はあるというわけだ。

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