【映画】「OXANA/裸の革命家・オクサナ」感想・レビュー・解説
オクサナ・シャチコという女性のことは本作で初めて知った。家父長制に支配されていたウクライナで、女性の権利のために闘い続けた女性だ。「21世紀で最もセンセーショナルなフェミニスト活動団体」と公式HPで紹介されている「FEMEN」を設立し、ベラルーシやロシアでも抗議活動を行い、ムチャクチャ危険な状況に置かれたりしていた。よくそんなことが出来たものだなと思う。
さて、彼女たち「FEMEN」が何故センセーショナルと言われたかと言うと、それは「トップレスで抗議を続けたから」だと思う(他にも理由があるのかもしれないが)。裸の胸にメッセージを書き、公衆やカメラの前でトップレスになって主張を続けた。
初めはある抗議の場でオクサナだけがトップレスになったのだが、その際、カメラマンが一斉にシャッターを切ったことにオクサナは可能性を感じた。そこで他のメンバーにもトップレスになることを勧めるのたが、もちろん抵抗があると言われる。で、その時にオクサナが言っていた言葉が印象的だった。彼女は「脱ぐんじゃない。制服を着るの」と言っていた。「裸こそが戦闘服」と言うわけだ。彼女はそのような信念を貫きながら抗議を続けた。
さて、先に書いておくが、本作は冒頭で「オクサナ・シャチコの生涯に着想を得た作品で、出来事や視点などは制作側が創作した」みたいな表記がなされた(「創作した」という表現ではなかったかもしれないが)。「◯◯に着想を得た作品」みたいな表記はよく見かけるが、「出来事などはフィクションである」みたいなことまで書いてるのは珍しい。
で、本作は、「2003年から10数年間のウクライナ」と「2018年7月23日のフランス・パリ」の2つの時空を行き来しながら物語が紡がれるのだが、2003年なんて四半世紀前だし、2018年なんかつい最近だ。だから「どうして『着想を得た』なんて表記になっているのか」画疑問だった。恐らくだが、彼女の生涯をそのまま描いても作品として成立するぐらい激動だっただろうし、そう出来ない理由は別にないだろうと思っていたのだ。
ただ、映画を最後まで観てその理由が分かった。なるほど、そういう事情なら「着想を得た物語」にするしかなかっただろう。
さて、内容にあれこれ触れる前にまず、僕の「抗議活動」に関する私見について書いておこう。正直な話、僕はオクサナのやり方(トップレスで抗議する)を支持できない。
度々ニュースになるが、「環境活動家が美術館のアート作品にトマトスープをぶちまけて抗議する」なんて話が出てくる。で、個人的には、このやり方は嫌いだ。それは「アート作品に罪はない」みたいな理由ではない。僕は、「『仲間になりたいと思えない抗議手法』は逆効果でしかない」と考えているのだ。
環境活動家が環境を守ろうとするのも分かるし、抗議活動によって主張を広く訴えようとするのも理解できる。ただ僕は、「アート作品にトマトスープをぶちまけるような人たちの仲間になりたいとは思えない」と感じてしまうのだ。
これは僕の持論だが、抗議活動は結局「賛同者を増やす」ために行うのでなければ意味がないと思う。で、賛同者を増やすために主張し、そのメッセージを広め、共感してもらう必要があると思っている。しかし、トマトスープをぶちまけても、共感してくれる人は増えないだろう。
確かにインパクトはあるし、だから主張が拡散されることは確かだ。「主張を拡散させること」が目的なら正しいやり方だと言えるだろう。しかし、抗議活動の最終目的はそこにはないはずだ。辿り着きたい地点がそれぞれにあり、そしてそこに社会を向かわせるのが最大の目的だろう。そしてだとすれば、賛同者を増やす以外にない。
だから僕は、「その抗議手法は、『仲間になりたい』という賛同者を増やせるかどうか」が良し悪しの大きな判断基準になると考えている。
そしてこう考えた時、「トップレスになって主張する」というのはどうしたって「仲間になりたい」と思わせる手法ではないだろう。なにせ最初はFEMENの同志でさえ躊躇していたのだ。そのやり方は広まらないだろう。
もちろん、「そういう過激なことでもしないと、そもそも声すら届かないのが現実だ」みたいな状況だったのかもしれない。あるいは、そのインパクト故に最初は大きな注目を集めるみたいな効果もあったと思う。でもやっぱり僕は、長期的な視点で見た時、「『仲間になりたい』と思えないやり方」で状況が大きく変わるとは思えない。
作中では、「ウクライナから始まったフェミニズム的な運動が、他の東欧諸国、そして西欧にも届いてる」みたいな話が出てきたので、もちろん彼女たちの活動は一定の(あるいはそれ以上の)成果をもたらしたのだとは思う。ただ、恐らくだが、彼女たちの活動は何か実際的な変化を生まなかったんじゃないかな。というのも、こういう物語の場合、最後によく「『FEMEN』の活動によって◯◯のような変化が生まれた」みたいなことが字幕で表記されるからだ。本作にはそれがなかったので、彼女たちの活動は結果的に「具体的な変化」というところまでは辿り着かなかったのではないかと思う。
同じ土俵で語るのは憚られるが、しかし結局のところ、「迷惑系YouTuberが広く支持されない」のと同じ話だと思う。もちろん注目は集めるし、一定の支持は得られるだろうが、それ以上はない。小銭を稼ごうとする迷惑系YouTuberならそれでも別にいいんだろうが、「社会を変える革命」を目指す者にとっては、やはりその着地点は不十分に感じられるだろう。
そしてそういう側面があったからだろうか、本作では決してオクサナ・シャチコという女性を英雄的には描かない。映画の受け取り方はそれぞれでいいが、人によっては本作を観て「オクサナはちょっとイカれている」なんて風に思ったりするんじゃないかな(僕はそこまでは感じなかったけど)。まあ、実際にオクサナも、「私たちは、勇気があって、そしてちょっとイカれてる」と言っていたので、自覚はあったのだろう。
で、僕としては、本作が英雄譚として描かれなかったことが良かったなと思う。今の時代、ウクライナを舞台にした物語を作ろうとしたら、どうしたって「ウクライナを良い感じに描く」みたいな風潮が生まれてもおかしくない。しかし本作では、ウクライナで正義のために闘い続けた女性の障害を、決して美談としては描かない。その点に、制作側の信念みたいなものが感じられて良かったなと思う。
繰り返すが、僕はオクサナが選択した「手法」は間違っていたと考えている。しかし、彼女の生き様はとても勇敢だなと感じた(ロシアの投票所にカメラマンと2人で乗り込んで、トップレスで「プーチンは暴君」「投票は操作されている」と主張するなんて、普通出来ないだろう)。フランスで難民申請をしているオクサナは、その担当者に、自身がどれだけ危険な状況に置かれているのか説明するのだが、それを聞いた担当者が「難民申請は小説じゃないの。妄想は要らないのよ」と口にしていた。彼女の主張をまったく信じなかったわけだが、まあそれも無理はないだろう。
そんな凄まじい生涯を駆け抜けた女性を追う物語である。
内容に入ろうと思います。
2018年7月23日、フランス・パリで彼女は初の個展の初日を迎えようとしていた。政治難民としてウクライナからフランスへとやってきて、そしてアーティストとして活動を続けている。ウクライナにまだ残る母親と電話をし(母親からやっと離婚したと聞き、オクサナは歓喜の声を上げる)、初の個展を前に記者からインタビューを受ける(「FEMEN」時代のことも聞かれていた)。作中、この2018年7月23日の描写が時々挟み込まれる構成になっている。
で、物語のメインは、彼女が生まれ育ったウクライナ・フメリニツキーである。2002年、彼女はイコン画(宗教画のようなもの)を描いて家族の生計を成り立たせていた。工場の閉鎖により父はアルコール依存症となり、彼女が家計を支えるしかなかったのだ。しかし、イコン画を依頼する教会は、彼女が女性だからだろう、事前に約束した報酬が支払われない。また、当時のウクライナは家父長制や男尊女卑が当たり前のように社会に蔓延っていた。そんな状況に耐えられず、彼女は家を飛び出す。
その後彼女は街頭討論で出会った仲間たちと共に、女性の権利を守るための活動に奔走する。酔った医師が女性患者2名を死なせた事件で大々的な抗議活動を行い、全紙一面を飾ったことで、彼女たちは「FEMEN」という団体名をつけ、さらに活動の幅を広げていく。
その後、首都キーウに活動の場を移し、その中で「トップレスは使える」と直感、他のメンバーも説得し、裸の胸にメッセージを書いて抗議を行うスタイルになっていく。
しかし、あるメンバーが説得して加入させたインナを巡って不協和音が響くようになり、さらに、ベラルーシやロシアでの抗議活動の余波もあって、FEMENの面々はどんどん追い詰められていく……。
というような話です。
さて、冒頭ではオクサナを否定するようなことをあれこれ書いたが、ただ何にせよ、「ここに問題がある」という事実を可視化させたという点はやはり評価されるべきだろう。
作中では、「前世代の女性が現状に疑問を抱いていない」みたいな描写が結構あったりする。例えばオクサナの母親は、父親が自宅に火をつけてしまったのに、「父親が悪いんじゃない、アルコールのせいなのよ」みたいなことを言っていた。また、街頭討論をしていた女性たちにマンションの階上から「あなたたち、結婚しなさいよ」みたいな声が降ってきたりもした。この時に、予告でも使われていた「ウクライナでは売春か結婚しか選択肢がない」というセリフが出てくる。
もちろん、前世代の女性たちだって色んな考えを持っている人がいたと思うが、それでも「これは問題であり、解決すべきことであり、声を上げなければならないことなんだ」という認識にまでは辿り着かなかったのだろう。しかしオクサナらは、「これが問題である」と声を上げた。「問題がここにある」とまず認識させなければ当然解決に至ることなどない。誰も声を上げていない時に「ここに問題がある」と指摘するのは相当に勇気がいることだろう。そういう点では、オクサナらの行動は素晴らしいなと思う。
印象的だったのは、初個展を前に記者からインタビューを受けていたオクサナが、「あなたは何者ですか?」みたいに聞かれる場面がある。そこで、「政治難民でありアーティストであり革命家であり性の過激派であり」と言いながら、さらに「ここにいるのが私」と言っていた。加えて、「私であることからFEMENは切り離せない」みたいなことも言っていたのだ。
そしてその上で、
【私は永遠にFEMEN】
とも口にしていた。この時点で彼女は、色々あって、自身が立ち上げた「FEMEN」から離れてしまっていた。つまり「FEMEN」という組織には属していなかったというわけだ。しかしそれでも彼女は、「誰だってFEMENになれる」と言っていたし、つまり「組織に属していようがいまいが、私がFEMENであることに変わりはない」という認識でいたのである。
この時彼女は、「革命は匿名であるべきで、エゴも栄光も関係ない」とも口にしていたのだが、その時点ではまだ、オクサナがどうしてそんな話をしたのか分からなかった。しかしその後、「何故彼女がFEMENから離れてしまったのか?」という描写がなされ、それでなんとなく理解できたかなと思う。はっきりとは描かれないが、あまりにもスタンスに違いがあったために、一緒にやっていくことが出来なかったのだろう。
そしてそんな描写から、「オクサナが本心から『エゴも栄光も関係ない』と考えていたんだな」ということが伝わってくるし、だからこそ余計に、彼女の純真さみたいなものが浮かび上がるなと思う。オクサナは本当に「正義のため」に走り続けたのだと思う。そして恐らくだが、彼女と同じ熱量で前進できる人が多くなかったが故に、色んなことが上手く行かなかったのだろう。あまりにも情熱がありすぎたが故に結果としては上手く行かなかったんだろうなと感じさせられた。
「幸せのカタチ」を他人が勝手に決めるわけにはいかないが、しかし、オクサナには革命に身を投じる以外の「幸せのカタチ」もあったんじゃないかと思えてしまう。しかしやはり、彼女自身は別の人生ではきっと幸せを感じられなかったのだろう。彼女の生涯が幸せなものだったのかも他人が判断することではないが、彼女が「どん詰まりだけど、私はやり切った」と思っていたんだったら、まだ救われるかなと思う。
最後に。鑑賞後に公式HPを読んで知ったことだが、本作の主演女優はウクライナ出身らしく(しかも映画初主演だそうだ)、ウクライナ侵攻が続く中Zoomでのオーディションで抜擢されたそうだ。停電や警報などでオーディションが何度も中断される状況にあっても、監督は「ウクライナ俳優の起用」にこだわったそうで、そういう制作の背景もまた、本作の真実味・力強さに寄与しているんだろうなと思う。
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