【本】内田樹+釈徹宗「日本霊性論」感想・レビュー・解説
『自分がどうして大学をドロップアウトしたあと、カリグラフィーの授業にもぐていたのかジョブズがわかったのは、それから十何年した後です。最初のマッキントッシュのパソコンを作ったときに、ジョブズは「フォントを選択できる」ことを標準仕様にしました。それまでパソコンの文字の書体は一つしかありませんでした。でも、ジョブズは、マッキントッシュのコンピュータでは、フォントを選択できるだけでなく、字間も自動調整できて、文字がきれいに見えるようにした。』
『自分が今していることの意味は今はわからない。人はいるでも計画的にものごとをしたがる。まずこれをやって、それからこれをやって、これをやると、あそこに到達するだろう。そういうふうに考える。でも、実際には現時点から予測的に未来を見通すことはできない。自分が今していることの意味は事後的に振り返った瞬間にわかる。後ろを振り向いたときに、はじめて「点がつながる」』
『言ってもいいけれど、自分が今していることと未来の自分の達成の間の相関を今ぺらぺらしゃべれるような人間は決してスティーブ・ジョブズのような人間にはなれません。今のような研究計画の書き方を強制している限り、そのような大学からは本当にイノベーティブな才能は絶対に出てきません。』
『ジョブズは一番たいせつなのは、あなたの心と直感に「従うこと」ですと言ったのではなく、一番たいせつなのは、あなたの心と直感に「従う勇気を持つこと」ですと言ったのです。心と直観に従うためには勇気がいるんです。というのは、みんなが「心と直感にしたがって生きる人間」に向かって「それはおかしい」と言うからです。「お前は間違っている。他の人はそんなことをしない。みんなと同じようなことをしろ」と。そういう無数の妨害を押しのけて、自分の心と直感に従おうとするためには勇気が要る。
その後にジョブズはこう続けます。なぜ心と直感に従わなければいけないのかというと、「なぜならば、あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいかをなぜか知っているから」。なぜか知らないけど、知っている。これは真に創造的な仕事をしてきた人ならではの、経験に裏打ちされた言葉だと思います』
本書は、思想家の内田樹と、宗教化の釈徹宗が大学で行った集中講義を書籍化した作品です。テーマは「霊性」。これだけ聞くと、スピリチュアル的な、胡散臭い宗教的な、そういう話を連想されるでしょう。僕もそうです。だから、そういう本ではないということを端的に伝えるために、冒頭にジョブズの話を持ってきました。
しかし、理由はそれだけではありません。
僕は、本書の「構成」によってひどく感心させられました。「構成」とカッコで括ったのは、それは著者や編集者の意図するところではないからだ。
本書を読んで僕は、内田樹の凄さを改めて実感した。
本書は、大雑把に言うと、前半が内田樹、そして後半が釈徹宗のパートとなっている。そして、内容は内田樹のパートの方が圧倒的に面白い。釈徹宗のパートも、つまらないわけでは決してない。しかし、こうやって同じテーマで同じぐらいの分量が並べられることで、内田樹の面白さが非常に引き立つ構成になっている。
釈徹宗は、禅を欧米に広めたことでも知られる鈴木大拙の「日本的霊性」という作品をテキストにして、それを読み解きながら、鈴木大拙が到達した「日本的霊性」とは何なのか、という話を掘り下げていく。これはこれで興味深いのだけど、いかんせん、スタート地点が堅すぎる。鈴木大拙の名前を知っている人もいるだろうし、禅や日本的霊性と言ったものに関心を持つ人もいるだろうけど、しかしそれはやはり、日常的な感覚からは遠い。釈徹宗のパートは、どうしても、スタート地点においてある程度は禅や日本的霊性と言ったものに関心を持つ者に、否応なしに向いてしまっている感がある。
しかし、内田樹のパートは違う。内田樹は、僕らの日常や現実、手の届きそうなリアルから話を始めていく。これは、「霊性」というものをテーマにしようとする時、非常に正しい態度だろうと感じた。本書では「スピリチュアル」という単語はあまり出てこないが、「霊性」と聞いてパッとイメージがつくのは、そういうスピリチュアル的なものではないだろうか。そして、そういうものに親しみを感じる人も多いだろうが、どうだろう、平均的な日本人は、そういうものに胡散臭さを感じ取ってしまうものではないだろうか。だから、「霊性」の話を「霊性という概念」をスタート地点に据えて始めてしまうのは、とても危険に思う。
内田樹は、「裁き」「教育」「医療」と言った、非常に日常的なものについてまず語り、そしてそれと同列のものとして「祈り」を語る。そしてそれらを「おのれの尺度を超えるもの」として捉え、そこからさらに論を進めていくという構成になる。途中、難しい話にもなるのだけど、議論の立脚点が非常に日常的なものであるが故に、読めてしまう。日常的なものと、その難しげなこととの関係性が気になってくる。そして最終的に、なるほど!という地点に連れて行かれる。あらためて内田樹の凄さみたいなものを感じた作品でした。そんなわけで僕も、本書の紹介に際して、一般的に関心の高そうなものから触れてみる、という部分を真似してみたのでした。
というわけで以下、内田樹のパートがどんな風に展開していくのかをざっくり追ってみたいと思う。
まず内田樹は、橋口いくよという人物の話を取り上げる。
『橋口さんは、震災後の何日目か、二日目か、三日目かに、ふと思い立って、原発の方向に向かって手を合わせて、お祈りを始めた。原発に向かって。「東京から来た橋口だよ」って。原発相手に「ため口」というのが面白いんですけど(笑)。「お願いだから、そんなに怒らないで、熱くならないで。もっとクールダウンしてね」と、そうやって毎日お祈りしている。すると、原発が怒っていると自分の身体もだんだん熱くなってくる。原発が落ち着くと体温も下がる。原発と自分の身体が同期するようになったんだそうです。』
さて、この話をあなたは、どんな風に受け取るだろうか?僕は、基本的にはこういう話は好きではない。嫌いと言っていいぐらいだ。ンなわけねぇだろ、と思う。原発が怒っていると自分の身体も熱くなるなんて、ンなアホな、と。僕はそういう受け取り方をする。
本書を通読して、僕はこのエピソードに一番感心しました。このエピソードを、集中講義の最初に持ってきた内田樹に。
このエピソードを、僕のように受け取る人って、少なくないと思うんです。ウソだろと。怪しいなと。胡散臭いなと。意識的なのか無意識的なのか分からないけど、内田樹が冒頭にこのエピソードを持ってきたことで、聞いている人間はそういう感情を抱くだろうと思う。
しかし、内田樹の話を聞いていると次第に引き込まれていく。なるほどと思う。そうか、そことそれがそう繋がるのかと思う。そして最後には、なるほど!となる。そうなってみて、この原発のエピソードを思い出すと、これがすんなり理解できてしまう自分を発見する。これは、なかなか驚きます。最初は嫌悪感を抱いていたエピソードなのに、内田樹の話を最後まで聞くと、なるほどそれはそういうことなのかと腑に落ちる。この原発のエピソードが冒頭にあるお陰で、聴衆は、自分が最初とはまるで違う場所にいるのだということを実感することが出来る。そういう意味で、冒頭にこのエピソードを持ってきた内田樹は凄いと感じたのでした。
「祈り」について、冒頭の方では「人知の及ばないことについて天の助けを求めること」「「そういう場合」を想定してみること」という程度の説明しかしません。まだ聴衆の準備が整っていないからです。しかしそれでも、「感知できないはずのことを感知するために、こちらのセンサーの感度を高めておく」という機能は、なんとなく理解できるようになります。
この後いくつか、人間が本来持っているはずの、「感知できないはずのものを感知する力」について、いくつか具体例が出されます。冒頭のスティーブ・ジョブズの話も、その一つです。東郷平八郎が抜群に運の良い男であったことや、「ブリコルール」と呼ばれる人たちがどんな基準でモノを拾っているのか、成果が出ることを先に示さなければ研究予算が下りない現状などについて触れます。そして、「情報」というものについて、こんな風に書きます。
『情報というのは、僕たちが情報だと思っているよりもっと多くのものを含んでいる。そして、センサーの感度のよい人は実は情報そのものではなく、「情報についての情報」を同時に入力している。それが「情報リテラシー」と呼ばれるものです』
「情報」についてのこういう側面が、最近見失われているのではないか、という問題提起から、「裁くこと」「教育」「医療」について触れていきます。
この内、「教育」と「医療」については、僕は、内田樹の「下流志向」という作品で読んだことがあります。「教育」も「医療」も、市場原理に放り込まれてしまったせいで、その本来のあり方からかけ離れてしまっている、というような内容です。
読んだことのある話ですが、しかし内田樹の文章は、同じ内容をくり返し読んでもあまり既視感がありません。それは、一読しただけでは血肉化するのが難しいからだろうと思います。内田樹の文章は基本的に平易に書かれていて、難しい文章を読むのが苦手な僕でも全然読めます。でも、平易に書かれているからと言って、スッと内側に入っていくかというと、そういうわけではありません。今まで考えたこともなかったような視点で議論が進んでいくために、一読でそのすべてを内側に取り込むのはなかなか難しい。本書の場合も、一度読んでいた内容ながら、改めて面白い視点だよなぁと感心させられました。
「教育」も「医療」も、市場原理に則って、生徒や患者を「お客さん」と扱わざるを得なくなったことで崩壊していったと内田樹は書きます。これは、非常に説得力があります。内田樹は、「裁き」「教育」「医療」「祈り」などは社会的資本であり、市場原理にさらされるべきではないと言います。
『(「教育」や「医療などは」)何かを創り出すものではありません。集団を定常的に保つのがその機能です。存続させることが最優先かつ唯一の課題であって、それ以外のことはとりあえずどうでもいいんです。でも、このような「集団を定常的に保つ働き」のじゅうようせいガ今の社会では忘れられているように僕には思われます』
『人間が共同的に生きていくためには「急激には変化しない方がよいもの」がたくさんあります。(中略)そういうたいせつなものは、入力変化に対する感応の遅い、惰性の強いシステムに委ねなければならない』
『司法と医療と教育に対しては政治からも市場からも激しい攻撃が仕掛けられています。告発事由はそれぞれに違いますが、言い分は一緒です。「社会の変化に即応して制度が変化していない」です。これに関してはすべての論者が一致しています。「社会的共通資本は急激な変化から社会を守るためにわざわざ惰性的に制度設計してあるのだから、それに対して『変化が遅い』という批判を加えることは筋が違う」というかたちで制度防衛の論を立てる人をぼくは見たことがありません』
さて。内田樹は、「裁き」「教育」「医療」と並列して「祈り」を語ります。
『耳を澄ます。外部から自分に向かって到来し、切迫してくるものに耳を澄ます。外部kら到来するというのは、それが「何だかわからないもの」だということです。名前がまだない。それが何であるかを言うことはできない。わかっているのは、「何かが自分の方に向かって切迫してきている」という実感だけですそれが彗星のように、たまたま自分の近くをすり抜けて、どこかに通りすぎていくものであれば、そんなものについてセンサーが発動することはない。真っ直ぐこっちに向かってくることがわかるから反応するわけです。何かがこちらにやってくる。それに身体が反応する。「切迫してくるもの」は危険なものかもしれないし、有効的なものであるかも知れない。僕を傷つけるものであるかもしれないし、僕を強めるものであるかも知れない。それはまだわからない。プラスであれマイナスであれ、未知のものが外部から到来してくる。センサーがそれに反応して、アラームが鳴動する。心身の能力が最大化して、何が起きても対処できるように、スタンバイする。宗教というのは、この「外部から到来するもの」に応接するための最も効果的な技法なのだと僕は思います』
内田樹なりの「祈り」論が、ここに集約する。何度か触れられるが、とにかく「祈り」というのは「外部への感受性を高める行為」であり、そしてそれは「裁き」「教育」「医療」と共に、集団の維持にとっては欠かすことのできない要素であると内田樹は説きます。
そしてここで、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出てくる。
昔この本を読んだんだけど、よくわかんなかったなー、と思っていた。本書では、主人公のホールデンの「ライ麦畑のキャッチャー」の話を援用して、「歩哨」という概念を提示します。
知っている人は知っているでしょうが、ホールデンがなりたい「ライ麦畑のキャッチャー」というのはこういう存在だ。ちゃんとした大人が一人もいないだだっ広いライ麦畑の崖っぷちに立って、崖から落ちそうになっている子供を片っ端からひっつかまえる役割。ホールデンは、そういうものになりたいと語る。
内田樹はこの「ライ麦畑のキャッチャー」を「歩哨」と捉える。僕らが生きている世界には「人間が生きていけるエリア」と「人間が入ってはいけないエリア」があり、その境界線上に「歩哨」は立っている。そして、「裁く人」「教師」「医療者」「聖職者」は、その境界線上に立つ「歩哨」なのだと説きます。
『ですから、歩哨に立つ人はセンサーの感度をどこまでもあげられる人でなければならない。歩哨として自分が守っている同胞たちの痛みや悲しみをおのれ自身の痛みや悲しみとして感知できる人でなければならない。そのことを人類の黎明期に僕たちの祖先は何度も経験したのだと思います』
内田樹は、「霊性」というものをそれ単独で語るのではなく、まず「裁き」「教育」「医療」「祈り」という、集団の存続のために必要な要素を描き、それを「歩哨」という役割として見ることで、境界線上に立つものに必要な能力として「霊性」を捉えていく。そして現代社会は、その「霊性」に対する感度が下がっているために様々な問題が引き起こされているのではないかと説く。
『原発のような人間の手持ちの技術では制御できないテクノロジーを扱う技術者は本来、政治にも市場にも配慮すべきではありません。原子力技術を「核カード」として外交の切り札に使いたいという政治家や、コストの安い発電で収益を上げたいと願うビジネスマンと、原発技術者は立っている場所が違う。それは「歩哨」の仕事です。』
僕の説明は決してうまくないはずだからどこまで伝わったかわからないけど、僕は、こんな風に説明してもらえたら「霊性」というものについても理解や納得が出来る、と感じました。冒頭の「原発に祈っている話」も、最初はンなアホなという態度でしか見れなかったのに対して、内田樹の話を聞き終わると、現代文明が積極的に見失おうとしている「外部からの感受性を高める行為」が、今まさに必要であるというシグナルをきっと受け取ったのだろう、という解釈をすることが出来ます。
そう、内田樹の話はまだ続いて、最後の最後は、「何故それが自分宛てのメッセージであると分かるのか」という話になります。が、ここは、ちょっと省略。しかし、このパートも非常に面白いです。何故人間が外部からの感受性を高めようとしたのか。それは、二足歩行を始めたからだ、という話も、納得できるかどうかはともかく(僕は、結構アリだなと感じましたけど)、合気道を長年続けている内田樹らしい、非常に身体的な主張だなと感じました。
一つ、非常に興味深かった話に触れて終わろうと思います。「福音的なメッセージ」は、その内容が理解できなくても自分宛てであることが分かる、という話の後、「非福音的なメッセージ」、すなわち「発信者も受信者もないメッセージ」のことに触れます。
『発信者を匿名にしてあきらかにせず、かつ受信者も不特定多数であるようなメッセージは本質的に非福音的です。というのは、仮にそのメッセージが「政治的に正しいふるまい」を要求するものであっても、宛て先が不特定多数であるということは、「君は別に『イヤだ』と言ってもらっても構わない。君の代わりにそれをしてくれる人が他にもいくらでもいるのだから。君は別に僕のメッセージを理解しなくてもいい。君の代わりにそれを理解してくれる人が他にいくらでもいるのだから」というメッセージを言外に発信しているということを意味します。それは「君はいてもいなくても、私にとってはどちらでもいい人間だ」ということを暗に告げています。ですから、そういうメッセージに触れると僕達は深い疲労感を覚えるのです。それはこういう言葉がすでに「呪いの言葉」としいて活発に機能していることを表しています』
本書では触れられていませんが、まさにこれはTwitterでのコミュニケーションそのものではないだろうか、と僕は感じました。「発信者を匿名にしてあきらかにせず」という条件を無視すれば、あらゆるSNSが当てはまるでしょうか。この「不特定多数に向けられている言葉」が「あなたを必要としているわけではないというメッセージを言外に届ける」という発想は「なるほど!」という感じであり、これがまさにSNS疲れ的なものの根源なのではないか、と思ったりしました。
内田樹は、他の著作でもそうですが、他人の意見や論を実にうまく取り込んで話を展開させるのが非常にうまい。もちろん、ただ紹介するだけではなく、内田樹なりの解釈や味付けが加えられている。また本書の場合、内田樹は、「霊性」というものを「だから必要なものなのだ」という捉え方で議論を進めていく。これは、釈徹宗との比較で感じたことだ。
釈徹宗は、「霊性」の必要性や存在性みたいなものには触れず、「それはどんなものであるのか」「それはどんなものであるべきなのか」について語る。それも興味深い話ではあるが、やはりちょっと日常からは遠い。しかし内田樹は、日常的な事例を様々に引き寄せ、それらを内田樹なりの括り方でまとめた後で、「それらの存続のために霊性は必要だ」と説く。これは、出発点が日常であるが故に、非常に説得力があるし、興味も持続する。共著である釈徹宗氏には申し訳ないと思いつつ、本書のような構成であるが故に、一層、内田樹の凄さみたいなものを実感する作品でした。
「霊性」と言われると、宗教的でスピリチュアル的で、総じて「胡散臭いもの」という捉えられ方をされるように感じます。僕自身もそう感じる人間です。しかし、内田樹の論旨は非常に明快で、かつ日常感覚に根ざしています。これまで「霊性」の必要性を感じたことなどなかった僕ですが、まだまだボヤボヤした感覚的なものながら、「霊性」というものの必要性を理解したような気がするし、何らかの実践をしてみたいなぁ、と思ったりするようになりました。非常に面白いです。是非読んでみてください。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!