【映画】「人間失格」感想・レビュー・解説

才能を信じることも、また才能か。
観ていて、そのことを一番強く感じた。

【壊しなさい、私たちを】

状況を詳しく説明するわけにはいかないが、このセリフには痺れた。凄い。こんなことを言える人間は、なかなかいないだろう。

僕は、太宰治の作品を、ほとんど読んだことがない。古典作品が基本的に苦手で、「人間失格」だけは読んでみたけど、「読んだ」といえるほど理解できたわけでもないし、やっぱり読みにくいなぁ、なんて思いながらざっと目を通した程度だ。

だから、太宰治が天才なのかどうか、才能があるのかどうか、僕自身の判断として言えることは何もない。

しかしこの映画を観て感じたことは、「才能というのは、才能がある、と信じる他者の存在なしには成り立たないのだろう」ということだ。

ゴッホが生前、まったく評価されなかったのは、「才能がある、と信じる他者」が不幸にもいなかったからだろう。ゴッホが死に、絵自体はまったく変わっていないのに、「才能がある、と信じる他者」がゴッホの絵を評価することで、ゴッホはその偉大さが認められることとなった。

太宰治に才能があったのかどうか、それは僕には分からないが、太宰治には「才能がある、と信じる他者」がいた、ということだけは分かった。

もちろん、「斜陽」で爆発的なヒットを飛ばした太宰治の元には、原稿をほしくて列を成す編集者たちがたくさんいたし、彼らは当然、太宰治の才能を褒めそやした。しかし彼らは、「才能がある、と信じる他者」には成れていない。一人、太宰治と正面からぶつかる新潮社の編集者が出てくる。彼は、その他大勢の編集者とはちょっと違うが、その他大勢の編集者は、太宰治の才能を心から信じていたとしても、太宰にとって「才能がある、と信じる他者」ではあり得なかっただろう。

坂口安吾と、バーでこんなやり取りをする場面がある。

【馬鹿が読んでも凄まじいって小説を書けってことだ】

これは、坂口安吾のセリフだ。「斜陽」が世の中に誤読されている状況を嘆き、しかし、読者にレベルの高さを期待するのではなく、レベルが低くても心震えるものを書け、と太宰に発破をかけている。なかなか傲慢なセリフだが、言いたいことは分からないでもない。

太宰にとって恐らく多くの人間が、この「馬鹿」に当てはまるんだろう、と思う。後半、ある人物(一応名前は伏せる)が出てきて、太宰にこんな議論をふっかける。

【虚しくはないんですか?何を書いたって本当には理解しない。それが分かってて、何で書くんですか?】

太宰は、自分の作品を大衆が理解しないことを理解している。それでも彼は書く。何故なのかは分からないが、やはりそこは、書きたいという衝動から逃れられない、ということだろう(金を稼がないといけない、みたいな切羽詰まった理由も当然あるだろうけど)。

坂口安吾は、こうも言っていた。

【自分で自分を解剖する。そんな悪魔みたいな仕事ができたら、死んでもいいねぇ】

作家の性というのは凄まじいものだが、当時の文学の世界というのは、こういう感覚が当たり前に存在したのだろう。自分を切り刻んで、地獄の奥底で悩み抜きながら書く。そうやって生み出されたものでなければ文学ではない、というような。そういう世の中で、「才能」のある無しを議論するのは容易いことではないが、そうやってお互いを罵倒しあいながら、高みを目指していたのだろう。

さて、大分話が脱線したが、僕が言いたいことは、太宰治に才能があるかどうかは分からないが、「才能がある、と信じる他者」と出会う才能(あるいは強運)については議論の余地がない、ということだ。もちろん、太宰はそういう他者と多々出会うことによって追い詰められ、ボロボロになっていくわけだが、しかしそういう他者の存在が、満身創痍の太宰をして、小説に向かわせる原動力であったことは間違いないと思う。

【仕方ないね。もう恋しちゃったから】

映画の中で、太宰も太宰を追う女性も、皆「恋」という言葉を使う。この「恋」の意味は、人によって違う。そして一番本来の意味からかけ離れた使い方をしていたのが、恐らく太宰だろう。太宰にとって「恋」とは、恐ろしく下世話な表現をすれば「小説のネタ」だった。少なくとも、この映画を見る限り、そう受け取るしかない、と僕は思う。太宰はいつだって、本来の意味での「恋」には熱心ではなかったと思う。映画の中で、「太宰は書くためだったらなんでもする」という罵倒が出てくるが、まさにその通りだろう。

【みんな可愛いんだよ。みんな、俺を求めてくるんだ。応えるしかないだろ】

太宰治はきっと、文学の才能があるのだろう。しかしそれ以上に、他人を破滅の道へと引きずり込む天才だった。そして、その過程こそを小説にした。そういうことが出来る、という意味で、紛れもなく天才だっただろうと思う。

内容に入ろうと思います。
史実を元にしたフィクション、ということで、恐らく概ね史実に沿っているのだろうから、あまり具体的には書きません。時系列的には、太田静子と出会う少し前から、入水自殺して亡くなるまでを描く作品です。その間に、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を書く、という感じです。

この映画では、3人の女性が中心に物語が展開していきます。実際の名前が僕にはちゃんと分からないので、役者名で書きます。宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみです。


宮沢りえは、太宰治の妻です。太宰治が有名な作家になるずっと前から見合いで結婚していて、2人の子供を育てている。太宰の書く小説をまったく褒めないが、フラフラと飲み歩き、女性とも奔放にやっている太宰を献身的に支えている。

沢尻エリカは、上流階級に属する女性だが、太宰治との文通を通じて親しくなり、芸術のために恋をする。太宰は、彼女が書いた日記を見たいと思って近づくが、赤ちゃんがほしいと言われてセックスし、子供を宿すことになる。子供が出来たことを連絡した途端、太宰と連絡が取れなくなる。

二階堂ふみは、太宰がよく行く飲み屋で知り合った。太宰から「大丈夫、君は僕が好きだよ」と言われて無理やりキスをされるが、その後むしろ、彼女の方が太宰にどっぷりハマってしまう。一緒にいてくれないと死ぬ、という彼女と共に生活するようになり、妻のいる自宅には戻らなくなる。

この中で沢尻エリカの有り様が、最も納得感があります。

沢尻エリカは、「芸術のために恋をする」と言い。途中不本意な展開もありながらも、最終的には「斜陽のモデルであるという事実」と「太宰との子供」という揺るぎないものを手に入れる。彼女は、「太宰治という個人」ではなく「太宰治という才能」に恋をしたのであって、そういう意味で、最終的には望み通りのものを手に入れたということになる。

さて、この沢尻エリカと対比する形で、あとの2人について書いてみよう。

まず二階堂ふみは、「太宰治という個人」に恋をした女性だ。もちろん、太宰治という作家に対する才能や尊敬を感じていただろうが、しかしそれ以上に、「太宰治という個人」を熱烈に愛した。

彼女がもし、「太宰治という才能」をより強く愛していれば、入水自殺という結末はあり得なかっただろう。何故なら、入水自殺は、「太宰治という才能」を永遠に消し去ってしまうからだ。もちろん、入水自殺は「太宰治という個人」を消し去る行為でもあるわけだが、彼女は、2人で一緒に死ぬことで、死んだ後も一緒にいられる、と考えていた。そこは、大きく違うだろう。

また彼女は、「斜陽」という小説があったことで狂ってしまった、といえる。それは、僕の解釈では、激しい嫉妬だ。

沢尻エリカは、「斜陽」という作品が世にでたことで、「斜陽のモデル」という立ち位置を手に入れることになった。それは、ごく一般的な人間が、望んでも望んでもまず手に入らない立ち位置だ。そして、そんな普通には手に入らないものを手に入れた女性が、太宰との子供までもうけている。そのことは、「太宰治という個人」を死ぬ気で愛している二階堂ふみにとって、絶望的なまでの差だった。太宰は二階堂ふみに、「出会うのが2ヶ月早かったら沢尻エリカとは会っていなかった」という趣旨の発言をしている。それが本当がどうかは分からないが、しかし2ヶ月早く出会っていれば、もしかしたら「斜陽」という作品は生まれていなかったかもしれない。そして、「斜陽」が存在していなければ、二階堂ふみが絶望的な嫉妬に駆られることもなかっただろうし、結果的に入水自殺に至ることはなかったんじゃないか、と思う。「斜陽」という小説の存在が、二階堂ふみという一人の女性の運命を変えてしまったんだな、と映画を見て感じた。

宮沢りえは対照的に、「太宰治という才能」を愛し抜いた人だった。それがどの程度のものなのか、ここで書くわけにはいかないが、はっきり言って常軌を逸している。もちろん彼女も、平気の証左でそんな振る舞いが出来ているわけではない。太宰治のいないところで、ふと苦悩のつぶやきをもらしたり、止めようのない涙を流すこともある。


しかしそれでも彼女が、自分の苦しい気持ちを徹底的に抑え込んでまで太宰治の振る舞いを許容するのは、彼女が太宰治に圧倒的な才能を感じているからだ。それは、沢尻エリカが太宰治に抱いている気持ちなど比べ物にならないレベルで圧倒的なものだ。後半は、そんな宮沢りえの、ある種「狂気」とも言える有り様が描かれていく。これは、圧巻だったなぁ。太宰治が次第に死に近づいていく中で、夫の才能を信じ、「書かせる」ということに徹底した彼女の姿は見事だったと思います。

この映画を見て、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を読んでみたくなりました。どういう背景の中でこれらの作品が生まれたのかを理解した上で読むと、また違った感覚になりそうだと思いました。


映像は、さすが蜷川実花、美しかったです。時代考証を大幅に無視してるってことはたぶんないと思うんだけど、恐らく、映像的にこっちの方がいいから、という理由で、時代考証を敢えて取り外しているような部分は多々あるだろう、と思いました。そして個人的には、そういうやり方は正解だったと思います。やはり映像の美しさは、場面場面の強さに変換されるし、太宰治を中心とした異様な関係性を妖しく浮かび上がらせている、と思いました。

ただ、「CGが雑だなぁ(祭りのシーンとか)」とか「明らかにセットで撮ってるな」と感じる場面があって、それは凄くもったいない気がしました。全体的に映像を綺麗に作ってるから、その辺りはもうちょっとちゃんとやった方が良かったんじゃないかなぁ、と。

全体的には、面白い映画でした。

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