【本】村田沙耶香「コンビニ人間」感想・レビュー・解説
うわぁ、すげぇ分かる、と思った。
古倉さんと僕とでは、まったく振る舞いは違うんだけど、根っこは同じだ。
そして、なるほど、この物語は「あなたにとっての『コンビニ』とは何か?」と問い続ける物語なのだ。
『ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった』
古倉さんは、そうやって18年間もコンビニでアルバイトしている。自分が「こうだ」と思った通りの行動をすると、どうしてもズレてしまう。周囲を困惑させる。でも、何が悪いのか分からない。だから古倉さんは、小学生の頃から『皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた』という。
この感覚は、僕にはすごくよく分かる。昔の僕が、こうだった。
子どもの頃の僕は、周囲の人間が「何故そうしているのか?」がよく理解できないことが多かった。何故笑っているのか?何故泣いているのか?何故怒っているのか?…。でも、みんな疑問を感じていないようだった。みんなが笑っている時にみんな笑い、泣いている時に泣き、怒っている時には怒っていた。
昔の僕は、みんなから外れるのが怖かった。だから、周囲を観察して、みんながどういう時にどういう感情を持つのか学んだ。僕には、本当にこういう感覚がある。こういう時に笑えばいいのだなと感じた時に笑うようにしていた(泣くとか怒るとかは、そういう意識でやった記憶があまりないけど)。別に面白いわけではないんだけど、笑うべきタイミングで笑わないのは、どうにも都合が悪い気がした。だから、予想して笑っていた。
けど、あくまでも予想でしかないし、しかもその予想も瞬間の判断でしなければならないから、時々外した。みんなが笑っていない時に僕一人だけ笑っている時があって、そういう時はとても困った。困ったけど、でもそういう気まずさを時々味わうにしても、予想して笑う方が色々と便利だった。
穂村弘「蚊がいる」というエッセイの一文を今でも思い出す。
『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』
穂村弘が言っていることは、すごく分かる。みんな、その「場」のルールを、誰に教わるわけでもなく理解しているように見える。でも、僕にはそれはイマイチよく分からない。だから「場」のルールを外して、トンチンカンな行動を取ってしまったりするのだ。
『私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない』
僕は、さすがにここまで極端ではないけど、似たような感覚はある。まあ、僕は、時期ごとに結構違った人間だったので、「怒っているばかりいる時期」というのもあった。だからずっとそうなわけではないのだけど、少なくとも今は、「怒りという感情」が湧くことはあまりない。怒ることが無駄だなと思うから怒らない、という説明をすることがあるのだけど、一般的には「怒り」という感情は自然と湧き上がってくるものだから、僕の言っていることは大抵理解されない。
また、「悲しい」という感情も、人より鈍いと思う。特にそれを実感するのは、人が死んだ時だ。僕は、人が死んで悲しいと思ったことが人生で一度もない。比較的近い関係の人も亡くなっているのに、である。そういう時に、自分のズレみたいなものを強く感じる。
だから、本書の主人公である古倉さんには、もの凄く共感できてしまう。古倉さんは、あり得たもう一人の自分かもしれないなぁ、と感じながら読んでいた。
しかし、古倉さんと僕とでは、振る舞いはまったく違う。
僕は、子どもの頃はみんなに合わせようと自分なりに努力していたのだけど、次第に無理だと感じられるようになってきた。やはり、しんどい。常に、赤外線センサーの張り巡らされた空間を行き来しているみたいな感じだった。赤外線センサー(みんなのルール)に触れるようなことをすると面倒なことになるのだけど、僕にはどうしてもそれが見えない。だから、周りの人の動きを真似しながら、どうにか見えてるフリをして生きていたのだけど、やはりそれはもの凄く神経を使うのだ。
だから僕は、そういう生き方を諦めた。で、変な人だと思われるように努力するようになった。自分自身を、「無害だし悪い人間ではないけど、でも変」という風に見せることで、「こいつなら何をしてても仕方ない」と思われるように振る舞うようにしたのだ。そうやって少しずつ自分の変さを周囲に感じてもらいながら、その状態で受け入れられるように振る舞ってみた。僕には、そういう生き方の方が合っていたようだ。今では、とても楽に生きられている。
古倉さんは、違った。古倉さんの取った戦略は、僕とは真逆だ。古倉さんがしたことは、「やることが完璧に決まっている環境に身を置く」ということだ。マニュアルがあり、どういう人間であるべきかが明確で、その指針に沿った思考以外をする必要がない環境。そういう環境ならば、一度ルールを覚えてしまえば、頻繁に更新する必要がなくなる。そのルールを身体に染み込ませてしまえば、後はちょっと微調整をし続けるだけで受け入れてもらえる。古倉さんは、そういう環境を見つけた。
コンビニだ。
『「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、たしかに誕生したのだった。』
『泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。』
コンビニは古倉さんを「人間」にしてくれる場所だ。いや、違うか。古倉さんは、それ以上の捉え方をしている。
『私は人間である以上にコンビニ店員なんです』
『早くコンビニに行きたいな、と思った。コンビニでは、働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていて、こんなに複雑ではない。性別も年利も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ』
古倉さんは、「店員」になることで生き延びることが出来た。あぁ、良かった、と僕は思った。古倉さんにコンビニがあって良かった。
じゃあ、あなたにとっての「コンビニ」とは何か?
本書を読むということは、否が応でもこの問いと向き合わなければならないということでもある。
古倉さんは、何も考えずに、就活も結婚もせず、ただのんべんだらりとコンビニのアルバイトを続けている人、というような見られ方をされてしまうが(その状況は色々と問題を生じさせるので、それなりの言い訳を用意してはいるが)、本当は古倉さんはかなり意識して、自分を生き延びさせるために「コンビニ」という選択をしている。コンビニという環境が、自分にとって最適である、という判断を下しているからこそ、古倉さんはコンビニに居続けているのだ。
恐らく、そんな風に考えて自分のいる場所を選択している人はそう多くはないだろう。今いる場所が、自分にとって最適だ、という検討の末に選択している人はそう多くはないはずだ。であれば、僕らのほとんどが、古倉さんよりもレベルの低い選択をしているということになるだろう。
もちろん、自分で何かを選び取った、という人もいることだろう。そういう人は、じゃあ「何」を選び取ったのかと問わねばならない。
古倉さんは、「コンビニ」を選んだことで、「自分の意志を介入させない環境」を選び取った。あなたが選んだものの本質は、一体なんだろうか?その本質を掴めていなければ、「選んだ」とは言えないだろう。
『朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった』
本書に登場する、古倉さん以外の「正常」な人間が、僕には「異常」に見えて仕方がない。自分に何が必要で、何が不要で、それが得られる環境を自らの意志できちんと選び取った古倉さんの方が、僕にはよほど「正常」な人間に思えてしまう。
内容に入ろうと思います。
子どもの頃から、周囲から「突飛」だと思われる言動をしていた私(古倉恵子)は、大学一年生の時にたまたま見つけたオープニングスタッフ募集の案内を見てコンビニのアルバイトを始めた。これまでの人生では、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、誰も指示してくれなかったから、どう行動すべきか全然分からないままだった。しかし、その点コンビニは安心だ。完璧なマニュアルがあり、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、すべて決められている。決められていることをきちんとこなすことは得意だ。そうやって私は、コンビニの店員として「生まれた」。
それから18年。就職も結婚もしないまま、私はコンビニの店員を続けた。店長は8代目、当然働き始めた当初のスタッフは誰も残っていない。私は、コンビニにいない時でも今売り場がどういう状態になっているのかを想像し、「いらっしゃいませ!」という自分の寝言で起きることもあった。『全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた』私は、コンビニの店員であり続けられることが嬉しかった。
しかし、平穏だったそんな環境が、あることをきっかけに少しずつ軋み始めてしまう。きっかけは、白羽という名のやる気のないアルバイトスタッフが入ってきたことだった…。
というような話です。
いやー、これは面白かったなぁ。芥川賞を受賞してベストセラーになったことで、「まあ読まなくてもいいか」と思っていた本だったんだけど、読んで良かった。これは面白い。
古倉さんについては冒頭でかなり書いたので、ここからは古倉さんの周りにいる「正常」な人間の話をしようと思う。
「正常」な人たちは、古倉さんを「異常」な枠にはめ込みたがる。就職も結婚もしない、ずっとコンビニでアルバイト、恋愛もしたことがない、というのは、「正常」な人には理解不能で、何かおかしいんじゃないか、と思いたくて仕方がないのだ。
しかし、僕には「正常」な彼らの方が「異常」だと思えてしまう。
例えばこんなことを考えてみる。本書で描かれている「正常」な人たちが、戦時中に生きていたらどうだろうか?想像するのは簡単だ。彼らは恐らく、「お国のために節約し、特攻に向かう息子を勇敢だと褒め、大本営発表の日本が優勢という報告を信じながら、竹槍の訓練をする」ような生き方を「正常」だと考えて生きただろう。誤解のないように言っておきたいが、僕はカッコで書いたような生き方を否定したいわけではない。当時の社会通念では、そういう生き方が「正常」だとされていたし、正しかった。
僕がここで言いたいことは、本書で「正常」な人間として描かれる人たちは、結局、その時代その時代の「当たり前」に従っているだけだ、ということだ。同じ人間なのに、自分がどんな環境にいるかによって生き方が変わってしまう。僕にはそのことの方が「異常」に感じられる。
古倉さんはどうだろうか?古倉さんは恐らく、戦時中でも、本書で描かれているのと同じ違和感を抱くことだろう。そして、自分にとってどういう環境が最適であるのかを考え、選び取るだろう。古倉さんの方が、「自分」をベースに生きていると僕には感じられる。「環境」によって生き方が変わるのは、「自分」というものがないのと同じに思えてしまう。
意図してのことだろうが、本書の中では古倉さん以外の「正常」な人間は、皆大差ないのっぺりとした人間として描かれる。古倉さんと白羽以外の人物は、誰と誰が入れ替わっていても分からないような、そういう交換可能な人格として描かれている。古倉さんの妹や、白羽の義姉など、多少印象に残る人物もいるが、しかし発言や行動はやはり交換可能に思える。
彼らが「正常」なのだとしたら、「正常」の基準がおかしいと思う。
もちろん、古倉さんは自分が何故コンビニを選びとったのか、その理由を周囲に説明していないから、古倉さんの行動原理を周囲が理解できていないということは仕方がないことではある。しかし、じゃあ仮に古倉さんが自分の考えを周囲に開陳したとして、「正常」な人たちはその理屈を受け入れるだろうか?まあ無理だろう。余計、古倉さんを「異常」な枠に入れたくなるだけだ。そのことが分かっているからこそ、古倉さんも自分の考えを表に出さない。
古倉さんの造形は、かなり極端ではある。ある種のデフォルメと考えていいだろう。恐らくではあるが、ここまで極端に振り切れている人間は、そこまでは多くはない。
しかし、本書で古倉さんを極端にデフォルメして描くことで、本書は「当たり前って何?」という本質的な問いを投げかける作品になった。
また、舞台が「コンビニ」という、画一的で均質な世界というのも対比が利いていて面白い。コンビニはそういうのっぺりとした環境だと捉えられているが、そんな環境で働き続ける古倉さんこそが、自らの生き方をきちんと捉え、最適な環境としてコンビニを選び取っている。そして、コンビニという画一的な世界の外側にいる、就職や結婚をして「正常」に生きている人たちこそが、自分の人生を選びそこねているように僕には見えてしまう。「コンビニ」を舞台にすることで、本書で抉り出そうとしている事柄が、さらにくっきりとする印象があって、そういう面からも本書は実に面白い作品だと感じた。
白羽についてはほぼ触れていないが、そこは是非読んでみて欲しい。白羽がいかにして古倉さんの日常を激変させていったのかは、なかなか読み応えがある。古倉さんにとっての「日常」は社会にとっての「非日常」であり、白羽はそんな古倉さんに「社会にとっての日常」を与えるかもしれなかったのだが、しかしそれはやはり仮初めでしかなかった、という感じだ。いやはや、面白い。
古倉さんにどの程度共感できるかで、本書の読み味はまったく変わってくるだろう。古倉さんに共感できなければ出来ないほど、本書は恐ろしくつまらなく感じられることだろう。そして、ある意味でそれは、とても幸せなことだ。本書をつまらなく感じられれば感じられるほど、その人は今の社会における「正常」に近い、と判断できる。そういうバロメーターとしても、本書は実に良く機能するのではないかと思う。
あぁ、面白い本だった。そう感じる僕は、「正常」とは程遠いのである。
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