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【本】今野敏「任侠書房(「とせい」改題)」感想・レビュー・解説

小学生の頃、図工の時間に、木のパズルを作ったことがある。何を作っても良かったはずだけど、なんとなく思いついたのだろう、木片を組み合わせてぴったり嵌めるようなパズルを電鋸を使って作った。


今から考えると、当時の僕は多少絵が描けたのだろう。そのパズルは、自分で言うのもなんだけど、ちょっと凝っていた。パズルの外枠は、ゾウの形である。そして、そのゾウの内側を色んな木片に切り分けていくわけだけど、それも動物の形にした。シロクマ・コウモリ・イヌと言ったような色んな動物の形を、外枠であるゾウの形の中にどうにか押し込めて、なかなかのものを作った記憶がある。


ただ、内側を切り分けた木片のうち一匹だけ、なんだかわからないやつが出来てしまった。一応、他の木片も動物の形をしているので、動物だろうということは伝わる感じはあった。でも、それがなんの動物なのかちゃんと分かるほどの形には出来なかった。まあ正直、ゾウの内側をさらに色んな動物の形に切り分けるというプランがそもそも困難なミッションだったのだと思う。一匹ぐらい、よくわからないやつがいてもまあ仕方ない。そういう感じだったんだろうと思う。

本書を読んで僕は、その時のパズルのことを思い出した。

世の中は、僕が作ったパズルみたいなものかもしれない。外枠の形は、何らか決まっている。そしてその内側を、色んな人間が、それぞれの形を主張して陣取り合戦をする。みなそれぞれ理想とする形があって、常にせめぎ合っている。全体を上手いこと分割しようなんていう神のような存在も、もちろん存在しない。

だからこそ、僕が作ったパズルみたいに、よく分からない形が生まれてしまう。


それは、避けようがない存在だ。たぶん、どんな風に上手いこと分割しようとしても、どうしても上手くいかない形が生まれてしまうのだろうと思う。

だから歴史は、そういうよく分からない形を、その時代その時代ごとに、様々な人間に振り分けた。国を持たずあちこちの国に散らばるしかなかったユダヤ人は、不浄と呼ばれたお金を扱う仕事に就くしかなかった。奴隷制度や穢多非人など、最下層の立場の人間に、上手くいかなかった形を押し付けてきた。

それはある意味で必要悪だ。世界をどんな風に分割しようとしても、そこに人間の欲望がある限り、歪な形は生まれてしまう。その歪な形も世界の構成要素の一つなのだから、誰かがそれを引き受けなくてはいけないのだ。

ある時期までの日本では、それを“ヤクザ”と呼ばれる人たちが引き受けてきた。

『昔からヤクザというのは地域の人々に信用されてこそ、稼業が成り立つのだ。地域の人といざこざを起こしているようでは半人前だ。素人衆に信用されてこそ、一人前の親分なのだ。それが、阿岐本の持論だ。
信用があるから素人衆は相談事を持ち込む。ヤクザの仕事の大半は揉め事の調停だ。金で片をつけさせて、その上前をいただくわけだ。』

『昔はそういう地域が多かった。日本中で博徒や神農さんが地域と共存していた。もちろん、社会のはみ出し者であることは日村も自覚している。』

ヤクザと暴力団の区別もついていない僕には、新鮮な話だった。

『地域が博徒や新農を追い出そうとする。すると、シノギがなくなったそれらの人々が手っ取り早く設けられる商売に手をだす。その中には悪行も含まれる。
組織が大きくなると、末端ではさらに歯止めがきかなくなり、やがて暴力団と呼ばれるようになる。』

暴対法が成立した時も、暴力団が地下に潜ってさらに闇が深くなるだけだ、という意見をテレビで見た気がする。その真偽のほどは僕には判断できないけど、そういうことはありうると感じる。

結局、誰かが引き受けなくてはならないのだ。覚せい剤を売りさばくと言ったような、自ら悪を生み出すような所業はともかくとして、カタギの世界で生まれてしまった悪にどうにか落とし所を見つける存在は、どんな世の中にあっても必要とされる。その存在は必要悪であり、同時に、社会から排除することの出来ない、社会の構成要素の一つなのだ。

『素人衆を泣かすようなまねしちゃ、阿岐本組は終わりだ』

親分である阿岐本雄蔵は、部下たちにそう言い渡す。こんなヤクザなら、近所に欲しいと思ってしまった。

内容に入ろうと思います。


阿岐本組は、親分を入れても6人しかいない小所帯だ。親分は、小さい組の組長ながら、他の多くの組の組長らと兄弟の盃を交わしており、ヤクザの世界でも一目置かれている存在だ。しかし、考えている風で実は何も考えておらず、文化人に密かに憧れている親分の思いつきに振り回されるのは、代貸である日村だ。日村は、どんな無茶な要望でも親分の言うことは絶対であるとして行動する。しかし、そんな男だからこそ、余計な厄介事を背負い込んでしまうことになる。


親分が、出版社を経営することになった。


別の組の組長が債権の整理のシノギの中で手にした「梅之木書房」という出版社を経営したいと言い出した。親分の言うことは絶対である。とにかく、出版社に出向いてなんとかやってみるしかない。出版について何も知らないくせに、日村も役員としてその出版社の経営に関わることになった。


また、借金の追い込みを頼まれた工場を追い詰めないで済むように、どうにか再建するプランを提示したり、他のシマで、親分の道楽とは言えシノギを始めてしまったことを、そのシマを管轄としている組に話を通しに行ったりと、休まる暇がない。


そんな中、阿岐本と日村があれこれ手を出してみた出版社の再生プランがほどよく機動に乗り…。


というような話です。

なかなか面白い作品でした。出版社を再建する部分は、ちょっと絵空事かなという印象を受けました。さすがに、こんなにトントン拍子にうまくはいかないでしょう。とはいえエンタメ作品だからそれがマイナスになるということは特にありません。楽しく読める小説という意味ではこれぐらいの感じがいいように思います。

梅之木書房の経営に携わることになった阿岐本組は、もちろんヤクザだ。普段は、一般市民の揉め事を解決することで上前をはねている。もちろん、暴力や脅しを使うこともあり、穏やかな世界ではない。実際本書には、そういう穏やかではない描写も多少ある。


しかし本書が面白いのは、彼らは、梅之木書房と関わる時だけはカタギのように振る舞う、ということだ。いや、普段から地域住民とは丁寧に接しているわけだけど、でも、“仕事”となればカタギのように振る舞うだけではどうにもならないことが多いだろう。

しかし、梅之木書房は、完全に社長の道楽である。そりゃあ、再建できるに越したことはないだろうけど、とはいえどっちでもいい話である。暴力や脅しみたいな手段を取る理由もないし、まっとうな会社なんだからそういう振る舞いはよくない。だから彼らも、カタギのように振る舞う。

阿岐本組の面々が、ヤクザである場面とカタギのように振る舞おうとする場面。そのギャップみたいなものが非常に新鮮だったのだろうなと感じます。

しかし僕はやっぱり、冒頭で書いたような、“ヤクザとしての矜持”みたいなものが描かれている部分が凄くいいなと思いました。これを描くことが出来たのも、出版社というカタギの企業を経営するという物語の筋あってのことでしょう。ヤクザ同士が関わる時も、体面だの顔だのといった、ヤクザの世界独特の価値観が間に挟まって、ある種の誇りみたいなものが見え隠れはする。しかしそうではなくて、カタギの人間と関わることで垣間見える“ヤクザとしての矜持”みたいなものがいいなと思いました。

『「我慢だ。何事もじっと我慢するのが本当のヤクザってもんだ。ここで、腹立ち紛れに嫌がらせでもしたら、それこそ暴力団と呼ばれている連中と同じになっちまうじゃないか」
「でも、どうで素人から見たら、俺たちだって暴力団なんですよ」
「誇りだ」
日村は言った。「いいか?他人様がどう思おうとかまわない。自分が自分のことをどう思っているかが問題なんだ。他人がどうせ暴力団だと思っているからそれでいいなんて思ったときから、てめえは暴力団になってしまうんだ。俺たちはヤクザだ。誇りをなくしたら終わりなんだよ」』

阿岐本組の面々は、どれだけ善いことを行っても、ヤクザであるという理由で排除され、疎まれる。

『いいか。それがヤクザだ。他人様のことを思って動いても、迷惑がられる。そういうもんなんだ』

彼らは、素人衆に迷惑を掛けてはいけないという親分の言いつけを守り、何かを丸く収めたり前進させたりすることによって稼ごうとする。それは、誰かを傷つけたり貶めたりするような行為ではない。でも、ヤクザであるという理由で、受け入れられない。地域の中に、どんどん彼らの居場所はなくなっていく。

僕も本書を読むまで、ヤクザと暴力団の区別が出来ていなかった。世の中の多くの人間はそうだろうし、そもそも今の世の中、阿岐本組のようなヤクザなんてほとんど存在しないだろう。

しかし、少なくともこの作品の中で、阿岐本組は存在している。悪事に手を染めはするが、素人衆は泣かせないと固く誓っている阿岐本組が存在している。彼らのような存在に居場所が与えられない世の中は、どこか歪なように感じてしまう。

『世の中住みにくくなっている。
ヤクザが住みにくいということは、一般の人も住みにくいはずだと、日村は思う』

一般人は、ヤクザや暴力団を遠ざけようとする。排除し、一片の曇りもないクリーンな社会にしようとしている。しかし、あくまでもそんな社会は理想郷に過ぎないし、実現するはずもない。これまでは、揉め事の最終的な行き場は決まっていたし、そこには揉め事を解決するプロがいた。僕らは、そんなプロを排除することで、揉め事の最終的な行き場をも失ってしまうのだ。

だから、世の中のあらゆる揉め事は、薄く広く広がっていく。世の中のあちこちに、ちょっとずつ揉め事の種が残り続ける。それらが何らかの拍子に弾け、誰かが怪我をする。それは僕らが、揉め事が最終的に行き着く場所を無くそうと無駄な努力をしているからだ。

僕達は、そのことに気付こうとしない。世の中が少しずつ世知辛くなってくのは、社会の中の何かがおかしいからだと思っている。おかしいのは、悪いのは、自分ではないと思っている。そんな風にして、社会は住みにくくなり、壊れていく。

阿岐本のような筋の通った組長、日村のような実直で責任感の強い代貸。この二人の存在があってこそ、阿岐本組は成立する。彼らが出版社を舞台に悪戦苦闘する部分ももちろん面白いが、昔ながらのヤクザがこの現代にあってどう生き抜くべきかという部分が、個人的には非常に興味深く、面白く読ませる部分だと思った。

本書は、出版業界という、なかなか一筋縄ではいかない業界を端的に表現する様々な言葉が出てくる。

『どんな本が売れるかなんて、それこそ神様にしかわからない』
『売れた小説はすべていい小説だ。しかし、すべてのいい小説が売れるわけではない』
『「どんな小説がいい小説なんですか?」
「私の好きな小説です」』

本書で阿岐本も言うが、出版というのは本当に博打みたいなものだ。何が売れるんだか、本当に分からない。何故これが売れない?と感じる本も山程あれば、なぜこれが売れてる?と感じる本も山程ある。そういう意味では、ヤクザのシノギとして、出版というのは悪くないのかもしれない。著者の目の付け所はなかなか面白い。

全体的には、ドタバタと物語が展開していく、決して重苦しい感じではないヤクザ小説です。道楽で出版社の経営を始めちゃう親分を筆頭に、ヤクザらしくない面々があらゆる場面で奮闘し、最終的には一矢報いるというような展開は非常に面白いです。

ヤクザが坊主にしてるのは、喧嘩の時に髪を掴まれないようにするためと言った、ヤクザの豆知識みたいなものも各所にふんだんに盛り込まれていて、へぇーと感じる場面も多くあります。ヤクザ、という部分に引かずに手にとってみてください。


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