【映画】「でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男」感想・レビュー・解説

原作のノンフィクションは読んでいたんだけど、もう大分昔のことで、内容はほぼ記憶に残っていなかった。本作で扱われる事件は、本作で明確に表示される日付が「2003年5月12日」のみなので、2003年の出来事だとしよう(裁判はもう少し先の話かもしれないが)。2003年だと22年前。僕が20歳の頃である。この頃はニュース番組とかあんまり観てなかったから、こんな事件があったことはリアルには覚えていない。

しかし、ノンフィクションを読んだ時にもきっと同じことを感じたはずだけど、ホントに凄まじい事件だなと思う。よくもまあ、こんなことが本当のこととして起こったものだと思う。「実話」だと言われなければ、「才能のない小説家や脚本家が書いた物語」みたいに受け取られてもおかしくないだろう。あまりにもフィクション的なのだ。もちろん、映画化に当たってある程度はフィクション要素を組み込んでいるかもしれないが、ベースの事件を大きく改変したりはしていないだろう。

いやホント、恐ろしいなと思う。

本作はまず、予告が印象的だった。映画を観る際によく表示される「これは実話を基にした物語である」と言った類の表記を上手く利用して、「これは実話を”疑う”物語である」というフレーズを予告編で使っているのである。確かにその通りだなと感じさせられるだろう。

本作はまさにタイトルの通り、「殺人教師」と呼ばれた男にかけられた疑惑がすべて「でっちあげ」だったという、とんでもない事件である。教師を訴えたのは、殺人教師の汚名を着せられた薮下誠一のクラスの児童の母親である。彼女の訴えは週刊誌を、マスコミを、そして世間を動かし、実に550名にも及ぶ弁護士が彼女の弁護を担当することになった。この事件は、日本で初めて「教師による児童へのいじめ」が認定された事件であり、連日マスコミで大きく報じられたようだ。

さて、原作も本作映画もタイトルが「でっちあげ」となっていることから分かるように、「殺人教師」と呼ばれた教師に向けられた疑惑は晴らされている。基本的に観客は、その事実を理解した上で本作を観るはずだ。

しかしそれでも、本作冒頭からしばらくの間描かれる「薮下誠一によるいじめ」のシーンには驚かされてしまうんじゃないかと思う。っていうか、綾野剛がメチャクチャ絶妙なんだよなぁ。まあ、綾野剛については後で書くことにしよう。

本作は、是枝裕和監督の映画『怪物』にちょっと近い構成になっている。最初に語られるのは、教師を告発した母親・氷室律子の証言である。本作は、ド頭から裁判シーンで始まり、「その裁判で原告・被告が主張した内容」が映像かされている、という構成になっているのだ。

氷室律子の証言は、なかなか凄まじいものだった。息子の拓翔が担任教師である薮下誠一から凄まじいいじめを受けているというのだ。「ピノキオ(鼻を思いっきり引っ張る)」「うさぎ(耳を思いっきり引っ張る)」と言った身体への暴力だけではなく、「死に方を教えてやろうか」と言って自殺に追い込もうとしたなど、センセーショナルな内容である。また氷室律子は家庭訪問の際、「祖父がアメリカ人である」という話を聞いた薮下誠一が「アメリカ人の血は穢れている」と差別的な発言をしたとも言う。氷室律子は夫と共に学校へ出向き、その後週刊誌に訴え、さらに民事裁判を起こすなど、どんどんと行動をエスカレートさせていく。

しかし、そんな氷室律子の主張に、薮下誠一はまるで心当たりがなかった。では一体、どうして彼は「殺人教師」とバッシングされるような状況に陥ってしまったのだろうか? それは、学校側の対応が酷すぎたからである。

あまり詳しくは触れないが、氷室夫妻の訪問を受けた校長・教頭は、最初から「教師の側に問題がある」と決めつけていた。とにかくまずこの点が酷い。そして薮下誠一は、「場を収めるために謝罪しろ」と校長・教頭に強要され、そして結局「謝罪したんだから事実なんだろ」という形で、氷室律子が主張していることが「真実」であるかのようになっていってしまったのだ。

さて、この事件には実在のモデル(薮下誠一のモデル)が存在するわけだが、実際にその人物がどんな人なのかは知らない(原作のノンフィクションでは恐らく詳しく描かれていたと思うが、それが本作映画にどの程度反映されているかは分からない)。というわけで基本的にここでは「本作映画で描かれる薮下誠一」について書いていくが、まず彼は「とにかく誠実な人間」である。

例えばその誠実さは、こんな場面に現れていた。

氷室拓翔は医師からPTSDの診断を受けている。しかし裁判の過程で、「その診断はちょっとおかしいぞ」ということになっていく。薮下誠一はその情報を裁判よりも先に知ることになるのだけど、それを知って「ホッとした」と感想を口にする。正面でその呟きを聞いていた担当弁護士は当然、「これで裁判が有利に進むとホッとした」という意味で受け取ったのだが、薮下誠一はそういう意味で言ったのではなかった。「拓翔くんがPTSDじゃなくてホッとした」と感じたのである。弁護士からは「優しすぎ」と窘められていたが。

この場面を見ながら僕は、以前観た映画『Winny』を思い出していた。東出昌大演じる天才プログラマーが著作権法違反で起訴されるという実話を基にした映画なのだが、彼は警察(だか検事だか)に「この文章をそのままこっちに書き写してサインして」と言われるがまま書き写し、それが「自白証拠」として採用されてしまったのだ。彼もまた、ある種の「優しさ」みたいなものが間違って発動された結果、こんな結果を招いてしまったのだ。

本作を観る限り、薮下誠一には「ここまで酷い状態にならずに済んだはずの選択肢」がいくつかあったはずだ。そして彼はそのすべてで「不正解」を選んでしまったのである。「正解」を選べなかったのは、やはり「誠実さ」「優しさ」故だっただろう。ホント、良い人がバカを見る世の中であってほしくないなと思う。

で、そんな薮下誠一を綾野剛がとにかく凄まじく演じている。

前述した通り、本作冒頭は「氷室律子の供述を映像化したもの」であり、その中では薮下誠一はとにかく酷い人物として描かれている。でその後、彼自身の供述の映像化の中でがらっと違った姿を見せるのだが、何に驚いたって、どちらも薮下誠一も「表情」にはそう大差がないことだ。

言動は両者の薮下誠一で全然違うのだけど、「表情」だけはそう大きく変わらなかった印象がある。にも拘らず、一方の薮下誠一は恐ろしく、そして一方の薮下誠一は弱々しく見えるのだ。凄いなぁと思う。

表情で言うなら、本作のメインビジュアルの綾野剛の顔も絶妙だなと思う。この「表情」もまた、どっちにも受け取れるというか、「狂気的に笑う直前」にも「顔が曇る直前」にも見える気がする。ほとんど同じ表情のまま、全然真逆の役を演じ分けている感じはちょっと凄いなと思うし、とにかく本作においては綾野剛の演技が圧倒的だった。

そしてさらに言えば、僕はそんなに芸能のニュースに明るいわけではないのだが、まさに綾野剛も薮下誠一のような経験を持っている人物だった気がする。ガーシーの暴露でかなり窮地に追い込まれていたんじゃなかっただろうか。結局僕には、この件の真相は特に知らず、「ガーシーの暴露で大変なことになっていた気がする」ぐらいのことしか理解していないのだが、状況としては結構近いと言っていいんじゃないかと思う。

薮下誠一のように「事実無根」だったのかどうか、みたいなことは僕には分からないが、ただ状況として薮下誠一と近いものを味わっていたはずで、そういう意味では、自身の経験も役作りに活かせたと言えるのかもしれない。

しかし本当に、「こんなことが起こり得るんだな」ということに驚かされてしまう。繰り返すが、本作で扱われる事件が起こったのは2003年、22年前である。僕が20歳の頃で、確かスマホはまださほど広まっておらず(本作でもほぼ出てこない)、SNSもmixiぐらいしかなかったんじゃないかと思う。そしてそんな時代でも、個人が「社会」を背景に個人をえげつなく罰するみたいなことが起こっていたのだ。現代であればより起こりやすくなっていると言えるんじゃないかと思う。

そして、とてもありきたりなことを言うが、やはり「正義ってのはホントに難しいな」と感じる。確かに「氷室律子が主張していたような出来事」が実際に起こったのだとしたら、薮下誠一は社会的に抹殺されてもおかしくないだろうと思う。しかし世の中のほとんどの人は、「その真偽について考えもせずに薮下誠一を『悪』だと決めつけた」のだ。

「学校内で起こったことであり、自分で調べるのも限度があるのだから、マスコミが報じたことを信じるしかないだろう」と感じる人もいるだろうが、そういう状況ばかりではないと思う。例えば本作ではある場面で、「週刊誌に書いてある事件の詳細は、どうにもリアリティがない」と口にする人物が出てくる。確かにその通りだ。なにせ薮下誠一は、「教室で、他の生徒がいる前で体罰をしていた」というのだ。しかも、「ゴミ箱にランドセルを捨て足で踏みつける」「鼻血が出るまで鼻を強く引っ張る」みたいなことを日常的にやっていたというのだ。

それはさすがに無理があるだろう。「人目につかないところでやっていた」とかならまた話は別だが、「他の児童も見ている教室内でやっていた」というのだから、ちょっと首を傾げたくもなるだろう。確かに世の中には「マジかよ!?」と感じるようなイカれた事件は色々あるし、これもそういう1つだと判断されたのかもしれないけど、少しぐらい「ホントにそんなことがあり得るか?」と立ち止まってみてもいいように思う。僕は割と、ニュース番組なんかを見ていてそんな風に感じることが多い。「いやいや、どうやったらそんな状況が成り立つんだよ」「さすがにそれは無理があるんじゃないか」みたいにして「一旦保留」みたいな脳内BOXに押し込むのである。

しかしどうも、世の中の平均的な人は、「みんなが言ってるから正しいんだ」みたいな判断をしがちなようである。しかも特に若い世代はそうらしい。以前何かの番組で、アイドルやモデルなど若い世代のタレントが、「インプレッションやリポストの多いツイートは真実だって感じちゃう」みたいな話をしていた。それを聞いて僕は心底驚かされてしまった。「多くの人が見た」とか「多くの人がリポストした」みたいな要素は、「その情報が正しいかどうか」と一切何の関係もない。そんなことは当たり前の話だと思うのだが、どうも「リテラシー」がぶっ壊れているみたいである。ホントに嫌な世界に生きているなと思う。

もちろん、そういう「ネットにいる人たちの声」が集まることで社会を動かし、大きなプラスの変化がもたらされた事例もあるとは思う。だからすべてを完全に否定することも出来ない。ただ、薮下誠一のような、まったく非がないにも拘らず人生を破壊されてしまうような人が生まれてしまう世の中はおかしいし、そういう現状を改善できないのであれば、どれだけ大きなプラスがあるとしても無くすべきではないかという気もしてくる。

だって、こんなことが成り立ってしまうのであれば、世界中の誰もが薮下誠一になり得るはずだ。「自分には関係ない」なんて思っていたら、いつの間にかマスコミに取り囲まれる人生になっているかもしれない。

「被害者の訴え」というのは大事にされるべきだし、誰もが躊躇なく被害を訴えられる世の中であるべきだとも思う。しかし、「被害者の訴えがすべて正しい」という発想もまた危険だ。以前何かの本で読んで印象的だったのが、外国(アメリカだったかな)のエピソードで、「レイプされた女性が、その後警察から見せられた容疑者の写真の中から『この人です』とはっきり指摘した。レイプされている間じゅう、ずっとその男の顔を見ていたから間違いない、と断言したそうだ。しかしその後、ある事情から懲役刑が確定していたその男の冤罪が判明した」なんて話があった。その女性が嘘をついたのか、あるいは記憶を間違えただけなのか、その辺りは分からないが、いずれにしても「被害者が正しいことを言っているとは限らない」という視点を排除するのはダメだろうと思う。

決して「楽しい」映画ではないが、見ごたえは十分だし、さらに言えば「薮下誠一のようにならないため」に観ておくべきとも言っていいんじゃないかと思う。不正解を選び続けた薮下誠一が、どこでどうしていたら最悪な状況に陥らずに済んだのか。そういうことについて考えてみたりするのもいいだろう。

さて最後に映画とは全然関係ない話を。今月末で、東映最後の直営劇場である「丸の内TOEI」が閉館するが、僕は今日初めて「丸の内TOEI」に言ってみた。今まで行かなかった理由があるわけではなく、今回はたまたま本作『でっちあげ』を見るのにちょっとここしか良いタイミングがないなという感じだっただけなのだけど。で、これ以上特に書くこともないのだけど。一応明後日、「丸の内TOEI」で映画『GO』を観る予定。

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