【映画】「みんな、おしゃべり!」感想・レビュー・解説

いやーしかし、ぶっ飛んだ映画だったな。中盤ぐらいまで正直そこまで面白くはなかったんだけど、ラストに掛けてメチャクチャ面白くなっていって、最後は客席から笑い声が上がるぐらいだった。これは観て良かったなぁ。

さて、本作についてはびっくりしたことがまず2つあるので書いておこう。1つは、「劇場が満員だったこと」。この作品、ホントは去年観る予定だったんだけど、観ようと思ってた日のチケットが取れず、それで今日になってしまった。で、今日も見た感じ満員だった。凄いな。みんな、何でこの作品を知って、どうして観ようと思ったのか謎だが、とにかく、超マイナーだろう本作にお客さんが集まっていることにまず驚かされた。

そしてもう1つは、「ドキュメンタリー映画じゃなかったこと」だ。マジで僕は本作をドキュメンタリー映画だと勝手に勘違いしていた(僕は、これから観ようと思っている映画について極力何も調べないことにしているので、こういうことはよくある)。もちろん、ドキュメンタリー映画だと思ったから観ようと思ったわけで、もしフィクション映画だと知ってたら観なかっただろうなぁ。そういう意味では、良い勘違いだった。

というわけで、まずはざっくりと内容を紹介しようと思う。

物語の舞台となるのは、日本のどこかの町の商店街。市の担当者がここで「ノアプロジェクト」を立ち上げている。商店街の空き店舗を、障害・国籍・言語など様々な形での「マイノリティ」に貸し出し店舗運営をしてもらおうというものだ。

で、そんな商店街で古賀電器という昔ながらの町の電器屋を営む古賀和彦は、ある日「PR映像を撮ります」という市の担当者からの突然の訪問を受ける。連絡に行き違いがあったのか、古賀には連絡が行っていなかったみたいだ。古賀はろう者で、耳が聞こえないし上手く喋れないので、手話がコミュニケーションの手段である。聴者だった妻は3年前に亡くなり、今はコーダ(ろう者の家族の中で育った聴者)の長女・夏海の手助けも借りながら店舗運営をしている。

しかしその日、トラブルが起こる。古賀が店を少し離れていた時に、誰かが売り物の電球を割ったみたいなのだ。その電球が割れた辺りにいたのが、トルコ人(本当はクルド人)の男で、日本語が話せないので(というか話せたとしても)全然会話が通じない。その場に居合わせたプロジェクトの担当者が一旦場を収めたのだが、「電球を落とされた」と思っている古賀も「電球を割った罪をなすりつけられた」と思っているクルド人もお互いに不満を抱いている(そう、観客には理解できることだが、その電球はクルド人が割ったのではない)。

そして、複雑な意味で言語が全然通じない両者は、そのまま険悪な雰囲気に突入していくことになる。聴者で手話が使える夏海は、クルド人で唯一日本語は話せるヒワ(彼は、電球を割ったと疑われたクルド人の息子であり、日本生まれ日本育ちである)とやり取りをするが、お互いに状況を理解していないこともあってまともなコミュニケーションにならない。

こうして、両陣営(これは、古賀とクルド人個人の問題ではなく、ろう者仲間とクルド人仲間を巻き込んだ争いになっていく)が険悪な雰囲気のまま状況は平行線のまま日常が続いていく。そんな中、古賀の息子・駿がアラビア語に似た言葉をノートに書き続けていることが教師から報告され、古賀の怒りがさらにクルド人に向けられる。きっとあいつらが息子をたぶらかしているに違いない……。

というような話です。

さて、鑑賞後に知ったのだが、本作の監督は自身もコーダなのだそうだ。両親がろう者で、兄弟の有無は知らないが、恐らく「家族の中で聴者は自分だけ」みたいな環境で育ったのだろう。

ちなみに僕は以前、『私だけ聴こえる』というコーダを扱ったドキュメンタリー映画を観たことがある。

『私だけ聴こえる』を観るまで「コーダ」という存在のことなどまるで知らず、「なるほど、そんな概念がそもそも存在するのか」と感じた。そして「コーダが抱える葛藤や複雑さ」みたいなものが色々と詰め込まれていて、「なるほど、聴こえない世界で唯一自分だけが聴こえる」という状況がこれだけの大変さをもたらすものなのか、と感じた。

で、本作の公式HPに、制作の背景について色々文章が載っているのだが、「プロジェクト始動の背景」と題された文章がとても興味深かったので引用したいと思う。

【本作は、河合健監督の個人的な背景にある体験から着想を得ている。ろう者の両親を持つ監督にとって、「ろう者やCODAを題材とした映画を制作したい」という思いは、長きにわたり温められてきた構想であった。日本映画学校在学中からこの企画は検討されてきたが、自身の経験に近すぎる題材であったがゆえに、具体的な制作へと踏み出すことが困難であった。取材と企画の検討が続けられ、その期間は16年にも及んだ。その間、「言語」を核とするテーマ設定は一貫して保持されていた。
従来のろう者やCODAを扱った映画作品には、監督が感じていた違和感があった。それは、ろう者やCODAに対する世間の誤解や認識の誤りを常に感じていた監督は、障害の有無といった二項対立的な視点や、親子の関係に終始しがちな題材に対して、どうしたらもっとリアルで現実的な世界観を構築できるか?という課題を持っていた。そこで、本作の企画においては、これらの既存の枠組みを超克し、「言葉の壁」という普遍的なテーマを多角的に、そして深く掘り下げていくことが目指された。】

本作を観終えた今、監督が抱いていた「違和感」について何となく理解できる感じがした。障害などに限らないが、当事者以外の人が作品のテーマとして何かを扱おうとすると、やはり「ステレオタイプ」的になってしまいがちだろう。しかし一方で、当事者には問題が近すぎるが故に、その問題が日常的ではない人には届きにくい扱い方をしてしまう可能性もある。両者(本作で言えば、例えばろう者と聴者)の認識の隔たりがあまりにも大きいため、どちらのスタンスからも上手くテーマとして消化できないという状況になりかねないのだ。

そしてそういう意味でいうと、本作はまさに先の文章にあるように「言葉の壁」というより広いテーマが土台にあるのだとはっきり伝わるような内容になっていて、これは面白いなと感じた。本作では、確かに「ろう者」も「コーダ」も「クルド人」も出てくるが、「ろう者の問題」「コーダの問題」「クルド人の問題」が取り上げられているという印象にはならない。本作ではすべて「言語の問題」としてまとめられるような形で様々な状況が描かれているのだ。

「ろう者の問題」「コーダの問題」「クルド人の問題」みたいな提示のされ方だと、どうしてもそれらと接点を持たない人には「自分には関係ない問題」みたいに思えてしまうだろう。しかし本作の場合、すべてが「言語の問題」として提示されるが故に、「状況次第では、これって自分にも関係するやつだな」みたいに感じられるのだ。

本作では、ラストシーンがまさにそれを象徴しているように感じられた。正直、本作のラストシーンだけ観たら「ふざけてんのか」って感じるような展開・映像・内容なのだが(笑)、143分の物語を追った上でのあのラストは「なるほど、このカオスな物語をこんな場所に着地させるのか」と、何故か感動さえ抱かされるような感じがある。

そしてまさにこのシーンが、「状況次第では自分にも関係するよな」を寓話的に象徴している感じがあって、「なるほどなぁ」という感じだった。そこまでで提示されていたすべての「言語の問題」が、「最終的には確かに、そういうことに集約されるよな」みたいな雰囲気があって、個人的には凄く良かったなと思う。物語的にも、本作は決してミステリとかそういう話ではないのだが、それでも、色んな伏線を上手く回収しながらあのイカれたラストに行き着いている感じがあって、良く出来てるなと思う。

本作は冒頭で、「本作の字幕は作品の一部です」と表記される。最初にこれを見た時には「ん?? 意味分からん??」ってなったんだけど、見ていたら凡そ理解出来た。というのも本作では、例えば「クルド語」の字幕が表記されるのだけど、最初の内、それは翻訳されない。だから観客は、何を言っているのか分からない。また、すべての手話が字幕で説明されるわけでもない。だから、手話が翻訳されない場面では、どんなやり取りが交わされているのか不明だ。

このように、「字幕のある/なし」「翻訳のある/なし」をかなり意識的に調整しているということなのだろう。「字幕」を「意味を伝えるための手段」としてだけ利用するのではなく、「意味や状況が理解できない」という記号としても使っているということなのだろうし、確かにそれは「作品の一部です」という感覚になるなと感じた。

しかしホント、僕は本作を観る前の時点で「コーダ」という存在を知っていたから、本作でコーダ役として出てくる夏海の大変さみたいなものはなんとなく想像出来るのだが、一般的に「コーダ」という概念はまず浸透していないだろう。少し前に『コーダ あいのうた』という映画(僕は観ていない)が話題になったので、世間一般に「コーダ」という単語が認識された可能性はあるが、それでも知らない人の方が大多数だと思う。

で、本作では、そもそも「コーダ」という表現が一度も出てこなかったはずなので、「夏海=コーダ」という認識にもならないし、だから「実は夏海も結構大変なんだ」ということが、後半に入るまで伝わらないような感じがする。もちろん監督は、そういう状況を理解した上で、「コーダの説明をしない」みたいな選択をしたのだろう。やはりそれも、「コーダの問題」みたいに捉えられないようにするための工夫なのだろうし、その振り切りはとても良かったなと思う。大手資本が入った映画だと、その辺りの脚本はなんとなく手直しさせられそうな印象があるので、あまり大きな規模での制作ではないという点も本作によっては重要なポイントだったのかもしれない。

あと、公式HPに色々と興味深いことが書かれているので触れておきたいのだが、まず、コーダの夏海を演じた役者は「実際にろう者の家庭にホームステイし、手話による生活を送ること」を条件に選ばれたという。メチャクチャ気合い入ってるな。彼女の手話習得の速度は、手話指導者が驚嘆するほどだったそうだ。また、古賀を除くろう者を演じた役者は、オーディションによって実際のろう者が選ばれたそうだ。

で、古賀役は、オーディションでは良い人が見つからなかったらしく、最終的にある人物の提案を受けてラーメン店の店主が抜擢されたらしい。意味が分からない。本作が、初演技なのだそうだ。

他にも「ビザを持つクルド人を探すのが大変だった」「ヒワ役の俳優はゼロからクルド語を習得しなければならなかった」「長期撮影で貸してくれる電器店を探すのが大変だった」など色々と苦労があったようだ。いやホント、ただ観ているだけの人間でも、「この撮影、クソ大変だっただろうなぁ」と想像出来る。よく撮りきったものである。

あと、どうでもいい話だけど、エンドロールに「生命体制作」みたいな表記があって笑った。初めて見たよ、そんな表記。


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