「言葉が言葉通りに届くことの凄さ」を、「乃木坂46・齋藤飛鳥の『見せ方』」から考える
僕は「興味を抱ける人間」の範囲がとても狭い。大雑把に言うと「変わっている人」が好きなのだが、もう少し細密に表現すると以下のようになる。
<「言葉が言葉通りに伝わることなんかない」と嫌というほど理解しているが、それでも「言葉を言葉通りに伝える奮闘を諦めない」という気持ちで言葉を発している人>
自分が良いなぁと感じる人を思い返してみると、大体このような感じになる。そして先日、『乃木坂工事中』(テレビ東京系列)の、「褒めっこグランプリ」という企画を観て、あらためてこの点について考えた。公式Youtubeのリンクを貼っておくので、気になる方は観てほしい。
この企画は、メンバー2人が向き合って「相手を褒めることで笑わせる」という、「にらめっこ要素を含んだ褒め合い」である。そしてこの企画を観ながら、改めて「言葉の伝わらなさ」と「齋藤飛鳥の『見せ方』の凄さ」を実感させられた。
さて、この企画の話の前に、僕が「言葉」に対して感じてしまう感覚を書いておきたいと思う。それは「本当っぽいかどうか」という感覚だ。これは「本心かどうか」とは関係がない。「本心かどうかに関わらず、本当っぽく聞こえるかどうか」が、僕にとってはとても重要というわけだ。
これを踏まえると、僕の「言葉」の受け取り方は4パターン存在することになる。
・本心ではないし、本当っぽくも聞こえない
・本心だが、本当っぽく聞こえない
・本心ではないが、本当っぽく聞こえる
・本心だし、本当っぽく聞こえる
そして当然だが、「本心かどうか」なんて、僕の勝手な想像でしかない。だから、間違いなく僕に判断できるのは「本当っぽいかどうか」だけ、ということになる。
さて、僕のこの受け取り方を踏まえた上で、「褒めっこグランプリ」の話に戻ろう。
様々なメンバーが「褒め言葉」を口にするのだが、僕にはそのほとんどが「本当っぽく聞こえなかった」のだ。メンバーごとに、「これは本心で言ってそうだな」「これは本心かどうかも怪しいな」と、「本心」に対する判断は分かれるが、それでも、「本当っぽいかどうか」の判断についてはほぼ共通していたと言っていい。
そして僕は、「本当っぽくない言葉」を聞くのが、とても苦痛だ。だからこの「褒めっこグランプリ」も、ザワザワさせられながら見た。「うわぁー」という感覚をずっと捨てられなかったのだ。あんまりじっくり観ないように、半目で観るような感じにしていた。
伝わるかどうか分からないが、僕は、送別会・卒業式・結婚式などの場で出てくる言葉も、全体的にどれも嫌いだ。ゾワゾワする。どれも「本当っぽく聞こえない」からだ。「気持ち悪い」と言ってしまってもいいぐらいに、嫌悪感しか抱けない。もちろん、それを口にしている人は「本心」で言っているかもしれないが、僕にはそんなこと関係ない。「本当っぽく聞こえるかどうか」だけが重要であり、大体の場合、「本当っぽく聞こえない」のだ。
そういう場での他人の言葉を聞くのも苦痛だが、自分で何か話さなければならない時はもっと苦痛を感じる。何故ならそういう場では、「自分が本当っぽいと感じる言葉」ではなく、「世間が本当っぽいと感じる言葉」を口にしなければならないからだ。その2つは、僕の中で大きくかけ離れている。だから、無理やり「世間が本当っぽいと感じる言葉」を探し出し、嫌々口にしている。本当に、苦痛な時間だ。
「褒めっこグランプリ」で褒められている当人が嬉しいのかどうか、僕にはよく分からない(テレビ的には喜んでいる風にしなければならないから、本心がどうかは分からないという意味)。もちろん、僕には「本当っぽく聞こえない」としても、本人が嬉しいならそれはなんの問題もない。ただ僕には許容しがたい、というだけの話だ。
さて、ようやく齋藤飛鳥の話である。この「褒めっこグランプリ」において、齋藤飛鳥だけが異次元の展開を見せた。ルールは「笑わせたら勝ち」なのだが、対戦相手である山下美月は、齋藤飛鳥の言葉を聞いて泣きそうになるのだ。その瞬間に「泣かせても勝ち」とルールが追加になり(妥当な判断だ)、涙を流した山下美月が負けるという展開になる。
別に「泣かせたから凄い」と言いたいのではない。僕は、この「褒めっこグランプリ」の中で、齋藤飛鳥の言葉だけが唯一「本当っぽく聞こえた」のだ。繰り返すが、それが「本心」かどうかは分からないしどうでもいい。とにかく「本当っぽい」のだ。
僕は齋藤飛鳥のそういう点がとても好きだ。乃木坂46の中でかなり昔から齋藤飛鳥を推しているのも、まさに彼女の「見せ方」「言葉」にあると言っていい。
齋藤飛鳥は間違いなく、「言葉が言葉通りに伝わることなんかない」と、幼い頃から理解している人物だと思う。確か彼女は、小学校から不登校になり、本を読むことで知識を蓄えてきた、みたいなことをインタビューで話していた。その原因が「言葉の伝わらなさ」にあるのかは分からないが、僕も子どもの頃、周りとまったく言葉が通じなかった記憶があるので、1つの理由ではあるのではないかと想像する。
僕は本当に、「言葉が言葉通りに伝わると思っている人」がとても不思議に感じられる。「Aという主張」をした人が、それを理解しなかった人に対して、「『Aという主張』を伝えたじゃん!」みたいに怒ったりする場面を見聞きするが、僕にはマジで意味が分からない。「Aという主張」が、そのまんま「Aという主張」として相手に届くと信じられる人のことが、僕には理解できないのだ。
どんな「言葉」であれ、僕は、「相手にどう伝わったか」でしか評価され得ないと思う。たとえそれがとんでもない曲解だとしても、相手がそう受け取ったのであれば、「そういう風に受け取る人だ」と考慮して「言葉」を発する必要がある。不特定多数に対して「言葉」を発する場合は、それがどう受け取られても仕方ない、という覚悟で口にするしかない。僕にとって「言葉」とはそういうものだ。この前提が共有できない人が、世の中には結構たくさんいるように感じられて、僕は違和感を覚えてしまうことが多い。
齋藤飛鳥は、このことを嫌というほど理解している人だと思う。だからこそ、言葉を発することに慎重だし、「言葉」に思慮深さが加わることになる。「言葉なんか伝わらない」ということが分かっている一方で、彼女は表舞台に立つ人間として「言葉を発さないわけにはいかない」ことも重々承知している。だからこそ、「伝わらないことを理解しながら、それでも、どうやったら伝わるかの闘いに常に挑んでいる」という状態にならざるを得ない。
そしてその姿は、僕にはとても好ましいものに感じられる。
「言葉の伝わらなさ」を理解している齋藤飛鳥は、「言葉だけ」で言葉を伝えようとはしない。彼女は、「普段の振る舞いも含めた『齋藤飛鳥という人間のあり方』によって、「言葉」が伝わるかどうかが変わる」のだと分かっているのだ。
「褒めっこグランプリ」の中でも、まさにそれを示唆する場面があった。齋藤飛鳥が勝利に終わり、山下美月が泣きながら褒められた喜びを語った後で、齋藤飛鳥は「全部嘘だけどな」と言い放つのだ。
これも、「言葉が伝わる」ことを期待した「見せ方」として、非常に素晴らしかったと思う。
僕が思う、「言葉で何かを伝えることの難しさ」の1つに、「『言葉を伝えないこと』に意味が生じてしまう」という点がある。この説明のために、明石家さんまについての僕が好きなエピソードを紹介しようと思う。
明石家さんまは、カメラが回っている時だけではなく、常に喋り倒しているそうだ。つまり彼の周りの人は、「明石家さんまは、常に喋っている人だ」と認識していることになる。しかし、やはり人間だから、時には喋っていないタイミングもあるだろう。そうすると「今日は疲れてますか?」「怒ってますか?」みたいな見られ方になってしまうそうだ。本人としては、別に何のつもりもなくただ黙っているだけなのに、「明石家さんまは、常に喋っている人だ」という見られ方のせいで、「喋っていないこと」に意味が生じてしまうことになる。
明石家さんまでなくても、似たような状況に容易に陥ると言えるだろう。褒めるでもアドバイスするでも怒るでもなんでもいいが、「言葉で何かを伝えること」は常に、「伝えなかったこと」の輪郭も強調することになるからだ。言葉を発すれば発するほど、「発しなかったこと」が浮き彫りになる。そしてその「発しなかったこと」を打ち消そうとさらに言葉を重ねても、結局いつまでも「発しなかったこと」が消えることはない。
これは、結構難問なのだ。
しかし齋藤飛鳥はこの難問に、「普段の私の言葉は嘘だからね」というメタ情報を付け加えることで解消しようとしている(と勝手に想像している)。「発したこと」が「発しなかったこと」を浮き彫りにするのは、「発したこと」が「本心」だという前提があるからだ。「発したことが本心」であるなら、「発しなかったことも本心」と受け取られることは避けられない。
しかし齋藤飛鳥は、「発したことは本心じゃないよ」という「嘘っぽい情報」を付け加えることで、「発したという事実」が「発しなかったという事実」を強調することを抑えようとしているのだと思う。僕も意識的に似たようなことをやるので、大きくは外していないだろう。
「メインとなる発言」は「本当っぽく」伝え、一方、「その『メインとなる発言』は嘘だ」と「嘘っぽく」伝えることで、「メインとなる発言」の本質を失わせることなく、「発しなかったこと」の輪郭が強調されることも和らげている、というわけだ。
そして齋藤飛鳥は、「これぐらいのことをしなければ、言葉が言葉通りに伝わることはない」と理解しているのである。そのことがとても素晴らしいと僕は思う。
ここまで僕の文章を読んでくれた人の中には、「めんどくさ」と感じる人もいるだろう。そう、その通り、めんどくさくて仕方ない。だから、齋藤飛鳥や僕みたいな人間は、「他人とのコミュニケーション」を制約してしまうのだ。「言葉が言葉通り伝わると思っている人」と喋るのはそもそも疲れるし、「どうやったら自分の言葉が言葉通りに伝わるか」の奮闘も容易ではない。
このめんどくささを捨てられればいいなと思うこともあるが、そう簡単ではないということも分かっている。無理矢理にでも付き合っていくしかないのだ。
だからこそ、齋藤飛鳥のような、きっと同じめんどくささを感じながら生きているだろう人を見つけると、とても嬉しくなる。
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