【映画】「ブゴニア」感想・レビュー・解説

これはメチャクチャ面白かった! ヨルゴス・ランティモス監督作は、自分の中で好き嫌いがメッチャ別れる。『哀れなるものたち』は「何が面白いんだ?」と思ったが、『憐れみの3章』は超面白かった。そして本作『ブゴニア』も、超良かった。

しかし、ネタバレ的なことを書かずに感想を書くのは難しいなぁ。でも、映画そのものとはあまり関係ないことをペラペラ書いて感想っぽく仕立てることにしよう。

僕は以前、東工大(名前変わったんだっけ?)の数学の教授にインタビューをしたことがある(以下のリンクでその時のYouTube動画が見れるはず)。

その時のテーマは「IUT理論(宇宙際タイヒミュラー理論)」だった。京都大学の望月教授が発表した、「未来から来た論文」とも評されるもので、ほとんどの人が理解できないどころか、「明確に間違いだ」と主張する一流数学者も現れるなど、未だに議論は決着していない。そしてそんな理論の一般向けの本を出版した著者に僕がインタビューする機会があったのだ。

色んな話題についてあれこれ聞いたのだが、「IUT理論」と絡める形で僕が一番関心を抱いていたのが、「数学理論はいつ『正しい』と見なされるのか?」である。

とここでまず、「数学」と「科学」の違いに触れておこう。「科学」の場合は、論文が発表されそれが正しいと認められても、後に新たな観測事実などが出てくることで「間違いだった」と判明することがある。つまり「科学理論」は、あくまでも「現時点における正解」でしかなく、未来の誰かがそれをひっくり返すことはいくらでもあり得る。

しかし、数学の場合、基本的にそういうことはない。もちろん、「ヒューマンエラー」によって、「誤りを含んだ論文が正しいと認められてしまい、後に撤回された」みたいなことはもしかしたらあるのかもしれない(僕自身はそういう話を見聞きしたことはないが)。しかし本質的には、数学は一度「正しい」と認められたら、それが覆されることはないはずだ。数学の証明というのは「絶対的に正しいことを示す」ものであり、観測事実は他の誰かの発見などによってその正しさが揺らいだりはしないのである。

で、そんな数学の「正しさ」は、一体いつ決まるのか?

インタビューの冒頭で僕は、「有限単純群の分類」に関する論文について尋ねてみた。この論文は50年近くに渡って出版された、100人以上の著者による1万ページを超える論文である。で、恐らくだが、この1万ページ以上の論文すべてを読んだ人は、世の中にそんざいしないんじゃないかと思う(分からないけど)。もちろん、1万ページ以上の論文は個別に査読され、その正しさが認められているのだと思うが、全体像がどこまで把握されているのか。

みたいなことを考えた時に、僕は、この「『有限単純群の分類』の正しさ」はいつ決まったのか? と感じてしまう。

もちろん、個別の論文が発表された時ではないだろう。じゃあ、すべての論文が発表された時か。いや、まだ査読が終わっていない。じゃあ、すべての論文の査読が終わったら「正しい」となるだろうか? しかし、実際に1万ページ以上の論文を読んだ人は恐らくいないだろう。では、一体どのタイミングで「有限単純群の分類」は「正しい」ということになったのだろうか?

この僕のアホみたいな問いに、教授は「長い時間、多くの人が関わり、さらに証明そのものも以前と比べて洗練されて言っているのだから、そこに『正しさ』を感じているのではないか」みたいな話をしていた(と思う)。まあ要するに、「はっきり『このポイント』と言えるようなタイミングは存在しない」ということだろう。

そして本作を観ながら、同じようなことを考えていた。「誰かが主張する『正しさ』は、一体いつ『正しい』ということになるのだろう?」と。

先日参加した哲学カフェのテーマが「嘘をつくこと」だった。その中で、「『嘘をつく』の定義は、『間違いだと認識していること』について言及すること」みたいに話していた人がいたので、僕はその時に、「『地球外生命体はいる』と主張すること」はどうなのか? という話を投げてみた。「地球外生命体はいる」という主張は、正しいことでも間違っていることでもない。どちらとも確定していないからだ。しかし一般的に、「地球外生命体はいる」と主張することは「嘘だ」と受け取られることが多いだろう。まあ、その哲学カフェでのやり取りはもっと色んな話が入り混じっていたので、これだけ抜き出してもあまり意味はないのだが、「正しい/間違っている」「本当/嘘」みたいなことが一体いつどのようにして決まるのか、みたいなことは、やっぱり興味深い問いだなと思う。

僕たちは当たり前のように、だれかの発言を「嘘だな」と感じたりする。また哲学カフェの例を出すが、参加者の1人が、「『自己肯定感が低いんですよ』と言われた時、相手がそんなキャラクターに見えなかったら『嘘だな』と感じる」みたいなことを言っていた(この点に関しては、「自己肯定感が低い人はむしろ、明るく元気に振る舞おうとすることが多い」と主張しておいた)。

ここには、「発言者がそれを『本当』だと認識しているかどうか」と「受け手がそれを『本当』だと受け取るかどうか」みたいな話がかなりややこしく入り混じっている。明らかな事実誤認だとしても、「発言者がそう信じ込んでいる」のなら、発言者視点ではそれは「本当」
だし、揺るぎない真実だとしても、「受け手がそれを間違いだと感じる」のなら、受け手視点ではそれは「嘘」ということになる。

昔何かで読んだが、「キリスト教を信じる科学者」に対して誰かが、「あなたが知っている学問的な知識と照らし合わせて、キリスト教の主張は矛盾が生じないか?」と聞いたそうだ。例えばだが、キリスト教では「神が世界を作ったのは、6000年前の6日間」みたいな話があるが、世界中の遺跡からは6000年よりも古い時代の化石やらなんやらが出土する。これは矛盾じゃないか? というわけだ。

しかし科学者はこの指摘に対して、「神はそういう風に世界を作ったんだ」と返したという。つまり、「土中から6000年よりも古い化石が出土するような世界」を作ったというわけだ。確かにそのように考えれば、学問的な知識との矛盾は無くなるだろう。「なるほどなぁ」と感じた記憶がある。

ただ、やはりそんなわけはないだろう。宇宙はたぶん46億年前のビッグバンで生まれたのだと思う。しかし、キリスト教を信じている人は世の中にたくさんいる。キリスト教の信者の中に「神が世界を作ったのは、6000年前の6日間」という話を心底信じている人がどれぐらいいるのかは知らないが、アメリカでは「進化論を学校で教えることを禁じている州が存在する」という話も聞いたことがあるし(もちろん、進化論がキリスト教の主張と食い違うからである)、案外そういう人は多くいるんじゃないかという気もする。

一応、今僕らが生きている世の中では、そんな彼らの主張が「正しい」とされることはないだろう。でもかつては、「それでも地球は回っている」と言った(実際は言ってないらしいが)ガリレオが処刑されたりしている。「教会の主張こそが『正しい』」とされている時代が存在したのだ。

だから「正しさ」というのは危ういなと思う。

少し前に、ツイッター(X)で「言葉の使い方に関する議論」を見かけた。「『耳障りが良い』という表現は正しいのか?」というものだった。本来的には「耳障りが悪い」という用法で、しかしこれを「耳触り」と間違う人が多く、それで「耳触りが良い」という表現が使われるようになり、さらに今では「耳障りが良い」という表記まで出てきている、という流れのはずだ。

で、僕はこの議論を目にして、「『言葉の使用の正しさ』は一体どのように決まるのか?」と感じた。そして僕なりの結論は、「『正しさ』は後から追いかけてくる」である。「言葉」を使うのは人間であり、だから「言葉」は「人間が使いやすいように変わっていく」のが当然だと思う。だから僕は「人間が『言葉』をどう使っているか」が先行すべきで、それを踏まえた上で「正しさ」が決まるべきだと考えている。「耳障りが悪い」という言葉の使い方が「正解」なのはもちろんその通りだが、その後の変化を許容しないのは正しくない気がする。今の社会の中で「耳障りが良い」が「正しい」とされているのかは知らないが、いずれにせよ「大多数がそれを『正しい』と認めるなら、それは『正しい』とするしかない」と思う。

しかし、この主張を認めるとしたら、先の「教会の主張が正しい」みたいな話を受け入れざるを得なくなるし、それにより問題なのは「少数派が常に『正しくない』ことになってしまう」という点で、なかなか難しいなと思う。

そんなわけで、冒頭で予告した通り、本作『ブゴニア』そのものとはまったく関係ないことばかり書き続けてみた。ではここで、少し内容紹介をしておこう。

物語上の最初の大きな展開は「誘拐」であり、冒頭からしばらくの間は「誘拐する側」と「誘拐される側」の物語を個別に形になる。

「誘拐する側」は、養蜂家の男2人だ(いとこ同士らしい)。主導権を握るテディは、我々が口にする食物の1/3を受粉するミツバチが大量失踪する「蜂群崩壊症候群(CCD)」に関心を抱いている。気候変動や農薬の使用など様々な仮説が唱えられているのだが、テディは注意深く観察することである驚くべき結論に達する。

アンドロメダ星人が地球にやってきていて、地球を滅ぼそうとしているのだ。

そのためテディは、いとこのドンと共に、「地球人のフリをしているアンドロメダ星人」を捕まえ、その上で、「皇帝と交渉したいから、宇宙船まだ連れて行ってくれ」という要求を突きつけることにしたのである。

一方、「誘拐される側」は、巨大農薬外車の女性社長であるミシェル・フラーだ。彼女は「TIME誌」の表紙を飾るほど注目される経営者であり、また、地域に莫大な雇用を生み出しているという意味で市長よりも影響力の大きな人物と言ってもいいかもしれない。彼女は多様性を重視し、さらに働き方改革として「5時半になったら仕事を切り上げて自宅に帰ること」を推奨しようと準備しているところである。

そしてそんなミシェルは、「彼女をアンドロメダ星人だと信じている狂信者」によって誘拐されてしまう。「髪があると母船と通信できる」という理由で髪が剃られ、さらに肌に抗ヒスタミン剤入りのクリームを塗ることで何かの効力を弱められると信じている。

ミシェルとしては、「お前はアンドロメダ星人なんだから、皇帝と連絡を取って俺たちに交渉の場を与えろ」などと言ってくる人物と交渉しなければならない。彼女は頭をフル回転させ、拘束された室内からどうにか逃げ出そうと試みるのだが……。

というような話です。

色んな要素はあるものの、基本的には「囚われた社長が誘拐犯と交渉する」というのがメインであり、大分違うけど、映画『爆弾』っぽい設定でもある。密室内でイカれた人間がイカれたことを言い合うみたいなやり取りは面白かったし、何よりも「まったく会話が成立しない状況で、以下に物語を展開させるのか?」みたいなところがよく出来てたなと思う。物語的に、「テディのスタンスをガラッと変える」みたいなことは出来ないし、でもだとしたら、「ミシェルをアンドロメダ星人だと信じている」という点は変わらないわけで、「ここからマジでどうするわけ?」と思っていた。そういう、展開のさせ方が結構難しいだろう物語を、なかなか良い感じに進めていて面白かった。

あとはやっぱり、ラストが良いよなぁ。この点は具体的には言及しないけど、僕は全然察しが悪い人間なので、「なるほど、そう来るか!」的な展開でメッチャ良かった。正直、普通にやったらまず成り立たない展開だと個人的には思うのだけど、僕の中に「ヨルゴス・ランティモス監督は訳分かんないことするよな」みたいな印象があったので、それもあってすんなり受け入れられたみたいなところもある。だから、もし本作『ブゴニア』がヨルゴス・ランティモス監督作品に触れる最初の作品だという人の場合、どう感じるんだろうなと思う。ちょっと違う捉え方になってもおかしくないかもしれない。

あとは、「ミツバチ」っていうモチーフは結構絶妙だったように思う。ミツバチって、個々で存在しているというよりも、集団としてまとまることで生命としての機能を果たす、みたいな生き物だったりする「働きバチは延々と蜜を集める」「女王蜂は延々と子どもを産む」みたいな感じで役割特化型であり、それらが集団として存在することで生物として機能を果たせる。

で、人間の場合は決してそうではないように思うけど、ただ見方次第では同じだろう。例えば僕は米も小麦も野菜も作れないが、それらを作ってくれる人がいるから食事が出来る。人間は頑張れば一人でも生きられると思うので、本質的な意味ではミツバチのような役割特化型ではないと思うが、社会の中である程度役割特化型的に振る舞うことで、全体としてのプラスを高めるみたいな生き方をしていると言えるだろう。

で、本作で扱われる「蜂群崩壊症候群(CCD)」は実際に起こっていること(あるいは「起こっていたこと」)であり、少し前は「このままだと植物の受粉が出来なくて食料危機になるかも」みたいなことが言われていたと思う。今どうなっているか知らないが、状況が大きく改善しているみたいなことはないんじゃないだろうか。

で、同じようなことが人間社会でも起こってもおかしくないだろう。というか、見方次第では「ずっと起こっている」とも言えるかもしれない。なにせ、日本に限っても、年間の自殺者が3万人ほど、行方不明者は8万人である。1億人という人口と比べれば、CCDの規模感とは異なるかもしれないが(ミツバチは3割とか5割とか消えたと言われている)、毎年10万人超の人が老衰や病気などではない形で”消えている”のだから、相当なものだとう。

地球を大きな「蜂の巣」と捉えれば、「地球でもCCDが起こっている」みたいな解釈も出来るだろうし、本作には社会批判的な視点は含まれていない気はするが、そういう物語として受け取ることも出来るように思う。

まあ何にせよ、個人的にはメチャクチャ面白く観れた作品だった。今年はハズレだと感じる映画が多かったので、余計に印象的に感じられたなと思う。

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