【本】田中泰延「読みたいことを、書けばいい。」感想・レビュー・解説
【(本書は)同時に、なによりわたし自身に向けて書かれるものである。
すべての文章は、自分のために書かれるものだからだ。】
僕はもう15年ぐらいずっと、文章を書き続けている。そしてそれは、本当に、僕自身のために書いてきたな、と感じる。
文章を書くことが好きだったわけでは決してない。元々数学と物理が好きで、国語は嫌いだった。文章を書く機会など、ほとんどなかった。
でもある時急に書き始めた。本はそれまでも読んでいたが、本を読み終わる毎に、その本について何か書く、というのを自分のルールにした。理由は、まったく覚えていない。
とにかくそれ以来、15年間、僕はこうしてずっと、文章を書き続けている。
僕が文章を書き始めた当時は、SNSなどなかったと思う。mixiぐらいはあったか。ブログはあった。どうしても誰かに読んでほしかったわけではなかったけど、Wordに書いて読まれる可能性がゼロであるよりも良い気がして、ずっとブログに書き続けている。
ブログに文章を書き続けても、ほとんど反応はない。一人、熱心にコメントをし続けてくれる方がいる。ありがたい。しかし、その人以外から、コメントをもらうことはまずない。最近はもう見もしないが、アクセス解析などで訪問者数や閲覧数をチェックしても、大した数字ではない。自分の文章が読まれている、という実感は、普段から特にない。
しかし、まあそれが良かったのだと思う。
【いずれにせよ、評価の奴隷になった時点で、書くことがいやになってしまう】
そうだな、と思う。僕は、本を読んで思ったこと、感じたこと、考えたことを、言語化しておきたかったんだと思う。どうしてそう思ったのかは分からないけど、今振り返ってみて、言語化し続けてきたことはとても良かったと思う。その時その時の自分の考えが、一部とは言えタイムカプセルのように保存されている感覚がある。「本を読んだら感想を書く」と決めることで、読んでいる最中も、後で書くことを考えるようになった。
そして、言語化するということは、諸刃の剣であることも学べた。
感情は、感情のままではなかなか保持することが出来ない。だから言葉にする。でも、言葉というのは、自分の感情用に誂えられたものではない。誰かが、あるいは社会が生み出した、コミュニケーションのための鋳型だ。だから、僕の感情がぴったりハマる言葉は、ない。だから、細部を切り落として、一番近い言葉の中に押し込めるしかない。
文章を書き続けることで、僕は、こういうことを学んだ。それは、「文章を読んでくれた誰かから反応をもらうこと」よりも、ずっと意味のあることだったと僕は思う。文章を書き続けたことで、明らかに、昔と比べて、思考がクリアになった。言葉の未熟さを理解しているから、言葉ですべてが伝わるはずがないと理解できた。そして、その言葉の限界を感覚的に理解しているからこそ、言葉で出来る最大の伝達が出来るようになった。
と、僕は思っている。
メチャクチャ、自分のためだ。
【だが、ほとんどの人はスタートのところで考え方がつまづいている。最初の放心が間違っている。その前にまず方針という漢字が間違っている。出発点からおかしいのだ。偉いと思われたい。おかねが欲しい。成功したい。目的意識があることは結構だが、その考え方で書くと、結局、人に読んでもらえない文章ができあがってしまう】
まさにその通りだ。さらにこの考えは、よくない結果を引き起こす。それは、
こういう目的意識では、書き続けられない
ということだ。
僕が書いている本の感想というのは、今では毎回5000字程度になる。時と場合によっては、1冊読んで書く感想が1万字を超えることもある。2万字近く書いた記憶もある。イカれている。
月に20冊弱ぐらい本を読めたりするので、毎月10万字の文章を書いている、ということだ。実際は、もっと書いている。休みの日に映画館で見た映画のレビューも、同じくらい書いているし、他にも文章を書くことは色々とある。
そんなわけで、日々、文章ばっかり書いている。別に、誰に頼まれているわけでもいない。誰に頼まれているわけでもない文章を、毎月10万字も書いている。
はっきり言っておかしい。文章を書くのが苦手な人から、常軌を逸していると思うだろう。
しかし、こんなことを続けられる理由は、他人のことを考えていないからだ。文章を書くことは、自分のためだからだ。
以前、詳細は忘れてしまったが、「本のレビューサイト」みたいなもので、レビュアーを募集していたことがあった。自分が書いた文章を共にエントリーし、OKとなればレビュアーとして登録される、というような流れだったと思う。当時、既に3000字を超えるような長い長い文章を書くようになっていた僕は、何かの本の感想をコピペしてエントリーした。
すると、かつて出版社の編集を担当していた、という担当者の方から丁寧な返信がきた。内容はほとんど覚えていないが、論旨は覚えている。つまり、「もっと短くしなさい。そうしないと読まれませんよ」ということだ。
僕はどうしたか。
もちろん、文章を短くする気などさらさらなく、そのレビューサイトには登録しなかった。当たり前だ。誰かに読んでもらう文章を毎日書く時間なんか、ない。
もちろん、その担当者の言っていることはもっともだ。レビューサイトなのだから、来てくれた人にレビューを読んでもらわなければいけない。長い文章は読まれにくいんだから、短くしてもらうしかない。そのレビューサイト視点で言えば、その指摘は適確だ。しかし、僕にとっては無意味な指摘だったので無視した。
続けられることでなければ意味がない、と僕は思っている。特に、習得に時間の掛かることは。
僕は、英語や将棋に興味がある。純粋に、学ぶことに関心がある(英語で外国人と話せなくても、将棋で誰かに勝てなくてもいいから、純粋に学びたい、ということだ)。でも、ちゃんと学ぶためには、毎日ある程度の時間継続して学習しなければ無意味だ、と思っている。だから、手を出していない。中途半端に始めても、中途半端に終わるだけだ。
文章を書くことも、似ている。本書でも散々書かれているが、「良い文章を書くためのテクニック」なんて、存在しない。そりゃあ、文章にもテクニック的な部分はある。でも、そのテクニックが活かせるのは、ある程度書けるようになってからだ。70を90にするためには、テクニックが必要だと思う。しかし、10を50にするテクニックはないと僕は思う。結局のところ、「書く」という行為をどれだけ積み重ねるかでしかない(本書の主張も取り入れれば、「調べること」も大事だ)。生まれながら才能がある人間ならともかく、そうではないという自覚があるならば、書くしかない。書くことでしか得られないことがある。そして、書くという行為の積み重ねによって、10だったものを50や60や70ぐらいまで出来れば、そこからは、テクニックでさらなる高みを目指してもいい。でも、まずは書くしかない。
で、結局、「書き続ける」ためには、自分が面白くないと無理だ。
【読み手など想定して書かなくていい。その文章を最初に読むのは、間違いなく自分だ。自分で読んでおもしろくなければ、書くこと自体が無駄になる】
「自分のために書く」ということが虚しいと感じる人もいるかもしれない。「誰かに読んでもらってナンボ」という意見もあるだろう。
しかし、文章が評価されるのは、「出力」された後だ。僕がまだ文章を書く前に、誰かが僕の頭の中を覗き見して、「こいつはこんな文章を書こうとしている!」などと見つけて評価してくれる、などということは、まずない。文章に限らないが、とにかく「出力」しなければ、評価の土俵には上がれない。
だから、「出力するまでのこと」と「出力した後のこと」は、切り離して考えた方がいい。
「文章を書くこと」がどれほど「成功」という言葉からほど遠いかを伝える、こんな文章がある。
【ライターになりたい人は、もっと起業家の話を聞いたほうがいい。彼らのように成功した人でも、10個目の商売でやっと成功したとか、成功するまで5つ会社をつぶしたとか、勝負をかけたはずの商品が全然売れなかったとかを経て、いまの商売があたったという人が多い。ライターも同じように、書いてみても、ほぼ駄目なことだらけだ。
自分がまずおもしろがれるものであること。これは、ビジネスアイデアでも文章を書くことでも全く同じだ。それが世の中に公開された時点で、あくまでも結果として、社会の役に立つか、いままでになかったものかがジャッジだれる。】
「出力した後のこと」をウダウダ考えていても無駄、ということだ。誰に読んでもらうとか、どれぐらいの人に読んでもらうとか、どんな評価をしてもらうなんてことは、自分でコントロール出来るようなものじゃない。だから、「出力するまでのこと」、つまり、どう出力するかに注力した方がいい。で、文章を出力するための最も良い方法は、自分が楽しいことだ。書いていることそのものや、書き終えた文章が、自分にとって楽しければ、文章を出力することに最も有利だ。
【本書は、世間によくある「文章テクニック本」ではない。わたしは、まがりなりにも文章を書いて、お金をもらい、生活している。だが、そこに「テクニック」は必要ないのだ】
【それが「読者としての文章術」だ】
本書のこれらの記述は、たぶん僕がここで書いたようなことと同じところから生まれるものだと思う。とにかく、出力することに注力しろよ、ということだ。それ以外に大事なことなんかねーぞ、ということだ。僕もそう思う。
そういうスタンスについて、明確に記述した上で、著者は、出力される文章の「中身」について、要約すればたった一つ、重要なことを伝えている。
それは、
【心象を語るためには事象の強度が不可欠】
ということだ。著者が文章に求めること、著者が文章を書く際に意識していることは、この一点に尽きると言っていい。あとは、この一点をいかに実現するか、ということを含めて、「文章の書き方」としてまとめているのが本書だ。
著者の主張には少し、反論したい気持ちもある。
しかし先に言い訳をしよう。僕は、本書以外に著者の文章を読んだことがない。本書には、著者がこれまでに書いたという様々な文章へのQRコードが貼られているが、どれも読んでいない。著者のツイッターなども見ていないし、文章講座などにももちろん足を運んでいない。
著者が書いた他の文章を読めば、僕がこれから書くことはただの誤解だった、と分かるかもしれない。しかし、著者の主張を、本書だけで判断する人だって当然いるだろう。その場合、やはり誤解が生じる可能性もある。とか書いているが、単純に、著者が書いた他の文章を読むのが面倒、というだけの話でもある。そういう意味で僕は、著者が言う
【物書きは「調べる」が9割9部5厘6毛】
という主張に反していると言えるだろう。
さて、僕が否定してみたい著者の主張は、【物書きは「調べる」が9割9部5厘6毛】とも関係するのだが、以下のものだ。
【つまらない人間とは「自分の内面を語る人」】
分かる部分もある。
ここで「分かる」と書いた理由は2つある。
1つは、著者の略歴にある。著者は24年間、電通でコピーライターをしていたという。本書には、「広告コピーをいかに書くか」という項目もあるのだが、その中で著者は、こんな風に書いている。
【コピーライターとして24年も勤めてしまった自分が、この本を書くにあたって一番困ったのはここだ。
コピーライターはとにかく短い文章で相手に伝えることを考える。しかし、それで1冊の本を書こうとすると、非常に薄く、文字が少なく、白い部分の目立つ本になってしまう】
こういう経歴だからこそ、【つまらない人間とは「自分の内面を語る人」】は、ある種の大胆な切り捨てをした言い方なのだ、と捉えるべきなのだ、と思う。著者としては、「内面を語ること」そのものを否定したいわけではないのだ。というのも、先程書いた「心象」というのが、要するに「内面」のことだからだ。
同じことは【物書きは「調べる」が9割9部5厘6毛】についても言える。これも、短く表現するために、極端な単純化を行ったと捉えるべきだろう。このワンフレーズからだと、「調べたことだけ書け」という主張に思えるだろう。いや、実際確かにそう書いてもいる。
【つまり、ライターの考えなど全体の1%以下でよいし、その1%以下を伝えるためにあとの99%以上が要る。】
しかし、この著者の単純化は、不正確な形で伝わる可能性があると僕は感じる。どこに誤解の余地があるのか。それは、「何を100%とするのか」という認識の違いだ。
普通、著者のこれらの記述は、「最終的に文章として出力されたものを100%とする」と考えがちだろう。そう捉えてしまえば、出力した文章の9割9部5厘6毛が調べたことになってしまい、自分の「心象」は1%以下ということになる。
しかし僕は、著者が伝えたいことはそうではないと思う。
しばらく後に、こういう文章が出てくる。
【前の項で述べた「図書館」で「一次資料」に当たれという話は、ひとえに「巨人の肩に乗る」ためである。
巨人の肩に乗る、というのは「ここまでは議論の余地がありませんね。ここから先の話をしますけど」という姿勢なのだ】
これは、「先人の誰かが既にどこかで書いているようなこと、さも自分が思いついたかのようにグダグダ書いてもしょーがない」という話の最後に書かれている。要するに、同じような主張を先人がしていないかどうか、ちゃんと調べてから書けよ、ということだ。
つまり、先程の「何を100%とするのか」の僕なりの答えは、「書くという行為のすべてを100%とする」となる。出力された文章ではなく、書くための行為すべてを100%とする。書くという行為において、「調べる」ということが占める割合が9割9部5厘6毛だ、というのが、本来的な著者の主張だと思うのだ。しかし、その捉え方が正しいとすれば、著者は誤解されやすい書き方をしていると感じる。
【つまらない人間とは「自分の内面を語る人」】についても同様だ。「分かる」と書いたもう1つの理由は、「確かに僕もそう感じることがある」という実感があるからだ。確かに「自分の内面を語る人」をつまらなく感じることが、僕にもある。
しかしこれも誤解を招く表現をしている。重要なことは、「内面(心象)」の話をするかどうかではない。著者自身が書いているように、【心象を語るためには事象の強度が不可欠】だというだけだ。つまり問題は「内面(心象)」を語るか否かではなく、それを支える事象の強度の問題なのだ。それを、【つまらない人間とは「自分の内面を語る人」】と書いてしまうから、誤解が生じる可能性があると感じる。
先程も書いたけど、僕は著者の他の文章を読んでいない。読んでいない上で言うが、著者は決して、調べたことだけ書いているわけではないはずだし、内面についてだって語っているはずだ。しかし、【物書きは「調べる」が9割9部5厘6毛】【つまらない人間とは「自分の内面を語る人」】と広告コピーのように短く切り取ってしまうことで、正しく伝わっていないような感じがするのだ。
また、「調べること」について、著者が触れていないことがある。それを僕は、著者略歴を読んで理解した。略歴には、こう書かれている。
「学生時代に6000冊の本を乱読」
本書で著者は、「調べること」において「一次資料」や「図書館」の重要さを説くが、それらよりも遥かに重要なことが、「著者の頭の中に膨大な知識が入っていること」だ。
「知っているから書ける」ということを言いたいのではない。「知っているからより調べられる」ということだ。
例えば僕は、数学が好きだ。数学に関する本もかなり読んできた。だから、ある数学に関する本を読んだ時、数学に詳しくない人が読むのとは違った点に気づける可能性が高い。「ここに出てくる◯◯理論って、そういえば別の分野でも使われてたな」「この数学者の名前、どっかで聞いたことあるな」「この理論、保険業界で使われてるやつじゃなかったっけ?」などなど。あらかじめ自分の頭の中に知識があるからこそ、さらに知識を深堀りすることが出来る。
一方、僕は歴史が苦手だ。中学レベルの歴史の知識も頭の中にはない。だから、そんな僕が、図書館に言って、石田三成に関する一次資料を読んだところで、特段掘り下げれることはない。歴史に詳しい人なら「なるほどこれはこういうことか」「これに関する記述、別の本ではこうだったぞ」などと気づけることも、僕はすべてスルーだ。
このように、「調べること」において最も重要なことは、あらかじめ頭の中にどれだけ知識が入っているかに拠るのだ。しかし、それについて詳しくは書かれていない。
まったく書かれていないわけではない。
【本を読むことを、すぐ使える実用的な知識を得るという意味に矮小化してはいけない。本を読むことを、その文章や文体を学ぶということに限定してはいけない。本という高密度な情報の集積こそ、あなたが人生で出会う事象の最たるものであり、あなたが心象をいだくべき対象である】
「調べること」とはまた違った項目で、こういうことを書いている。でも個人的には、「調べること」の項目として、もっと具体的に記述してほしかったなぁ、と思う。どれだけ図書館に行って、一次資料に当たろうとも、前提知識に欠ける人間には見えないものは見えないのだ。
とまあ、ディスるようなことも書いてしまったが、納得できる記述の多い本だった。
【この本で繰り返し述べている「事象に触れて生まれる心象」。それを書くことは、まず自分と、もしかさいて、誰かの心を救う。人間は書くことで、わたしとあなたの間にある風景を発見するのである】
文章は、自分のために書くものだ。しかし、書かれたものが、結果的に誰かのためになることはある。僕も、ずっとそう思いながら文章を書いてきた。本当にごく稀だが、自分が書いた文章が誰かにちゃんと届いて、その人の何かをほんの少し変えられた、と実感できる機会がある。それは、凄いことだな、と思う。
でも、忘れてはいけない。それを目的に文章を書くのではない。
【自分のために書いたものが、だれかの目に触れて、その人とつながる。孤独な人生の中で、誰かとめぐりあうこと以上の奇跡なんてないとわたしは思う。
書くことは、生き方の問題である。
自分のために、書けばいい。読みたいことを、書けばいい。】
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