【映画】「そばかす」感想・レビュー・解説

メチャクチャ良い映画だった。正直、観ないつもりでいた映画だったのだが、観て良かった。

最近はもう会う機会はないのだが、15年以上前だろうか、友人女性から「私アセクシャルなんです」と教えてもらったことがある。それで初めて「アセクシャル」という単語を知った。アセクシャルとは、「他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かないセクシャリティ」のことである。

最近、友人女性から、「調べてみたら、私はデミセクシャルだって分かった」と教えてもらった。それで初めて「デミセクシャル」という単語を知った。デミセクシャルは説明が難しいが、ざっくり書くと「まったくゼロではないが、ほとんど恋愛感情も性的欲求も抱くことがないセクシャリティ」のことを指す。

また、最近知り合ったトランスジェンダー(身体は男性、心は女性)は、「性的対象は女性で、女性から女性として好かれたい」と言っていた。身体の性で捉えれば「異性愛」だが、心の性で捉えれば「レズビアン」というわけだ。

僕は決して人間関係が幅広いわけではない。それなのに、いわゆる「ノーマルな異性愛」(あまり良い表現ではないが、とりあえずこう書くしかない)ではない人と3人も出会ったことがある。しかもこれは、単に「認知件数」に過ぎない。実際には、僕が知らないだけでもっといるかもしれないのだ。確かに僕は、割と普通から外れた人(性的志向がということではなく、生き方とか価値観とか全体的に)が好きなので、サンプルに偏りがあるとは言えるかもしれないが、しかし、大体の人がそういう自身のセクシャリティをあまり周囲に開示していないことを踏まえると(先に挙げた3人も、周囲に積極的には話していないようだ)、社会にはそういうセクシャリティの人がもっといてもおかしくないだろう、と感じる。

僕は、「性的志向」という括りで言うなら「ノーマルな異性愛者」だと思う。ただ、今までの色んな経験を踏まえた上で、「恋愛より友人関係を目指す方がいいな」と判断するに至った。僕の場合、「恋愛感情」みたいなものは抱くのでアセクシャルやデミセクシャルみたいなことではないが、ただ、意識的に恋愛から遠ざかろうと思っている。

まあ、僕も含めて、色んな人間がいるものだ。

どうしてこんな話を書いているのか。それは、映画『そばかす』の主人公・蘇畑佳純がそのようなセクシャリティの人物だからだ。作中で「アセクシャル」という単語は出て来ないが、間違いなく彼女は「アセクシャル」である。

さて、映画の内容に触れていく前に、この映画の全体的なスタンスについて書いておきたいと思う。

それがどういうものであれ、「マイノリティ」や「弱者」に分類されるだろう人々を物語の中で描いたり扱ったりする場合、「極端」だと感じてしまうことがある。「極端」というのはちょっと説明の難しい感覚なのだが、「『マイノリティに対して偏見を抱いていないこと』を明確に示そうと意識しすぎてオーバー気味に描いてしまう」とか、「『マイノリティの主張を広く伝えたい』という気持ちが強すぎて、逆にマイノリティの側が悪い印象で見られる描写になってしまう」など、「ちょっとやり過ぎなんだよなぁ」と感じることが度々ある。

もちろん、気持ちは分からないではない。ということを説明するために、まず僕自身のスタンスに触れておこう。

僕は、「社会の普通や当たり前」に馴染めないなという感覚をずっと昔から抱いてきた人間だけど、ただ、「性的マイノリティ」や「障害者」みたいな、何か大きな括りで分類されるような意味でのマイノリティでは別にない。単に「マジョリティって好きになれないわー」と日々感じているだけの人間だ。だから僕には、「自分はマイノリティだ」という意識はない。これからあれこれ書くが、決して「自分がマイノリティだと認識していて、マイノリティの立場からあれこれ書いている」みたいなことではないと理解してほしい。

というようなことを書いたのは、マイノリティや弱者を物語の中で扱う制作陣の話に通じるとも思うのだが、「どういう立場でどういうスタンスを持って今この発言をしているのか」を明確にしておかないと、「世間」からややこしい矢が飛んできたりするからだ。早い話、「ネットで炎上する」から、あれこれ注釈を入れないといけない気分になってしまうのである。

そして、そういう気分が社会に蔓延しているから、マイノリティや弱者を描く物語においても、「過剰な注意」が散見されることになる。電化製品の説明書みたいなもので、どうでもいいようなことを長々と書いているのは、「一部の口うるさいクレーマー対策」だと僕は思っている。世の中のあらゆる注意書きは、絶対にもっとシンプルに出来るはずなのだが、ごく僅かに存在する、ほとんど難癖としか言いようがないクレームをつけてくる奴らからの攻撃に対してあらかじめ防衛しておくために、細々とした注意書きが必要になるのだ。

そんなわけで、マイノリティや弱者を描く物語の場合、どうしても「極端さ」が目についてしまう場合がある。

しかし、映画『そばかす』はまったくそんなことがなかった。僕が「余計」だと感じてしまうような注釈もなかったし、かと言って、極端に「ポリティカル・コレクトネス」に寄せているという感じでもない。先程書いた通り、僕自身は別に特定のマイノリティに分類される人間ではないのであくまで想像にすぎないが、そういうマイノリティに属する人たちの「リアル」を、かなり精度の高い空気感で描き出しているように感じられた。監督や脚本など、映画制作の中核に関わる人物が、何らかのマイノリティに属する人だったりするのかもしれないなぁ、と思う。僕が普段抱いてしまうような「違和感」を一切感じさせずにマイノリティ・弱者の物語を描いている点が、まずは素晴らしいと感じた。もちろん、実際にマイノリティに属する人が観たらまた別の感想になるかもしれないが(←こういう余計な注釈がない映画というわけだ)。

映画の中では基本的に、三浦透子演じる蘇畑佳純が、「『アセクシャル』のことをまったく理解しない人たちによる干渉・アプローチによって苦しむ」という描かれ方をされる。蘇畑佳純は、自身が「アセクシャル」であることを家族にも明かしていないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、ただ、明かしたところで理解されると思えないからこそ彼女は言っていないわけで、明かしていない蘇畑佳純が悪い、と単純に言い切るのも難しい。

蘇畑佳純はある場面で、彼女からすれば思いもよらなかった人物からアプローチを受ける。彼女はさぞがっかりしただろう。何故なら、「自分と同じ感覚で関われる人に出会えた」と思っていたはずだからだ。しかし、それは幻想だった。

彼女は、その男性に恋愛感情を抱くことは出来ないが、友人としては仲良くやっていきたいと思っている。だから、恐らく人生で初めてなんじゃないだろうか、「自分は他人に恋愛感情を持てない人間なんだ」と必死に訴える。しかし男は、「そんな嘘つかなくていいよ」「馬鹿にするな」と、彼女の主張をまったく受け入れない。

そう、これが「世間」の一般的な感覚なのだろう。そして、こういう世界の中で、蘇畑佳純は苦痛を味わい続けてきたのである。

僕も、彼女と同程度とはまったく思わないが、似たような経験をした記憶がある。

僕は、「恋愛はもういいか」と思うようになってから、女性とは「友達になろう」と思って関わってきた。そんなスタンスが伝わったのかどうなのか、当時地方に住んでいた僕がたまに東京に出てくる用事がある時に、「ウチに泊まっていいよ」と言ってくれる女性が何人かいたのだ。元々寝れれば何でもいいと思っている僕は、ホテルを取ったりせず、マンガ喫茶で寝泊まりしてしまうことが多い。だから、「お、ありがたい」と思って、よく泊めてもらっていた。もちろんだが、別に相手の女性とは何もない。

で、そういう話を、大人数の飲み会の時に話の流れでしてみたことがあるのだが、そこで僕が非難されることになったのだ。一番印象的だった言葉は、「SEXしてあげないのは可哀想」という男の意見だった。それはまあその場においてもかなり極端な意見だったが、意外だったのは、男からだけではなく女性からも「それはちょっと良くないんじゃないの」という反応が返ってきたことだ。まあ、僕は今39歳で、その泊めてもらったり、その話を飲み会でしていたのが数年前。飲み会にいたのは僕と同年代か上の世代の人が多かった気がするから、そういうものなのかもしれない。

いずれにせよ、その飲み会の場で生まれた「世間」の判断では、「友人女性の家に泊まりに行って何もしなかった僕」はダメなのだそうだ。僕には未だに、その辺りの感覚はよく分からない。

自分のことを「普通だ」と思っている人の無邪気さは怖い。例えば映画の中では、蘇畑佳純の母親が、僕には「異常者」に見える。娘が「結婚なんかしたくない」とはっきり言っているのに(「アセクシャル」だとは伝えていないが、「結婚に興味はない」とは伝えている)、「結婚しない娘は不憫だ」とでも考えているのだろう、騙し討ちのような形でお見合いをさせるのだ。僕には「ザ・異常者」でしかなかった。怖っ!ああいう人は、世の中から駆逐されてほしい。

家族の中で唯一救いなのが、救急救命士だが鬱病を患っている父だろう。蘇畑佳純にとって恐らく、家族の中で唯一話が通じる相手なのではないかと思う。彼が、恋愛や結婚をしない娘に対してどう感じているのか、それは描かれないから分からない。ただとにかく父親は、自身の考えを一切押し付けはしない。それでいて、決して放置するわけでもない。相手にとって「適切」だと感じられる距離感で見守り、相手の決断を自身の判断基準で捉えず、「相手の人格を信頼しているから」という形で言動を肯定する。素晴らしい。

映画の中で蘇畑佳純は、ある人物から「俺ゲイなんだよね」と告白される。その告白にさほど驚きを見せなかった蘇畑佳純に対して男は、「みんながお前みたいだったら、こっちに戻って来なくても良かったんだけどなぁ」と口にするのだ。それ以上具体的なことは描かれないが、「ゲイであること」を隠しながら生きていくには、周囲の「圧」みたいなものが強かったということだろう。自分のことを「普通だ」と思っている人の「無邪気さ」は、こんな風に、思いもよらないところで誰かを傷つけているのだ。もちろんそれは、僕自身も常に気をつけなければならないことではあるが。

映画の途中で、前田敦子が出てくる。彼女がどんなスタンスの人物として登場するのかは触れないことにするが、映画全体の中でも特に良いキャラだったと思う。僕は、彼女がある場面で、「弱者は主張したらダメなのかよ!」と叫ぶシーンがとても好きだった。先程少し「極端さ」についての話をしたが、彼女はこの作品の中で唯一「極端さ」を少しだけ担う人物と言えるかもしれない。

映画の中で一番好きなセリフがこれだ。

『同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました』

メチャクチャ分かる。僕はそういう感覚を、芸能人などに対して感じることがある。例えば僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きなのだが、その理由は「彼女の『世間への馴染めなさ』」にある。インタビューなどを読むと、彼女が「普通」というものとどう適正な距離を取ろうともがいてきたのかが、なんとなく理解できる気がする。確か小学校から不登校で、世の中のことは全部本を読んで学んだ、みたいなことを言っていたはずだ。

僕は齋藤飛鳥のことが好きだが、ただあまり「会いたい」という気持ちにはならない。いや、もちろん、会って長々話せるなら会いたいが、握手会やライブやオンラインミーティングなどにはあまり興味が持てない。それより、「齋藤飛鳥のような人が、生きてこの社会のどこかにいるのだ」という感覚の方が、僕にとっては大事な気がする。僕は齋藤飛鳥に対して割と近い感覚を覚えるのだが、そういう人が、この社会のどこかでちゃんと生きているんだよなぁ、と思えると、そのことが自分にとって、少しだけ「希望」に感じられるのだ。

だから僕は、「同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました」というセリフに、完璧に共感してしまった。

というわけで、とても良い映画だった。

さて最後にいくつか、どうでも良いことに触れて終わろう。

まず、エンドロールに「坂井真紀」という名前が表示されて驚いた。まさか蘇畑佳純の母親役が坂井真紀だったとは。

あと、映画が始まってすぐ、「あれ、言葉が静岡っぽいかも」と思った。僕は静岡県出身なのだけど、静岡って正直そこまで方言っぽいのがないから、「言葉が静岡っぽい」という印象がまず意外だった。その後、セリフの中に「だもんで」という言葉が出てきたので、「絶対静岡だわ」と確信した。高校の先生に「だもんで」が口癖の人がいて、陰で「だもんで」と呼ばれていたことも思い出した。でその後、蘇畑佳純の履歴書に「浜松市」と書かれていたので、やっぱり、と思った。ただ、静岡県東部出身(静岡県は大体、西武・中部・東部・伊豆の4つに分けられる)の僕にはあんまり聞き馴染みのない言い方なんかもあって、西武と東部でちょっと違うんだろうなぁ、とも思ったりした。やっぱり西武の方は、ちょっと名古屋っぽい方言になるんだろうなぁ。

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