ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
他人の文章を読んでいて、不思議な感覚になることが時々ある。
「あれ? この文章、自分が書いたんだっけ?」
という感覚だ。もちろんそんなはずがないことは分かっているのだが、書かれている文字や文章、そしてそれらから漂う「雰囲気」みたいなものが、「自分の内側から滲み出ていてもおかしくない」と感じさせるような文章が、時々ある。
『ユーハブマイワード』は、久々にそんな文章だった。「『かなり年下の異性』と感覚が合う気がする」という主張をするのは、おじさんとしてはなかなか勇気が要るものだが、その辺りの違和感には一旦気づかなかったフリをして、読んで考えたこと、感じたことを書いてみたいと思う。
【共に朝を迎えることも、服を着ないで眠ることも、特別な意味なんてなかった。わたしたちは恋愛がしたいんじゃない。みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ。】
この文章は、一番刺さった。「みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ。」という感覚は、今まで僕自身の頭から出てきたものや自分以外の誰かの考えなどすべてひっくるめても、僕の感覚に最も近いかもしれない。今まで、自分の頭の中でこういう言語化が行われてこなかったことが不思議に感じられる。
【「彼氏って友達とやってることあんまり変わらないじゃん。セックスするかしないかみたいなところない?」】
彼女は友人にそう問いかけるが、僕もこれとほぼ同じ言い方をよくする。例えば、実際に行ったことはないが、恋愛関係ではない友人女性と2人で旅行に行くことだって全然できる(もちろん、相手の女性もそう思っているはず、という感覚を無視してこんなことを口にすることはないが)。僕は割と、「セックス以外のことなら、友達のままでも全然出来る関係になれる」という感覚があって、だから「恋愛」というものがちょっとよく分からなくなるところがある。つまり、僕には「付き合って下さい」という告白が、「セックスをしたいです」みたいな意味になってしまうような気がするからだ。なんか、それは嫌だなって思う。
先のように問われた友人は、
【「友達と遊びに出かけたり、友達と暮らしたりするのとあまり変わらないのかもしれないけど、でも特別だよ」】
と返す。それに対して、
【わたしはその「でも特別」という部分がわからない。】
という感想を抱くのだが、ホントそうだなと思う。僕も「でも特別」がよくわからない。
【誰かを「特別に」好きという気持ちがずっと分からなかった。涙が出た。涙が止まらなかった。確かに、彼のことが好きなのに、この気持ちをどこかに着地させることができない】
未だに僕は、「誰かと恋愛関係になったら、同じ強度の関係性を他に築いてはいけない」というルールにしっくりいっていない。世間はそれを「浮気」や「不倫」と呼んで非難する。もちろん、その「浮気」や「不倫」の関係が、「同じ強度」ではない、単なる火遊び程度のものなら非難されていいとは思う(しかしそういう人はそもそも、恋愛関係にある人との関係も「火遊び」程度の感覚なのではないか、という気もするが)。しかし、人間はすべての人間と同時に出会うことなど出来ないのだから、「今付き合っている相手に対する気持ちと同じ強度で引き寄せられてしまう関係」と、どこかの瞬間でズドンと出会ってしまうことだってあっていいと思ってる。
でも、どうもそういうことも、一般的には許容されないみたいだ。「特別に」というのは、否が応でも「あなただけ」という気持ちを強要する印象があるが、別に「特別に」がたくさんあったっていいんじゃないかと僕は思いたい。でもそういうことを言うと、「私のことを『特別に』好きじゃないんでしょ」とか言われる。どうして、「特別に」が常に「1つ」しか許容されないのか、謎だ。
『ユーハブマイワード』を読んでいると、全体的に、彼女は「『特別に』を色んな人に抱ける人」に感じられる。巻末に、著者の友人による文章の寄稿があるが、彼女についてこんな風に書いている。
【もし悩みを抱える友人がいたら、親身になって話を聞き、その荷物を減らしてやろうとするし、街中で困りごとがありそうな人を見かければ、何か助けになれる事はないかと声をかけに行く。】
たぶん、色んな人に「特別に」を向けられる人なんじゃないかなと思う。
「強度」については、彼女もこんな風に書いている。
【会いたいとか好きだとか、そういう気持ちに出会った時、なぜ?と思ってしまうような関係ってあんまり上手くいってないのかもしれない。気持ちが双方向に、同じくらいの強さで向き合っていない時「なぜ?」が生まれる。「喫茶店でだらだらおしゃべりしたい」って言ってくれれば「このひとはわたしと喫茶店でだらだらおしゃべりがしたいんだな!」と思える。】
彼女はこの感覚を「恋愛」ではなく、同性とのお茶の席での出来事を通じて実感していく。「どうやら同じ強度ではなかったみたいだ」と感じた同性との会話を通じ、「そこに居心地の良い関係性が生まれるためには、双方向の同じ強度の気持ちが必要」と気づくのだ。恋愛であろうがなかろうが、「同じ強度の気持ち」を感じ取れるなら、きっと彼女はそこに「特別に」を見出すのだろうし、そういう人だからこそ、「恋愛だからこその『特別さ』」みたいなものが上手く捉えきれないんだろうなと思う。そういう感覚は、なんとなく分かるつもりだ。
だからこそ彼女は、その「特別に」を自身に向けられた場合にも違和感を抱いてしまう。
【誰かに特別な感情を抱かれることが人生を助けてくれると思っていたのに、その特別な感情が苦しかった。】
こう書いているのは、彼女が「恋愛」というものに大いなる断絶みたいなものを感じた時のことについて触れた章である。具体的には描かれていないため、彼女が「これ以上向き合っていても仕方がないことがなんとなくわかった日があった」と書くその日に何があったのかは分からない。ただきっと、何らかの理由で、「双方向の強度のバランス」が保てないと気付き、だからこそ「特別に」に苦しさを感じてしまったということなのだろう。
一方、また別の形で「特別に」に対する違和感を示す章もある。彼女は、
【好意を伝えられるのがしんどいというのは共感されにくい事かもしれないけど、自分の言動全てを曲解され続けている感覚に近い。モテ自慢と捉えられないか不安になりながらこの文章を書いています】
と断りを入れているが、つまり「告白されること」への違和感というわけだ。この場合は、「私があなたに対して、あなたが私に感じているのだろう気持ちと同じ強度の気持ちを持っていると思ってるんですか?」みたいな「怒り」に近い感覚だろうなと思う。なんというのか、「告白する」という行為そのものに対する怒りではなく、その行為をしてしまうことの「想像力の無さ」みたいなものが違和感をもたらすのだろうと思う。その理解で合っているとすれば、これもまた、僕が普段から抱く大きな問題意識の1つと言える。
「想像力の無さ」については、恋愛とはまた少し違うフェーズでの苛立ちを、本書では記している。
【仕事中であっても、知らない人から自分の見た目をジャッジされてはいけない。それがなんの意味も含まない「痩せた?」で、あっても。褒めようと思っての「美人」も。悪意のない言動も。全て。】
【美人だねと言われるってことは、ブスだったらブスだねって言われてるのと一緒じゃん。わたしは自分の顔面を美人かブスかで判断しない。もちろんコンディションの良し悪しはあるが、自分の顔面でしかないから。遺伝子に感謝している。そう思えない人がいるのも知ってる。でもわたしはわたしの納得いく顔面で生きている。それは顔面で人間の良し悪しを判断する感覚がわからないから。】
この辺りのことは、20代の頃にはたぶん、ちゃんとは理解できていなかった。ただ、20代の後半から30代に掛けて、色んな人との関わりをしてきたので、恐らく、同世代の男よりはかなりわかっていると思う。
少し前に、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という映画を観た。
この映画全体の雰囲気や主張が『ユーハブマイワード』と響き合うところがあると感じるが、今ここで僕が言及したいことは、「加害者であることの自覚」についてだ。映画の中である人物が、「自分が自分として存在しているだけで、誰かにとっての『加害』になってしまうのではないか」みたいな内容のことを口にする場面がある。その感覚は、「男」である僕の中に、割とずっと潜んでいたものだったりもしたので、そういう意味でもこの映画は突き刺さった。
多くの男が、「『男であるという事実』が他者に対して『加害性』を持ち得る」という事実を理解していない(ように僕には感じられる)。端的に言えば、「『男であること』は『暴力』そのもの」なのだ(ただ本書には、「同性別の皮を被った化け物」という表現もあり、必ずしも「男性性」に限るものではない、とも付け加えておく)。
男がその事実に気づかずにいられる理由の一端(として本書で触れているわけではないが、僕はそう理解した)と言えるのが、こんな文章だろう。
【『そういう発言は、気にせず受け流すのが一番』が普通だと思わないでほしい。それが処世術として、まかり通っているような世の中を渡りたくない。】
そう、「男であることの暴力性」に直面した者たちが、「『気にしていない風を装うこと』が最善である」という誤った理解の中で生きてきたために、男はその事実に気づかないのだ。もちろん、「『気にしていない風を装うこと』が最善である」という誤った考えを押し付けているのもまた男であり、その醜悪さはなかなかのものがある。
それらの違和感を彼女は、
【相手は女という記号でしかわたしを見ていないのだ。】
と非常にシンプルな言い方で表現しているが、この「記号」という考え方は、僕が対人関係を考える上での割と根本的な発想でもあって、長々とした文章を書いたこともある(とりあえずここでは触れないが)。そう、まさに、世の中に存在するほぼすべての「ハラスメント」が、「自分がどのような『記号』で見られているか理解できていない」「その言動が、相手をどういう『記号』で見ていると伝わり得るのか」という想像力の欠如から来るものだと思っている。
同じような感覚は、こんな文章からも理解できるだろう。
【心無い発言をした人に、
「LGBTQ+を敵に回した!」
と、メディアは言うが、外部からの言葉だなと思う。当事者ではない、外野からの言葉がこの世には溢れている。
メディアが言うようにLGBTQ+を敵に回していることは確かだが、
・他人のセクシュアリティやパーソナルなことに口出しをしてくるクソ野郎
・自分がマジョリティであるという自覚を理由にマイノリティを格下の人間だと無意識に思っている差別
などなど、そのメディアにも言いたいことはいろいろある。】
「記号」に対する自覚がなければないほど、容易に「言葉」の中に「暴力」が内在し得る。その「暴力」は、発した人間の「無自覚さ」をあっさりと呑み込んで、自覚的な人間を強烈に打ちのめしていく。しかし、やはり「無自覚」故に、自分がどれほど「どこかにいる誰か」を打ちのめしたのか、その傷を理解することはない。むしろ、「良いことを言った」「きっと誰かのためになっているはず」なんて思い込みを抱いていたりもするだろう。
そういう「世間」に対して、ずっと違和感を抱き続けてきた。
唐突に話を変えるが、彼女は「美術館」のような場所を「生きるために必要な場所」と認識している。
【この空間はやんわりと社会に蔓延る『生きにくさ』からわたしたちを救ってくれるから。社会はわたしたちに生きにくさを感じさせると同時に、美術館や博物館もわたしたちに正しい場所を提供してくれる。】
そんな彼女が、美術館に来た人間に対して「怒り」を抱く場面が描かれる。適宜省略しつつ、引用してみよう。
【写真を鑑賞していると、予感は的中した。iPhoneのシャッター音が鳴り響いた。これはもう本能だと思った。そこから止まることのないシャッター音が作品の前を陣取る。
(中略)
社会から離れ、生きるために美術館や博物館、映画館に来る人間もいるんだよ。
(中略)
つらくて泣きそうだった。見栄えがいい、オシャレという感覚がソーシャルメディアと力を合わせ、私たちの居場所を奪っていく。強奪だよこんなもん。】
少し違うが、僕も似たようなことを感じた記憶を強烈に覚えている。10年ぐらい前、タイにバックパック的な旅行に行った時のことだ。
行きと帰りの航空券だけ取って、宿は事前には取らずに、2週間タイをうろうろする旅行に出た。ちなみにその時、まだギリギリガラケーを使っていた僕は、写真を撮る機能を持つものを携帯しなかったので、タイの写真は一枚もない。
まず最初に向かったのが、タイの一番の観光地である王宮だ。着いたのが土曜日だったこともあり、恐らく普段よりも観光客が多かったのではないかと思う。
そしてそこは、自撮り棒を持った多種多様な人種による撮影大会の様相を呈していた。そしてその日以来、その後の2週間、僕は「観光地には一切行かない」というルールを定めてタイを旅行した。クソみたいな自撮り棒や、カメラを通じてしか目の前の世界を捉えようとしない人間の振る舞いに触れたくなかったからだ。
専門学校で写真を学んでいたことがあるという彼女は、
【しかし、学校を卒業して7年たった今、やっと写真を諦めることができた。】
【わたしはもう写真をやらなくていいんだ。】
という実感にたどり着くことになる。その理由の1つが、先程触れた「撮ることの『暴力性』」である。
【十分な関係性が無い人を一方的に記録することの暴力性を理解すること。】
僕は実は、人生の中で一瞬だけ、「高校を卒業したら、写真の専門学校に行こう」と考えていた時期がある。確か実際に、どこかの専門学校の体験入学的なのにも参加したような記憶がある(あんまり覚えていないが)。まあそれは、「社会に出たら死んじゃうだろうな」という逃避的思考、つまり「普通に大学に行ったら、普通に就職が待ってるだろうし、そういうレールからさっさと外れたいな」という気持ちの表れでしかなく、全然本気じゃなかった。
ただ、本気じゃない逃避的な思考だったとはいえ、そこで「写真の専門学校」という選択肢が出てきたのは、子どもの頃は写真を撮るのが好きだったからだ。何かのタイミングで親にフィルムカメラを買ってもらい、小遣いの中からフィルム代と現像代を出しながら、色んな機会に適当に写真を撮っていた記憶がある。何故写真に興味を持ったのか、そして、何故高校時代ぐらいまでで写真を撮るのを止めてしまったのか、その辺りの記憶はまったくないのだけど。
ただ、フィルムカメラで写真を撮っていた時に、「カメラを向けることは暴力的な行為である」という自覚を、なんとなく持っていたような気がする。だから、「人間を撮ること」は難しいと感じていた。その当時、「カメラ目線の写真は撮りたくない」と思っていたので、体育祭とか文化祭で写真を撮ってたりした時には、周りから「盗撮」とよく言われた。まあそうだよな、と思う。だから、「盗撮」と言われながらも、「その人のことを勝手に撮る」ということが許容されるような関係性にいなければならないだろうな、と考えていたような記憶がある。そういう「ややこしさ」を自覚していたから、写真を撮るのを止めてしまったのかもしれない。
彼女は、インスタに自撮り写真をあげているそうなのだが、その理由の一端にも、「撮ることの『暴力性』」が少し関係している。「自撮りする理由について、自分で自分をインタビューしている」という構成の章で、次のように書いている。
【わたしは写真を勉強してたので、自分の手の届く範囲の景色や友人や日常のワンシーンを写真にしてきたのですが、自分の写真が少ないということに気が付いたんです。写真を撮る側の人間なので当たり前ですが。じゃあ誰かに写真を撮られるような人間になる!というのもおかしな話じゃないですか。写真ってあくまでも撮る側の人間主体のものなので。写真として自分の姿が残っていたらいいなとは思うんですけど、写真撮られるのそこまで得意なわけじゃないし。でも人が写ってる写真も撮りたい。それで、自分の一番近くにいる人間を探してみたんです。友達だと許可が必要だし、気も使いたいし。じゃあ、許可もいらない自分にすれば良いんだと思い自撮りを始めることにしました。】
「撮ることの『暴力性』」を理解しているからこそ、「まったく気を使わずにその暴力性を向けられる存在」としての「自分」を撮影するに至った、というわけだ。このような点に自覚的であることは、とても大事なことだと思う。
またこの文章は、「写真を撮る」という行為そのものに対する重要な言及も成している。「写真ってあくまでも撮る側の人間主体のものなので。」という一文があるが、これについて別の章でこんな風に書かれている。
【突然だがわたしが好きな写真は死んだ。もうこの世にはわたしが心酔した写真という行為はなくなったと思った。SNSの普及で写真は撮る側のものから、撮られる側のものになった。撮られる者が撮る者をコントロールし、撮られた者が撮った写真をコントロールする。つまり様々な最先端技術や、SNSのフィルターを使い見る人までをコントロールしている。写真が死んだというか、写真的な瞬間が現代にはないのかもしれない。
撮られる人の自意識というのが、進化しすぎてしまった。】
「写真を諦める」「撮ることを止める」という宣言は、このような感覚を下敷きにしている。確かに、「写真を撮るという行為」が「撮る側」のものから「撮られる側」のものになったという感覚は誰しもが持っているだろうし、その点を以って「写真を撮るという行為」を「死んだ」と表現するのも僕的にはしっくり来る。別の章でも、次のように書いている。
【自分が選んで撮る景色ではなく、景色に圧倒されたり、所以のわからない感銘を受けてその景色に写真を取らされるという原体験に戻らなくてはいけない。自分が存在しているから写真が存在するのではない。世界や生活が存在しているからそれを写真に収めることができる。】
これもまさに、「写真を撮るという行為」はそもそも「撮る側の『撮るという行為』以前の何かを起点にしなければならない」という話だろうし、「だからこそ『写真を撮るという行為』に価値があるのだ」という宣言なのだろう。僕は今写真を撮ることはないが、「文章を書く」ということについても似たようなことを感じる。例えば、「◯月◯日が締め切りなので、そこまでに文章を書いて下さい」みたいなことが起点となる文章ではなく、「何かが起こった、そしてそのことが『文章を書くという行為』を誘発した」というようなものであるべきだと思う気持ちはある。僕は普段、「本・映画に触れたら必ず感想を書く」ことにしているので、それは「『書くという行為』以前の何か」に誘発されているとはいい難い文章も多いが、例えば「Chim↑Pomの展覧会を観た時の衝撃」を書いた文章は、まさに「書かされた」といった感覚があるし、この『ユーハブマイワード』の感想も近いものがある(元から感想を書くつもりではいたことは確かだが、今書いている文章も「書かされた」というのに近い)。
本書には随所に「写真について思うこと」が散りばめられており、そしてその思考が、社会への違和感や自分のアイデンティティみたいなものと自然に接続されていく感じがとても良い。写真とは少し違うが、
【今まで見ていた景色を誰かの目を通して見ること、見たことのないものを自分の目で見ること。人と関わっていく中で自分の目が育っていく。それに気が付いたときの新鮮さを何度でも味わいたくて、私は他人を諦めたくない。】
という実感も、「見る」ということを通じて「他者との関係性」を考えるものと言える。基本的に人間が好きではない(というか、興味を持てる人間が非常に少ない)僕が、それでも「他人を諦められない」のも、彼女とほぼ同じ理由だと言っていい。ほとんどの場合、そんな「新鮮さ」を味わうことなど出来ないのだが、ふいに訪れるそういう瞬間が僕を生かしていると感じる。そういう瞬間の「予感」みたいなものをほとんど感じ取れなくなってしまったら、生きていくことはより厳しい行為になっていくだろう。
さて、少しだけ自撮りの話に戻ろう。彼女は自撮りをする理由の1つを、自分自身が「まったく気を使わずにその暴力性を向けられる存在」だったから、と説明している(他にも、「友人や家族に近況を知らせたい」とか、「『今の記録』が将来何か意味を持つかもしれないという期待を抱いていたい」などがある)。また、「写真を撮る行為」を「撮られる側」ではなく「撮る側」主体のものであるべきと考える彼女は、自撮りという「撮られる側」「撮る側」が同一人物に混在する状況でも、「撮る側」の感覚を強く持っていると考えていいだろう。
だからこそ、「撮られる側」のものとして写真が受け取られることに困惑する。
【あとわたしのアカウントを見にきた全く知らない人から『めっちゃいい顔してますね』というDMをもらったことがあります。あんまりそういうことを知らない人に言わない方がいいですよと言ったら。『本当のことを言っただけだ。言いたいから言った』と、キレられたことがあります。自分の顔を全世界に発信しているわたしもわたしですし、自分の意図通りに伝わらないこともあるというのは重々承知の上でしたが、顔面を売りにしているわけでもないのに外見を良いとか悪いとか言われるの本当に気分が悪かったです。人の顔面に判定を下してそれを伝える人がいるなら自撮りをやめようと思いましたが、そいつらのせいで『自分を記録せずにはいられない!』という気持ちを抑えるのはおかしなことだったので、やめませんでした。わたしは自分の外見に自信があるわけではないのです。自分の体だな~と思っているだけです。】
僕はここで示されている「本当のことを言っただけだ。言いたいから言った」という、どこの誰とも知らぬ者の主張にクラクラする。そんな理解しか持てないでいる人間と、同じ世界に生きていたくない。
僕は、「思うこと」は、それがどんなことであれ自由だと思っている。どれだけ倫理に反していようが、どれだけ法律に抵触する内容だろうが、それが「頭の中」だけで閉じられているのであればなんの問題もない。
しかし、「『思うこと』は自由」というのを、「『思ったことを口にすること』は自由」だと履き違えている人が世の中には多すぎるように感じてしまう。どうして「思った」で留めておけないんだ、と思う。もちろんそれは、「めっちゃいい顔してますね」が、「相手にとって喜ばしく受け取られるはずだ」という思い込みがあるからだ。しかし、当然すべての人間がそう受け取るはずもない。だから、その程度の想像力も持てない人間は、「『思ったことを口にすること』は自由」などと口にするのも諦めてほしいと思ってしまう。
【(恋愛がなかなか続かないことについて、相手から問われたことに対して返答すると)「お前には男を見る目がない」とか「本当に好きな人じゃなかったんだよ」とか言われたりする。わたしの問題に話をすり替えたり、知ったような顔をして人の好きを精査してくる。失礼な発言なので人に同じようなことを言わないように気をつけたいと思う。相手の感覚を否定するようなことを軽々しく言っちゃダメだし、個人の恋愛はお前を楽しませるためのものじゃない。】
こういうことをナチュラルに口にする人間は存外多い。いずれも、「これは相手のためになることだから」という大前提の元で、「『思ったことを口にすること』は自由」と考えているが故の振る舞いなのだろう。そもそも「あなたのためだから」という思い込みにこそ苛立ちを覚えてしまうのだが、そのような表明をしても相手には伝わらず、「『思ったことを口にすること』は自由だろ」みたいな反応が返って来る世界線はしんどい。「『思ったことを口にすること』は自由」と考えていても別にいいが、せめて「これはあなたには何の役にも立たない意見かもしれないけど」みたいな前提に立っていることはほのめかしてほしいと思う。
【学生っぽいな~と思いつつも、自分がもうそこに居ないことにちょっとびっくりした。いつまでも学生のような気分だったけど、そんなことはないらしい。本人の前で「学生っぽいねえ」とか言いそうになるのを抑えた。わたしもあの時の大人達の気持ちが分かるようになった。
でもこの発言がどれだけ失礼なものか、大人は考えていない。大人は学生に責任のない言葉ばかり贈る。年上の人ってどうして若者のヤル気を削ぐようなことばかり言うのだろうか。的外れなアドバイスと、『若いんだからもっと~』というテキトーな言葉。】
僕も、年齢を重ねるほどに一層、他人に対して「言葉を飲み込む」ことが増えたように思う。もちろん、相手との関係性による。僕が発しようとしている言動を、相手がそのままの意味で受け取ってくれそうだと信じられる相手に対しては、きっと、「学生っぽいねえ」みたいなことも言うだろう。別に、その言葉自体を使ってはいけないということではない。相手にとってその言葉がどういう意味を持つのかを理解していれば、そしてそれが発する人間の意図と大きくズレていないのであればいい。問題は、「そんなことを考えようともせずに言葉を発する人間」だ。世の中の人は、もう少し「躊躇」した方がいいと思う。
彼女は、周囲の人間にはあまり理解してもらえない「恋愛に対する態度」について、様々な機会を捉えて考えることで、様々な思考をひねり出していく。
【これ以上誰かのことで自分のことを削りたくない。もうこれ以上自分に嘘をつきたくない。最初から、間違っていたんだ。最初から、誰とも一緒になりたくなかった。誰かと特定の関係になりたくない。誰とも恋愛をしたくない。】
【たくさん時間を過ごして来た相手を今まで通り恋人にしたいと思えなくなったことに、強い疑念や違和感を覚えたくさんの時間をかけて悩んだ。】
【結局わたしは恋愛を恐れているとか、恋愛感情がわからないとかじゃなくて、誰かを好きでいる自分が好きじゃないのかもしれない。自分の気持ちの良い方に人間関係を勧めていくことが、相手や相手の好意を利用しているような気がしてそれが苦しい。】
【告白されても「ごめんなさい。今恋人いらないんです」って言えばいいだけじゃんって思うかもしれないけど、相手の期待に応えられないことが当時はとにかく苦しかった。】
別に「結論を出すこと」が本書の目的であるはずがなく、その右往左往している状況そのものにさえ価値があると言ってもいいかもしれない。その中で、「彼女が手放すべきではない問い」だと僕が感じたのがこれだ。
【この好きは『好き』とは違う。『大切』というのが、みんなにも伝わりやすいし、彼に対する感覚として一番近かった。「それは『好き』ってことだよ!」と人は言うんだけど、多分違うんだよな…あなたの想像している『好き』とはちょっと違う気がするのだ。】
彼女が「恋愛とは何か」という航海の旅を終わらせることが出来るのかどうか、それは僕にはよく分からないが、少なくとも、この問いを手放さずにいれば、座礁したり難破したりすることはないんじゃないかと感じた。
さて最後に、本筋とはあまり関係のないどうでもいいことに2点触れて、長々と書いたこの文章も終わりにしようと思う。
まず、巻末で文章を寄せている友人の満希さんは、著者にとって「話していて説得力を感じる存在」のようで、満希さんもよくそんな風に言われるそうだ。だから「そういう仕事ねーかな」と、その説得力を活かせる仕事がないだろうかと口にするわけだが、それに対して著者が「占いとか、やればいいんじゃない」と返す場面がある。
僕も時々、「長江さんは占い師になれるよ」みたいなことを言われることがあるので、そういう意味で、僕の意識にちょっと引っかかる描写だった。
さて最後に、その満希さんが巻末で著者について書いているこんな文章を取り上げよう。
【結果的に自らの心をすり減らすことになっても、彼女はそれをやめようとしない。この世界で弱者が軽んじられているとしたら、誰かが声を上げ続けなければならないから。大丈夫じゃない人が目の前にいたら、是非とも大丈夫になってもらいたいから。この本はそのために生まれた。】
どこかで凄く似たような感覚の文章を読んだことがあるなぁ、と思っていたのだが、思い出した。戸田真琴『あなたの孤独は美しい』の中に、こんな文章があるのだ。
【あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。】
こういう言葉は、諸刃の剣でもある。というのも、「上っ面」だけ読むと、とても「嘘くさい」からだ。「そんなわけないだろ」と思われてしまうリスクが、常に存在する。しかし戸田真琴も、あるいは著者について書く満希さんの文章も、とても「本当くさい」。それは、戸田真琴も著者も「言葉が持つ重み」を十分に理解し、その切れ味で誰かを血みどろにする可能性を引き受けながらも、勇敢に文章を紡いでいるからだと思う。
しかも『ユーハブマイワード』の場合、「あなたのためになんでもする」という著者の決意を、友人が代弁しているのだ。確かに、「自分で言っているのではない」という客観性が得られることはメリットである一方で、その「真実性」みたいなものは、自身の言葉ではないが故に若干劣ってしまう可能性も出てくると思う。しかし、本書全体における著者自身の言葉が非常に力強いので、友人の「代弁」が「嘘くさいもの」になっていない。素直に、「あー、本当にそうなんだろうな」と思えるものになっている。
そんなわけで、なんだかとても良い「言葉」に出会える本だったなと感じた。
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