【映画】「インターステラ―」感想・レビュー・解説

『親は子供の未来を見守る幽霊だ』

圧倒的な絶望の中で、人間は何を考えるのか。

『この星で生まれたが、この星で死ぬことはない』

圧倒的な孤独の中で、人間は何を見るのか。

『人の気配がしたから』

深淵の闇の中で、人間はどう生きるのか。

『子供がいる。だからこそ、救うのだ』

僕たちに、その問いが突きつけられる。

とんでもない映画だった。圧倒的な「体験」だった。そう、それは「体験」だった。

『怖いのは、時間だ』

世界はここまで広いのか、と感じた。

『ここからの地球は、美しい』

人間はこれほどまでに小さく、そして大きのかと慄いた。

『選択の余地は、ない』

僕の中に、一生答えは生まれることはないだろう。この壮大な、壮大な映画から突きつけられた問いに対する答えは。

『守れない約束はするな』

この映画を見た後では、「絶望」という言葉の意味を、もっと広げなくてはならないだろう。時間的にも、空間的にも、果てしなく伸ばし続けた先に無限に広がる絶望。この絶望は、もしかしたらいずれ、僕たち自身に突きつけられるかもしれない。そんなことありえない、と断言する自信は、僕にはない。

『今地球にいる人間は、見捨てるのか?』

この映画を見た後では、「孤独」という言葉の意味を、もっと広げなくてはならないだろう。それは、終わりを想定できない孤独だ。終着点の見えない孤独だ。そんな孤独が存在することを、誰にも知られることがないような孤独だ。距離だけでも、時間だけでもない。人間が積み上げてきた、どんな歴史も感情も入り込むことが出来ないような、圧倒的な孤独だ。

『皆、人類との再会はないと覚悟して旅立った』

そして、その中で描かれる人間。この映画の中で描かれる「絶望」「孤独」に比べたら、人間という存在のなんと小さなことか。それでも、人間という存在がなければ、「絶望」も「孤独」も存在し得ないという矛盾。

『親は子供の記憶の中で生きてる。その意味が、やっと分かった』

絶望を前にした時、人間はどう変わるのか。

『悪は人間が生む?』

孤独に忍び寄られてた時、人間を支えるものは一体なんなのか。

『任務を遂行する。これは、人類のためなのだ』

答えの一つは、科学者から、科学者らしくない形で語られる。

『解けたわ。「STAY」よ!…信じないの?』

地球は、死にかけている。
砂埃が街を覆い、植物は枯れる。食糧の生産が至上命題であり、必然的に、技術は不要とされた。学校では、アポロ計画は捏造だと教えている。かつて人類は、あれほど空を見上げ、あの向こうに何があるのだろうと想像を膨らませていたというのに。今じゃ、どうやって腹を膨らませるかにしか関心がない。
クーパーは、この世界で珍しく生き残っている技術者だ。かつてはNASAのパイロットだったが、既にそんな需要はない。NASAは解体され、クーパーは農民になった。農業用機械の修理などで呼ばれることはあるが、クーパーの技術力が日常に活かされることはあまりない。しかしクーパーは積極的に、子供たちに技術を学ばせようとする。長男を大学に進学させようと詰め寄り、アポロ計画について学校で語ったために問題時扱いされる娘・マーフィーに、ラップトップのパソコンを触らせる。

『昔は、新しいモノが日々生まれた。当時の人口は60億人。人々は皆欲しいものを必死で争った』

マーフィーは、自分の部屋に幽霊が出ると父親に告げる。ポルターガイストが起こるのだ、と。父は、幼い娘の意見に耳を傾けようとしないが、科学的な見地からきちんと調べてみろとアドバイスをする。
その”幽霊”が、クーパーを宇宙に誘うことになる。

『俺の娘だ』

クーパーが知ることになったのは、驚くべき事実と計画だった。クーパーは、その重責に、そして家族、特にマーフィーとの離別に苦悩する。

『正しい行ないが、誤った動機ではいかん』

しかし彼は、娘の懇願を押し切って、宇宙へと飛び出す。
人類のために。

物語の構造は、ハリウッド映画の王道に収まるだろうと思う。地球の破滅、それを救う手段、家族との別離、度重なるピンチ、起死回生の一発。映画をそもそもあまり観ないので的確ではないかもしれないけど、そういうハリウッド的な王道の構造のなかにきっちりとハマる物語だと思う。
しかし、王道を描きつつ、その圧倒的な世界観が同時に、王道的な展開を破壊しもする。描かれる「極限」のスケールの大きさが、王道的世界観を飲み込む。

「人類のため」「家族のため」という王道の構造が吹き飛んでしまうほどの絶望と孤独。この中にあって、人間は、人間らしさを保つことは出来ない。正義は、その形を保つことが出来ない。愛は、その力を発揮することが出来ない。
クーパーたちは、そんな極限の中に放り込まれることになる。
「人類のため」「家族のため」というのは、彼らを、そして物語全体を支える背骨のようなものだ。ハリウッド的王道の物語は、どれほどの困難であろうともこの背骨が揺らぐはずがないという観客の信頼によって成り立っているのだと僕は思う。
しかしこの映画では、その背骨が揺らぐのだ。揺らがざるを得ないのだ。誰かの父親であることも、崇高な研究目的も、そもそも人類であるという自らの根本の帰属さえも捨て去って、「itself」である存在にまで自己が解体されていく。
そう、まさにそれは「特異点」なのだ。人間が、恐らく本来的に内部に抱えていた、しかし剥き出しになることがこれまでなかった特異点が、極限状況で露わになったのだ。
その、剥き出しの「人間」の描かれ方が、圧倒的だった。
この物語では、「時間の流れ」も、非常に大きな要素だ。時間の流れ方の違いが、すれ違いを生む。取り戻すことの出来ない溝を生みだす。誰かのウソが、ごまかしが、大きな亀裂に変化していく。

『相対性理論は、この際無視だ』

そして、この「時間の流れ」の違いが、物語に大いなる驚きを与えもする。まさか、それとあれとが繋がるとは思わなかったという展開が、終盤で待っている。

『彼らじゃない。俺たちだ』

終盤の展開は、観る人によっては賛否が出るかもしれない。それまでの映画の流れから道を踏み外したような、それほどの展開を見せる。好き嫌いは出るかもしれない。しかし、僕は見事だと感じた。「重力だけが、時空を越えることが出来る」という物理学の理論が、こんな形で映像化されるとは、本当に驚きだった。

『ユリイカ!』

僕たちは、まだ、平和な時代を生きている。しかし僕らにも、いつか彼らのような問いを突きつけられる日が来るだろう。その時のことは、正直、考えたくない。だからこそ僕らは、そうならないように努力しなくてはならない。

僕たちは、生きなくてはいけない。

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