【映画】「ベートーヴェン捏造」感想・レビュー・解説

なかなか面白い映画だった。とは言え僕は、本作で描かれていることは大体知っていた。原作を読んでいたからだ。

しかも、どうやら今は河出文庫で手に入るらしいが(エンドロールを観るまで知らなかった)、僕が読んだのは単行本で、「柏書房」という、大手とは言えない出版社から出ていたものだったので、本作が映画化するという話を知った時には本当に驚いた。「えっ!?あの作品が映画化?しかもバカリズム脚本!?」って感じだったのだ。しかも、単行本の発売は2018年。結構前である。

いやしかし、映画化したくなるのも分かるよなぁ。面白かったもんなぁ、原作。概ね映画で描かれている通りではあるのだけど、しかし、原作ではもっと詳細に「いかにして『ベートーヴェン像』は捏造されたのか」みたいなことが分かるように書かれているので、是非読んでみてほしい。ジャンル分けするとすれば「ノンフィクション」ということになるが、よくあるノンフィクションよりは大分読みやすい作品だと思うので是非。

で、本作全体の概要をざっくり書けば、「ベートーヴェンの数々の逸話は、シンドラーという彼の秘書がでっちあげたものだ」となる。しかし、普通に考えて「そんなこと出来るだろうか?」と感じるんじゃないかと思う。なにせベートーヴェンはゴッホなどとは違い、生きている時から超有名人だったのだ。そんな人物のエピソードを”捏造”なんて、可能なのか?

しかも、本作でも散々描かれているが、このシンドラーという秘書は、ベートーヴェンからボロカスに言われていたのだ。シンプルに言えば「メチャクチャ嫌われていた」のだ。だからそんな人物が、いくらベートーヴェンの死後とはいえ、彼の数々の逸話を捏造なんか出来るのかと感じるのが普通だろう。

そしてその「捏造されたエピソード」には、「ベートーヴェンと言えば」みたいなものも含まれている。例えば、本作でも何度か言及されていたが、「『運命』の冒頭の『ダダダダーン』は、『運命が扉を叩く音』である」みたいな話を耳にしたことはあるんじゃないかと思うが、これは現在では、シンドラーによる創作だと考えられている。そしてその他にも、「ベートーヴェンの天才性を伝える逸話」のほとんどを、シンドラーが作り出したとみなされているのである。

果たしてどんな風にしてそんなことが可能だったのか。その最大のポイントが、「ベートーヴェンの耳が聴こえなかった」という点にある。つまり「筆談による会話をせざるを得なかった」というわけだ。

ベートーヴェンの遺品に、「会話帳」と呼ばれるものが存在する。これはその名の通り、「ベートーヴェンとの筆談の際に使われたノート」である。しかし、ベートーヴェンは、耳は聴こえないが喋れはした。だから「会話帳」に書かれているのは、「ベートーヴェンと会話している者たちの文字」である。当然、「ベートーヴェンの言葉」などまったく載っていない。だから、この「会話帳」の価値を正しく認識出来ている者は、当時ほとんどいなかった。

シンドラーを除いて。

しかし、じゃあシンドラーはこの「会話帳」を使って、どのように「天才の逸話」を捏造したのだろうか? それは、「会話帳の余白に新たな文字を書き足し、会話帳を改ざんした」のである。

この事実が明らかになったのは1977年、ベートーヴェンの死後150年というアニバーサリーイヤーのことだった。「会話帳」を保管する図書館の研究チームが「会話帳には言葉が追加されている痕跡がある」と発表したのだ。もちろん、付け足したのはシンドラーである。

シンドラーは、「実際にはなされていない会話があたかも行われたかのように、自分の発言をあちこちに付け足した」のである。そんなことが出来たのも、「会話帳」がそもそも「後で読み返すことを想定されていないもの」だったからだ。様々な人間が代わる代わる「会話帳」に書き込んでいたので、書いている人もバラバラで話題もあっちこっちに移る。それが当たり前だったから、シンドラーが余白に何か書き足したとてそれが違和感を与えたりはしないのだ(だからむしろ、研究チームがどのように「書き足されている」と判断したのかが気になるところである)。

ベートーヴェンについての伝記には様々なバージョンがあり、そしてシンドラー自身も彼の伝記を書いているのだが、結果としてシンドラーの伝記が広く読まれることになった。その理由はいくつかあるだろうが。本作では「英訳版を出版したこと」にも触れられていた(ベートーヴェンはドイツの音楽家なので、伝記は基本的にドイツ語で書かれていた)。そしてもう1つ大きな理由は、「シンドラーの伝記のエピソードが、『会話帳』に記録された会話によって裏付けられている」という点もあげられると思う。

しかし実は、その出典元にこそシンドラーの手が入っていることが明らかになったというわけだ。先述した「運命」のエピソードもその1つである。シンドラーはこんな風にして、「天才の逸話」を捏造していったというわけだ。

しかし、この点に関しては、物語のラスト、音楽室で語る音楽教師(本作は「学校で生徒にベートーヴェンについて語って聞かせている」という設定になっている)が指摘していたことを踏まえるとより面白くなるだろう。彼はこんな風に言っていたのだ。

【確かに、ベートーヴェンが言ったという証拠はない。しかし、言わなかったという証拠もない。】

確かにその通りである。明らかになっていることは、「シンドラーが会話帳を改ざんした」ということだけである。例えば、先の「運命」のエピソードについて、実際にベートーヴェンとやり取りしたことはあるのだが、「会話帳にはベートーヴェンの言葉は残らない」という性質があるが故に、「会話帳」だけを見たらそのやり取りが存在しないことになってしまう。だから後世の人にも「ベートーヴェンがそう言ったんだ」という事実が明白になるように、敢えて「会話帳」に書き足したんだ、みたいな解釈も無理ではないだろう。

とはいえ、恐らくその解釈には無理があるだろう。原作本に書かれていたことだが、現存する「会話帳」139冊のうち、64冊、246ページに「改ざん」の痕跡があるというのだ。さすがにこのすべてを「捏造ではない」と受け取るのは難しい。

だが、「事実が混じっている可能性」をすべて否定するのも違うんじゃないかと思う。だから、「もはや何が真実で何が捏造かを判断することは不可能」としか言いようがないだろう。

そんな史実をベースにした作品である。

というわけで、ざっくり内容の紹介をしておこう。

物語は放課後の音楽室から始まる。音楽室にペンケースを忘れたことに気づいた野村が教室に入ると、音楽教師の黒田がピアノを弾いていた。何故かコーヒーを飲むことになった野村はそこで、黒田先生から「ベートーヴェン」についての話を聞かされることになるのだ。

つまり、本作全体の物語が「音楽室で黒田先生が生徒の野村に語って聞かせている話」という設定になっているのである。

で、物語は、本作の主人公であるアントン・フェリックス・シンドラーが細々と音楽活動を続け始めたところから始まる。田舎で生まれ育ちながらバイオリンを習うなど音楽に触れてきたシンドラーは、当然、音楽で身を立てていきたいと考えていたが、やはり田舎出身者にはそのようなチャンスはなかなかなかった。そのため彼はウィーン大学の法学部に入学するのだが、そこでナポレオン戦争などで盛り上がっていた学生運動に参加していたところ逮捕されてしまう。こうして彼はキャリアの道を断たれ、それで音楽家として生きていく決断をする。幸いにも、フランス革命後のヨーロッパでは音楽家は少しは食べていけるようになっており、彼もまたオーケストラの第一バイオリンに収まった。

そんなある日、パーティーの場で憧れのベートーヴェンに出会った。彼は幼い頃からベートーヴェンの曲を聴き、バイオリンで弾く生活だったのだ。目の前にいるのは小さくて小汚いおじさんだったが、憧れの人物であることに変わりはない。そしてどうにか挨拶をすると、ベートーヴェンから「良ければ秘書として雇ってやる」と言われる。シンドラーは天にも登るような気持ちだった。

しかし、実際に秘書として働き始めると、ベートーヴェンのヤバさが理解できるようになった。とんでもない癇癪持ちだったのだ。しかしシンドラーは、「だからこそ、自分以外には彼を支えられはしない」と考えるようになった。こうしてシンドラーは、出版社との交渉から甥の相談相手まで、ベートーヴェンに関わることは何でも引き受けるようになった。

その後、様々に紆余曲折ありながら、秘書としてベートーヴェンの死を迎えたシンドラーは、一時期ベートーヴェンの秘書だったホルツが「ベートーヴェンから生前、自伝の執筆を託されていた」という事実を知る。これはマズい。ホルツが何を書くつもりか知らないが、ベートーヴェンのあんなことやこんなことを書かれては、「天才マエストロ」の名に傷がつく。となれば、ここは自分が「正しいベートーヴェン像」を伝えるための自伝執筆を決断するしかないが……。

というような話です。

原作では、「会話帳に改ざんが行われていたという研究」がまず紹介された後で、「シンドラーがどんな風に改ざんを行い、実際にはベートーヴェンとはどんなやり取りが行われていたのか」と過去へと遡る構成になっているが、本作は基本的に「ベートーヴェンとシンドラーの関係を時系列順に描く」という構成になっている。だからタイトルの「ベートーヴェン捏造」に相当する物語が始まるのは、物語の中盤以降、ベートーヴェンが亡くなってからである。それまでは、「シンドラーがいかにベートーヴェンから嫌われていたか」「シンドラーがいかにベートーヴェンに献身的だったか」「ベートーヴェンの周囲の人間も含めた関係性の中でどんな出来事が起こっていたのか」などが描かれていくのである。

正直なところ、映画は「シンドラーの狂気」に焦点が当てられていて、それはそれでもちろん面白いのだが、原作が描いているような「どんな風に捏造が行われたのか」みたいな詳しい話はあまりない。まあ、フィクションの物語としてはそれで全然いいだろう。というか、映像で観る分には「シンドラーの狂気」を描く方が伝わりやすいし、そして何よりも、確かバカリズムが言及していたと思うが、「主演の山田裕貴は、本当にヤバい人みたいに見えることがある」という言葉通り、山田裕貴演じるシンドラーの「ヤバさ」が際立つ作品だった。まあそんなわけで、「捏造」の詳細を知りたい人は是非原作を読んでほしい。

シンドラーは「狂信者」と言っていいぐらい、「ベートーヴェンを天才として後世に残す」ことにこだわり続ける。実際、シンドラーが書いた嘘だらけの自伝を巡って、当時ウィーンでは、ホルツらと紙上でバトルが繰り広げられたそうだが(しかしそのお陰で、「会話帳」の購入を渋っていた図書館が一転購入を決断する流れになるのも面白い)、それぐらい、ベートーヴェンを直接知る者にとっては、シンドラーが書いた自伝は「嘘っぱち」だったようである。

しかしシンドラーは、ホルツらとの「孤独な戦い」を強いられてもなお、自身の主張を曲げず、「自分が記したベートーヴェンこそが真実だ」と奮闘するのである。ある場面でシンドラー(の心の声)が、「現実なんかどうだっていい。理想こそが真実なのだ」みたいなことを口にするのだが、シンドラーは本当にそういう気持ちでいたのだろう。別の場面では、「嘘じゃない。魔法ですよ。民衆が求める理想を現実にするための魔法なんです」とも言っていた。

さて、こういう主張はむしろ、SNS時代の今だからこそリアルに響くんじゃないかと思う。現代では「SNSを通じて示されるその人物の一面」が「その人物のすべて」であるかのように受け取られる時代であり、だからこそ、そんな風潮を利用した印象操作も可能だからである。例えば、全員が全員そうではないだろうが、いわゆる「アイドル」と呼ばれる人たちは、まさに「現実なんかどうだっていい。理想こそが真実なのだ」というスタンスで生きているんじゃないかという気がする。そしてそれを、SNSが存在しない200年前にやってのけたのがシンドラーだというわけだ。原作でも、ベートーヴェンの「会話帳」を「200年前のSNS」と表現していた。言いえて妙である。

そんなわけで、原作を読んでいた僕は内容的には大体知っていたし、でも映像化されたことで「シンドラーの狂気」がより増幅して伝わってくる本作は非常に面白いと感じた。でその上で、「物語の構成で上手いなぁと感じたこと」に触れてこの記事を終えようと思う。

先述した通り、本作は「学校の音楽室」から物語が始まる。最初は、「その構成に意味があるんだろうか?」と感じたのだが、物語を最後まで観て、「なるほど、これには必然性があったのだな」と感じた。凄く上手いなと思う。

そう感じた理由は、これも先述した通り、「会話帳の改ざんが発覚したのは、ベートーヴェンの死後150年経った1977年である」という点に関係している。これをそのまま物語に組み込むと、「主人公であるシンドラーが死んだ後の物語」を描かなければならないことになる。それに物語的にも、「会話帳を改ざんしたシンドラーが、するっと逃げ切ってしまえた」みたいな展開だと、物語としての盛り上がりに欠けるだろう。

だから本作では、史実を少し捻じ曲げて、「シンドラーが『あなたが改ざんしたんですよね?』と突きつけられる」という展開にしているのだ。しかしこれは史実ではないし、しかも「実在した人物の行動」を歪曲するような形で物語を改変しているので、そのままにしておくと都合が悪い。

この点に関しては、少し前に観たNHKドラマ『シミュレーション 昭和16年夏の敗戦』というドラマで持ち上がった問題が上げられるだろう。実在した人物を、史実とは異なり悪役のように描いたことで、その孫が怒りの声明を発表するような事態になったのだ。僕はこのドラマを観ていたが、確かに作中で「実在する人物とは違う」みたいな表記があったものの、それでも、あの人物の描写がまるで異なるものなのだとしたら、さすがにそんな表記1つで許容できるようなものじゃないだろうな、とも感じた。

そして本作『ベートーヴェン捏造』でも、同じような問題が生まれ得るような構成にしていたのである。

ただ本作では、現代パートで「それって、先生の想像ですよね?」と生徒に言わせることで、「あの人物の言動は実際のものではない」と観客に伝えることに成功しているのだ。これは上手いなと思う。しかもその描写によって、「いつの時代にも、シンドラーのように物事を歪めて伝える人物がいるよね」という、本作全体のテーマに関係する着地点も上手く作り出しているわけで、この展開は見事でした。物語を時系列順に描く場合、どうしても「シンドラーの逃げ切り」というぬるっとした終わり方にせざるを得ないところ、現代パートを用意することでその問題を回避しているところが素晴らしいなと思います。

まあそんなわけで、なかなか興味深く観られる映画じゃないかなと思います。ちなみに、何かのテレビ番組で本作のメイキングを観たのだけど、「壁面に映像を投影して、セットを作らなくても360度空間をまるで別のものに出来る」というバーチャルスタジオ(「清澄白河BASE」って名前らしい)がちょっと凄かったです。主演の古田新太が、「もう海外ロケはないよ」みたいに言っていたのが印象的でした。


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