【映画】「トニー滝谷」感想・レビュー・解説
この映画、メチャクチャ好きだな。観て良かった。村上春樹原作だし、主演はイッセー尾形だし、それに予告からチラッと伝わるストーリーも奇妙さに溢れていたので、変な映画だろうと思っていたし、その認識は合ってたのだが、それ以上に「良い作品だな」という感覚の方が強い。
とはいえ、まあ映画っぽくない映画である。僕は観ながら、「ビジュアル付きのオーディオブックだな」という印象を抱いたぐらいだ。
というのも本作は、基本的にナレーションベース(そのナレーションを担当しているのは西島秀俊である)で展開されるからだ。そして恐らくだが、そのナレーションは、村上春樹の原作小説の文章そのまま抜き出したものなんじゃないかと思う。そんなわけで、「原作の一部をビジュアルで再現したオーディオブック」みたいな印象だったのだ。少なくとも、僕はそんな映画観たことないような気がするので、まずはこの構成が凄く良かった。
しかも、これもまた奇妙な話で、文字ではなかなか上手く伝わらないと思うのだが、「西島秀俊が語るナレーションの一部を、作中人物がセリフのように発する」のだ。この文章で伝わるだろうか?
例えばナレーションの中に、「『◯◯』と彼女は言った」みたいな文章がある。そしてその文章を、画面の中の宮沢りえがそのまま口にするのだ。もちろん、宮沢りえが口にしている「彼女」とは、宮沢りえが演じている役のことである。小説でいう「地の文」を、登場人物がさもセリフであるかのように口にしているのだ。これもまた変な演出だが、本作の雰囲気には何故か合っていた。不思議だ。なんでこんな奇妙な演出を「作品には合っている」などと感じるのか、自分でも不思議だ。でも、合ってるんだよなぁ。
そんなわけで、本作は物語のほとんどが西島秀俊によるナレーションによって展開していく。そしてそれ故だろう、イッセー尾形と宮沢りえが演じている人物のセリフや彼らの会話は極端に少ない。もちろんあるのだが、映画(に限らず映像作品)は基本的に「会話で物語が展開されていく」はずだし、だからストーリーのある物語を描こうとすればどうしてもセリフは多くなる。が、本作『トニー滝谷』では、物語はほぼナレーションによって進行するので、登場人物のセリフや会話は必ずしも必要ではないのだ。
何なら本作では、2人が会話をしているシーンにさえナレーションが重なり、「2人の会話が薄く聴こえる中、ナレーションで彼らの会話の内容が説明される」なんてシーンさえある。そしてそういう感じが、作品に絶妙に合っている感じがしたのだ。
そんな、実に不思議な映画である。画面構成(という表現で合ってるか分からないが)も特徴的で、「横スクロール」とでも言えばいいのか、カメラが左から右に一定速度で動きつつ、その中で登場人物たちの姿が捉えられていくみたいな部分も結構あって、視覚的にも不思議な感覚を与える作品だなと思う。ホント、あらゆる意味において、普通じゃない感じがあって、凄く良かった。
もちろん、村上春樹原作だから、物語もまあ奇妙である。
物語は、トニー滝谷の父・正三郎の来歴から始まる。実際のものかこの映画のために作ったものかは分からないが、戦前の様子を捉えた白黒写真と共にである。ここでは正三郎の物語は概ね割愛するが、重要なのは「どうして息子に『トニー』という名前を付けたのか?」である。正三郎の物語は結構長く語られるのだが、最も重要なのはこの1点と言っていいだろう。
そう、「トニー滝谷」は本名なのだ。本作の冒頭は、「トニー滝谷の本名は、本当に、トニー滝谷なのである」から始まる。
そんなファンキーな名前を付けられたトニー滝谷は、予想できる通り無口に育った。本名を言えば、相手を戸惑わせるか、時には怒らせたりもしてしまうことが多かったからだ。また、トロンボーンを吹く父親は、常に楽団を連れて旅に出ており、彼は通いの家政婦に育てられた。概ね独りだったのである。
彼はやがてイラストレーターになった。人間を描くと「上手いけど血が通っているように見えない」と言われていた彼は、やはりというべきか、機械を描くのが得意で、そういう仕事なら何でも受けた。仕事をするのは楽しかったし、良い金にもなった。
ある時、仕事で関わりを持ったのがA子である。トニー滝谷はA子を見て、「服を着るために生まれたみたいな人」と表現していた。そして、恋愛やら結婚やらに特段の関心を抱いていなかった彼は、A子に対しては切実な想いを抱くようになった。15歳も年上だったが、トニー滝谷は「彼女しかいない」と考え、結婚を申し込んだ。それから色々あったが、結果、2人は結婚した。
妻は実に有能でテキパキと家事を行った。2人の間に、結婚生活を脅かすようなものは何もなかった。しかし1つだけ、気がかりなことがあった。彼女が、凄まじい勢いで服を買うのである……。
というような話です。
本作の核心の部分はこの後なのだけど、どこまでストーリーの展開に触れようかと考えて、これぐらいで止めておくことにした。予告編では確か、先述の内容紹介の後の展開にメインで触れていたように思う。だから、まあ書いてもいいとは思うのだけど。
正三郎の来歴を含め、語られるエピソードはどれもそこはかとなく奇妙で、どことなく現実感が薄く感じられるように思う。が、「ナレーションの一部を役の人物がセリフのように口にする」とか「何とも言えない、薄いグレーっぽい膜で覆われているような世界(画面)」「イッセー尾形の絶妙な存在感」などが相まって、「奇妙さ」がさほど目立たない気がしている。「ディズニーランドは現実から少し離れているので、普段やらないようなことをしても多少恥ずかしさは和らぐ」みたいな雰囲気があるような気がしているが、それと似たような感じで、「本作の世界の中では、そりゃあ奇妙なことぐらい起こるよね」みたいな受け取り方が出来るような気がするのだ。
たぶん、結構紙一重で成立しているような感じはするし、「これしかない」みたいな絶妙なバランスをみんなで作り上げたんだろうなと思う。
しかし、イッセー尾形は見事だったなぁ。別にイッセー尾形に詳しいなんてことはないのだけど、「ただそこにいるだけで醸し出される独特な雰囲気」みたいなものがあって、そしてそれが本作全体を上手い具合に支配している感じがした。僕の中ではなんとなく「田中泯」に近いイメージがある。「演技」とかじゃなくて、その「存在」によって場を成り立たせてしまうみたいな感じが凄く良かったなと思う。
あと、宮沢りえも良かったなぁ。本作は2005年の映画で、今から21年前。そう考えると、宮沢りえは31歳とかだったのか。A子が何歳の設定なのか分からないが、何歳だとしても「なるほど」とはならないような雰囲気があって、その奇妙さが良かったなと思う。
なんというのか、「家事を完璧にこなす有能さ」と「中毒のように服を買い続けてしまう衝動」が全然釣り合わなくて、1つの人格としてまとまっていない気がするのだが、宮沢りえはそれを上手く1つの存在に落とし込んでいる気がする。いや、落とし込んではいないか。ただ、その2つがバラバラにならない程度には上手く繋ぎ止めている感じはあったし、そういう雰囲気が絶妙に醸し出されている。
そして、そんなA子が買い続けてしまう「服」が、物語の終盤で非常に奇妙な形でトニー滝谷の人生を揺さぶることになるわけで、正直、彼の感覚はよく分からないが、ただ「分かるような気もする」なんて気分にもなるのが不思議である。
観ている時にはあまり深く言語化出来ていなかったが、今振り返ってみると、「『服』という目に見える物質が存在することのややこしさ」みたいなものを強く感じた。
人間の「気持ち」とか「感情」というのは普通視覚化できるようなものではないし、だから想像するしかない。一方で、トニー滝谷の前には大量の「服」が残されている。この物質としての存在感はかなりのもののはずで、しかもそれは、A子が「衝動を抑えきれない」ために積み上がったものなのだ。
言ってしまえば、ある種の「怨念」みたいなものが物質化しているとも言えるのではないかと思う。
しかも、その「怨念」は、見る人が見れば「美しい」ものである。A子を「服を着るために生まれてきたような人」と評していたトニー滝谷自身も恐らく、「服」が持つ「美しさ」を理解できたのだと思うが、しかし凄まじい物量で積み上がったそれらを、トニー滝谷はもう「個別の服」として認識できていなかったようにも思う。「デカい塊」みたいな捉え方になっていたんじゃないだろうか。
だから、それを「1つ1つの服」として解きほぐしてくれる人が必要だった。彼もまた、その「美しさ」を再認識したいと思っていたのではないだろうか。しかし、結局それは上手くいかなかった。正直僕には、彼が何をどう考えて「止めた」のかイマイチ理解できていないのだが、ただどちらかと言えば、「『元々やろうとしていたこと』が狂気的」だったわけで、だから「それをやらないことにした」という点は自然である。しかし、「やろうとしたのに止めた理由」はよく分からない。もしかしたら、トニー滝谷自身にも分かっていないかもしれない。
そんなわけで、奥行きもかなり感じさせる物語だし、「奇妙さ」とのバランスも絶妙だったなと思う。正直、人に勧めるとしたら勧め方がとても難しいのだが、個人的には、メチャクチャ観て良かったなと思える作品だった。
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