「映画『ヒポクラテスの盲点』のレビュー記事への批判」に対して思うことをあれこれまとめてみました
さて、僕は少し前に『ヒポクラテスの盲点』というドキュメンタリー映画を観に行った。「コロナワクチンの安全性」や「ほぼ強制的に接種させたこと」への正当性などについて疑問を呈するような内容の映画である(ちなみに、かなり中立的な立場で作られた映画に感じられたので、みんな観た方がいいと思う)。そして僕はいつものように映画の感想をnoteに書いた。
するとしばらくして、映画『ヒポクラテスの盲点』の公式Xが「読んでいただきたいです。」という言葉と共に僕のレビュー記事を紹介してくれたのである。
読んでいただきたいです。
— ヒポクラテスの盲点 (@hippocrates1010) October 20, 2025
【映画】「ヒポクラテスの盲点」
感想・レビュー・解説|長江貴士
#映画感想文 https://t.co/mGIET0ieik
そのお陰もあってだろう、同記事は結構な閲覧数となり、「スキ」もそれなりの数に上った。ありがたいことである。しかし同時に、noteの記事に直接コメントというのは今のところないのだが、いろんな形で「僕のレビュー記事への批判」が散見されるようにもなってきた。というわけで今回は、それら批判に対して思うところを書いてみたいと思う。正直、別に自分から薪をくべにいくみたいなことをする必要はないのだが、個人的にはなかなか興味深い思考に繋がるものが多かったこともあり、とても良い機会だと考えている。
というわけで、まずはいくつか前提的な話に触れておくことにしよう。
大前提として、僕は「批判されること」は結構好き、と書くと嘘になるかもしれないが、「悪くない」ぐらいには思っている。というのも、「批判が出るぐらい広まっている」と思えるからだ。人目に触れれば触れるほどマイナスの意見が出てくるのは当然なので、僕は割と「批判の数=注目度」とさえ捉えていたりする。そういう意味で、僕は決して「批判」が嫌いではない。
また、先程「公式Xが紹介してくれた」と書いたが、仮にこれが「ポジティブな理由からの紹介」じゃなかったとしても、僕としては全然良い。基本的には「読んで良いと思えたから他の人にも読んでほしい」という意図での紹介だと思っているが、例えば「うわっ、こんな訳分かんないこと書いてる奴がいるよ、みんな読んでみて!」みたいな意図だとしても僕としては何の問題もない、というわけだ。そして僕は、noteに「スキ」してくれる人に対しても同じ感覚を抱いている。基本的には「賛同の意を示してくれているのだろう」と思っているが、そうじゃない人がいても別に全然いい。どんな理由だとしても、「他人に読んでほしいと思って紹介する」とか「わざわざ『スキ』のボタンをクリックしてくれる」みたいな行為はありがたいなという感じである。
さて、この点にも触れておくべきだろう。これから僕は、「元のレビュー記事ではこう書いた」みたいな言及を色々していくわけだが、中には「批判を受けて、元の文章を書き換えたんだろう」と邪推する人もいるんじゃないかと思う。僕はフェアにいきたいので「一言一句変えていない」とここで宣言するが、それを証明する手段はないので、「信じない」という方はそれで構わない。この点を争点にしても単なる水掛け論で終わるので、「信じない」みたいな人は、どうぞ内心でそう思っていてほしい(ただ、本記事のリンクだけは冒頭に付け加えた)。
ちなみに、この記事は推敲してから載せているが、元のレビュー記事は「書きっぱなし、推敲なし」でUPしている。映画『ヒポクラテスの盲点』に限らず、このnoteに載せている本・映画のレビュー記事はすべて同様だ(シンプルに、読み返している時間がない)。恐らく、誤字脱字もあるし、誤解されるような表現もあるだろう。ちゃんと読み返せば直したい部分は間違いなく出てくるが、それでも手を加えないことにする。
また、「コロナワクチンの是非」についてだが、「『コロナワクチンがそもそも危険だったかどうか』と『コロナワクチンがオミクロン株登場以降に有効性を失ったのかどうか』は分けて考えるべき」だと思う(この点に関する具体的な話については映画『ヒポクラテスの盲点』を観るか僕のレビュー記事を読んでほしい)。僕は本作『ヒポクラテスの盲点』を観た上で、「オミクロン株登場以降に有効性を失った」という点には賛同するが、「コロナワクチンがそもそも危険な代物だった」という点に関しては「何とも言えない」という判断である。「人が死んでいるんだから危険に決まってるだろ」みたいな反論はあるだろうが、その辺りのことは後で触れることにしよう。僕は基本的に「危険な代物だったのかは何とも言えないが、少なくとも、オミクロン株以降にワクチンを打つ必要はなかった」というスタンスでレビュー記事を書いたつもりだし、この記事も同じスタンスで書いていくつもりである。
というわけで本題に入ろうと思う。
さて、まず最初に僕が感じたのは、「僕のレビューを批判する合理性は一体どこにあるのだろう?」ということだ。この感覚のベースとなる前提はすぐに説明するが、まずはどんな批判があるのか紹介しておこう。


これらは共に、先の「読んでいただきたいです。」のツイートへの返信である(個人攻撃をしたいわけではないので、アカウントは載せず本文のみのスクショにする。ただ、「引用」の要件を満たしていない気がするので、著作権的な観点からは問題があるかもしれない。どうだろうか)。どちらも「公式Xが僕のレビューを紹介すること」に不快感を示しており、それはつまり、「映画『ヒポクラテスの盲点』の主旨にそぐわないレビューではないか?」という指摘なのだと思う。
ただ、「そうだろうか?」と僕には思えてしまう。そしてもっと踏み込んだことを言うなら、「主旨に合わない発言をしているのはあなたがたの方ではないか?」とさえ感じられるのだ。その理由について、「対話」をキーワードに説明したいと思う。
さて、まずは大前提の話だが、世の中には「全員が賛成する意見・価値観・状況」などは基本的に無く、「常に賛成・反対の両陣営が存在する」と考えいいだろう。極端な状況を想定すれば「全員が賛成(あるいは反対)する場面」を思い浮かべることは出来るかもしれないが、まずそんなことはあり得ないと思う。
で、それが単に「価値観」の話なのであれば、別に両陣営が歩み寄る必要はないが(これはざっくり、「◯◯が好き/嫌い」みたいな話だと思ってもらえればいいだろう)、しかし「社会全体である程度の統一見解を導く必要がある」みたいな場合にはそうはいかないだろう。例えば「原子力発電を許容するか(再稼働を容認するか)」みたいな話は、関わる人たち(基本的には国民全員だが、より狭義には「原発を有する自治体の住民」)で何らかの合意形成をする必要があるはずだ。
そしてその際に僕が最も大事だと考えているのが「対話」である。「対話」というプロセスを無視して合意形成など不可能だし、「対話無しで合意形成が行われた」ということであれば、それは何かが蔑ろにされていると思う。
さて、その上で僕は、「本作『ヒポクラテスの盲点』はまさに『対話のために作られた』のではないか」と考えているのである。監督や制作陣がどのような考えを持っているのか、それは僕には分からないが、映画を観れば「批判一辺倒の作品ではない」ということは理解できるはずだし、「事実(というか『事象』)をいかに正確に伝えるか」という点にかなり注力しているようにも感じられた。そしてそれは、「反対派とそうではない人(全員が積極的に賛成していたわけではないはずなので、「賛成派」ではなくこういう表現にしている)との間を繋ぐ役割」を意識しているからではないかと思っているのである。
また僕自身も、比較的そういう意識を持ってレビューを書いたつもりだ。例えばだが、「5回接種した」みたいな事実に触れなくてもレビューは全然書けた。しかし、「自分がどういう立ち位置でこの作品を観て、観た上でどう感じたのか」みたいなことをより正確に伝えるには書いた方がいいだろうと判断したのだ。さらにレビュー全体としては、「反対派だったわけではなく、どちらかと言えば賛成派だったが、映画を観て少し考えが変わった」みたいなことが伝わるように書いたつもりである。なので僕の文章は、反対派じゃない人には「なるほど、自分も観てみようか」と感じてもらえるだろうし、反対派の人には「この映画がスタートラインに立つきっかけになったのだろう」みたいに受け取られると考えていたのだ。
実際に、そういう感想もあった。


同じような言及は他にもあったが、何にせよ、こんな風に受け取ってくれるのであれば書いた人間としては「良かった」という感じである。そしてこのような捉え方はまさに「対話」のための第一歩になるだろうし、そんな効果を生み出すことも目的の1つとして本作は制作されたのではないかと僕は考えているのだ。
そしてもしもそうだとすれば、「こんなレビューを公式が紹介するなんて」みたいな発言は、「対話を遠ざけている」という意味で、むしろ制作側の意図に反しているのではないか、と感じられてしまうのである。これが最初に抱いた大きな違和感だ。
さて、こんな風に「対話」について書いてきたが、反対派の人は当然こう感じるだろう。「そもそも対話をしようとしなかったのはあなたがたの方だろう」と。確かにそれはその通りだと思う。粛々とワクチンを接種した側は、ワクチン反対派の人たちと対話しようとしなかったはずだし、それは僕にしても同じである。だから「それなのに、今さら『対話』とか何を言ってるんだ」と感じるのも当然だと思う。この点は反省しなければならないし、今後気をつけなければならないなと考えてもいる。
ただ、それはそれとして(なんて言葉では済ませられないかもしれないが)、現実に何かを変えようとすれば「これからどうするか」を考えなければならないだろう。この点に関しては、次の意見が参考になるのではないかと思う(この方はアカウントを含めて紹介しても別にいいかなという気がしたので、ツイートの埋め込みにした)。
そして、ここが肝心。
— 鳥集徹 (@torutoridamari) October 20, 2025
「本作は科学的な観点からかなりフェアに構成されている感じがして、だからこそ扱われている内容が信頼できるなと感じられる」
反対派はまだまだ世間から色眼鏡で見られています。その偏見を取り払ってもらうためにも、我々が冷静かつ科学的かつフェアであることが大事です。
僕がとやかく言うのは筋違いではあるが、「我々が冷静かつ科学的かつフェアであることが大事」「問題を多くの人に考えてもらうには、静かに語りかけることも大事」みたいなメッセージはとても重要だと感じた。
そんなわけで色々と書いたが、とにかく「『対話』という観点で捉えた場合、『僕のレビューを批判する理由』は特にない」ように感じられるのだが、どうだろうか? そして、「本作『ヒポクラテスの盲点』の制作側が『対話』のために本作を作った」という僕の想像が正しいなら、「僕のレビューを批判する行為」はむしろ「制作側の意図することではない」とさえ言えるはずだとも思っているのだ。
というのが、全体的な感想である。
それではここから、もう少し細かく批判を見ていきたいと思う。
まず、個人的に割と強く違和感を覚えてしまったのは、「情報は自力で取りに行けよ」的な主張である。いや、主張そのものはもちろん理解できるしその通りだと思うが、同時に「でもなぁ」とも感じられるのだ。というわけで、その辺りの話をしていこうと思う。
具体的な批判としてはこんな感じだ。


僕がこれらの主張に対して感じてしまう違和感をまとめると、「『専門的な情報を自分から取りにいかなきゃダメだ』という発想を社会のデフォルトにするのは無理があるんじゃないか?」となる。僕を含めた普通の人は「CDCのサイト」なんか見に行かないし、「トンデモ論じゃないかを判断しながら適切な情報を手に入れる」なんてことも出来ないだろう。出来る人はもちろん一定数いるだろうが、「社会で生きていくならそれぐらい当然しなきゃダメだ」なんて主張は無理があると僕には感じられる。だから、それが大前提であるかのような意見には違和感を覚えてしまうのだ。
「いやいや、自分の身体に入れるものなんだから、それぐらい必死で調べた方が良くない?」みたいな反論もあるかもしれないが、本当にそうだろうか? 例えば、食べたり飲んだり皮膚に塗ったりするものには、加工食品・薬・サプリメント・化粧品などいろんなものがあるし、それらには「遺伝子組み換え作物」のようにいつの間にか組み込まれている「新しい成分・技術」があるかもしれない。「危険なものを摂取している可能性」という意味ではコロナワクチンと変わらないように僕には思える。だから、「コロナワクチンについては調べるが、他のものは調べない」のならそれは合理的ではない気がするし、当然、「摂取するものすべてについて調べる」なんてのは不可能だろう。
あるいは、最近問題になっている「PFAS」を取り上げてもいいかもしれない。PFASとは有機フッ素化合物の一種で、世界各地で水道水から検出され、健康被害を引き起こしている懸念が取り沙汰されている。この問題に関しては、以前『ウナイ 透明な闇 PFAS汚染に立ち向かう』というドキュメンタリー映画を観たことがあるので、そちらのレビューを読んでもらってもいいだろう。
世の中には「水道水なんか飲まない。飲料水はすべてミネラルウォーターだ」という人もいるだろうが、僕の感覚では決してマジョリティではない気がする。都市部であればそういう人は多いかもしれないが、地方であれば「水道水を飲みます」みたいなのは全然普通じゃないだろうか。そして「そんな水道水が汚染されているかもしれない」というのだから、正直気をつけようがない。こういうこともあるのだから、「身体に入れるものについては必死で調べるべきじゃない?」という批判は成立しないように僕には感じられるのだ。
あるいは、「新しい技術・製品は一旦躊躇すべきじゃないか?」という意見もあるだろう。コロナワクチンは「mRNAワクチン」という、これまでとはまったく違う製法で作られたワクチンであり、「何だか分からないものなんだから立ち止まって調べるべきでしょ?」みたいに感じる人もいると思う。まあ、確かにそれはその通りではある。
しかし、この点に関しても僕は違和感を覚えてしまう。というのも、「新しいものを積極的に受け入れるからこそ、科学技術は進歩してきた」はずだからだ(僕は大前提として、「科学技術は、進歩した方がしないよりは良い」という価値観を持っている。もちろん状況にもよるが)。そして、「世の中すべての人が新しい技術に躊躇する」という社会は恐らく、進歩から遠ざかるだろう。
例えば、最近リチウムイオン電池の発火による火災が相次いでいる。これは、気候変動の影響も大きいようだが(以前よりも暑くなったため影響が出ているという側面もあるようだ)、恐らく「リチウムイオン電池の構造的に発火しやすい」みたいな理由もあるのだとは思う。この欠点がどの時点で認識されていたのかはよく知らないが、仮に開発時点で分かっていたとして、「発火する可能性があり危険だから使うのを止めよう」となっていたら、スマホやノートパソコンは生まれなかったはずだ(リチウムイオン電池は電化製品の小型化に大きく寄与したはずなので)。リチウムイオン電池の「危険性」と「利便性」を比較した場合、後者の方が圧倒的に大きかった例だと言っていいだろう。
あるいは、「飛行機」を例に挙げることも可能だ。僕は以前、『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』という本を読んだことがあるのだが、その中にこんな文章があった。
しかし、たった三〇年前までは、世界の空は死の不安と隣合わせだった。
十八ヶ月に一度の割合で一〇〇名を超す人々が離着陸時に突然、上空から地面へと叩きつけられ、一瞬にして命を失う”謎の墜落事故”が頻発していたのだ。
そして、そんな「空」を安全に変えたのが、「Mr.トルネード」こと藤田・テッド・哲也である。彼は、最近ニュースの気象情報でも耳にするようになった「ダウンバースト」を、その存在が確認される前に予測し、多くの批判を浴びながら実証まで果たした人物だ。そしてその改名によって、それまで謎だった墜落事故に対応できるようになったのである。このように「飛行機」は、「かつてはかなり危険だったが、研究によってかなり安全な乗り物に変わった」というわけだ。本作には、アメリカのデータだが、「自動車事故で死亡する確率は0.03%、航空機事故で死亡する確率は0.0009%」と書かれていた。現在では、自動車に乗る(あるいは自動車が並走する歩道を歩く)よりも安全なのである。
そして私はこの話から、「結果的に、「飛行機に乗る人がいたから飛行機は安全な乗り物になった」と言えるんじゃないかと思う。もしも最初の時点で、「飛行機は危険な乗り物だから使うのを止めよう」と多くの人が考えていたら、飛行機はあまり飛ばず、それ故「(ダウンバーストによる)飛行機事故を無くそう」という動機も薄まり、結果的には「飛行機が使われない世界」になっていたのではないだろうか。「仮にそうだったとしても、飛行機事故で誰一人として死なない世界を目指すべきだった」と主張するのは簡単だし、それが理想だと僕も思うが、しかしそれは現実的とは言えないだろう。「今までになかったもの」が登場すれば「予測不能な犠牲」が生まれることはあるし、その「犠牲」が「人命」なことももちろんある。そんなわけで、僕は基本的に「そのような犠牲をゼロにすることは不可能だ」と考えているのだ。
さて、批判の中には、「人の命を軽んじて」という指摘もあった。

レビュー記事のどの部分を指してこう判断しているのかは正直よく分からないのだが、恐らく「リスクよりベネフィットが上回る」という話に言及している部分なのだとは思う。その前提で書くが、レビュー記事の方で詳しく触れている通り、僕は「100%安全なものは存在しないし、どんなものでも危険は存在し得る。だから、ある程度のリスクを許容しつつ、十分なベネフィット(利益)があると判断したものを取り入れる」という考えに合理性があると考えているし、社会はある程度この考えを基本ベースに置くしかないとも思っている。だから、「コロナワクチンによる死者や後遺症患者が存在する」という事実だけを以って「コロナワクチンは使用すべきではない」という判断にはならない。これは、先述の飛行機事故の話と同様の理屈である。「100%安全なものしか世に出すな」という主張が当然のものになってしまえば、そこで「進歩」は途絶えるだろう。僕は、そういう社会こそ許容したくないと感じてしまう。
みたいな考えを恐らく「人の命を軽んじて」と表現しているのではないかと思うが、僕としてはこの「リスクよりベネフィットが上回る」という判断を手放すつもりはない。このスタンスを「人の命を軽んじて」と批判するならそれは甘んじて受け入れるが、僕としては、「『100%安全なものしか世に出すな』という主張をしていますか? そうだとしたら、飛行機もスマホもない世の中だったかもしれませんが、それで良かったですか?」と聞きたいところである。
さて、今書いたような話を大前提としつつも、コロナワクチンには1つ大きな特異性があったことを忘れているわけではないという話にも触れておこう。それは「ほぼ強制的に接種させられた」という点だ。僕には別に「強制された」という意識は特になく、自分の意思で打ったつもりではあるが、「強制された」と表現して違和感のない状況だったことは確かだと思っている。
飛行機に乗ることもリチウムイオン電池を使うことも別に強制されてはいないわけで、「使うと決めたのだから、その本人はリスクを許容しているはずだ」みたいに考えることも出来るだろう(個人的には、その捉え方は厳しすぎると感じるが)。ただコロナワクチンの場合は、「あなたの意思に関係なく、社会のために打ってね」みたいなメッセージ付きで接種が勧められたわけで、大分状況は異なる。「他に選択肢がある状況でなら『リスクよりベネフィットが上回る』という判断も妥当かもしれないが、ほぼ強制されているような状況では成り立たない」という考えも当然あると思う。僕は「少なくともコロナウイルスが蔓延し始めた初期の時点では、その判断も仕方なかった」と思っているのだが、この考えに自信があるわけではない。
ただ、仮に正しくない判断だったとしても、それは「コロナワクチンの問題」ではなく「政治・行政の問題」だと僕は思う。「『政治・行政の問題』も含めて『コロナワクチン問題』なのだ」という主張も当然あると思うが、問題は切り分けた方が議論しやすくなるはずだ。確かに「政治・行政」には問題があったかもしれない(というかあっただろう)。しかしそのことと、「コロナワクチンが危険な代物だったか否か」の話は関係がない。「政治・行政に問題があった」からといって「コロナワクチンは危険な代物だった」と判断することは出来ないはずだ。
というわけで大分脱線したが、「情報は自力で取りに行けよ」的な話について考えているのだった。で、そういう主張をしている人が、「自分は自力でこういう情報を手に入れてたもんね。凄いだろ」と発信したいだけなら、特に問題はない。その意図は、僕に正しく届いている。しかしそうではなく、「異なる意見を持つ者の考えを変えたい」とか「社会に影響を与えたい」みたいに考えているのであれば、まったく無意味な行為でしかないだろう。そして繰り返しになるが、「『専門的な情報を自分から取りにいかなきゃダメだ』という発想を社会のデフォルトにするのは無理があるんじゃないか?」と僕は考えているし、「それを前提としないあり方」を想定した上でどんな仕組み・制度を社会実装していくかを検討すべきではないかと思っているというわけだ。
さて、別の話に移るが、「長期的な副作用」に関する批判にも疑問を抱かされてしまった。具体的にはこんな感じである。

この指摘に対しても、基本的には「確かにその通り」だと思う。例えば、僕は以前『食の安全を守る人々』というドキュメンタリー映画を観たことがあり、その中で「モンサント社の『ラウンドアップ』という除草剤の危険性」についても扱われるのだが、その主成分である「グリホサート」について、「摂取した本人やその子どもには影響は無いが、孫やひ孫世代に悪影響をもたらす可能性がある」という研究結果が紹介されていた。これなどまさに「超長期的な副作用」と呼んでいいだろう。そういうことも起こり得るということは理解しているつもりだ。
しかし一方で、この「長期的な副作用」の話は、先程言及した「100%安全」の話に近いなとも感じている。繰り返しになるが、どんなものにも「危険性」はあるわけで、例えば「水」でさえ、「一度に大量に飲むと水中毒のリスクが高まる」と言われているぐらいだ。「水中毒」の話は「長期的な副作用」とは関係ないが、「水」でさえ危険性を持ち得るのだから、それが何であれ、場合によっては「長期的な副作用」をもたらし得ると言えるだろう。
例えば、もの凄くテキトーなことを書くが、「粉ミルクで育った子どもは60歳を超えてがん発生確率が高まる」みたいな可能性だって決して否定はされていないはずだ(粉ミルクを例に挙げたのは「赤ちゃんの時に口にするもの」の代表だからであり、それ以外の理由はない)。今はその因果関係が想定もされていないし確認もされていないだろうが、いずれ「粉ミルクは将来的ながん発生確率を高めるので赤ちゃんに飲ませるのは止めましょう」みたいな話になっても別に不思議はないだろう。
もちろん、僕は別に「長期的な副作用のことなんか無視していい」なんて主張をしたいのではない。特に研究者であれば、そのような観点から新たな調査・研究を行うことは大事だろう。しかし、一般の人が「長期的な副作用なんて分からないんだから」と主張することは、結局「100%安全かなんて分からないんだから」と言っているのと同等であり、僕にはあまり意味のある主張には感じられない。もちろん個々人が「長期的な副作用は分からないし、だから距離を取っておこう」と判断するのは自由である(コロナワクチンの場合はその「自由」が侵害されたことが問題なわけだが)。ただ、他者に対して批判の意味を込めて「長期的な副作用なんて分からないんだから」と主張するのは、僕には意味がある行為には思えないというわけだ。
そして僕は、コロナワクチンに関して言えばこの点も「政治・行政の問題」だと考えている。映画『ヒポクラテスの盲点』でも指摘されていたが、「『効果がない』(あるいは『危険である』)という情報が出るようになってからも、接種の”強制”をストップ出来なかった」わけで、「長期的な副作用」に関してもこのような「運用の実態」が問題になるんじゃないかと思う。繰り返すが、僕は「どんなものにだって長期的な副作用はあり得る」と考えているわけで、だから「その可能性が明らかになった時に適切な対処が出来るような運用をきちんと整えることが大事」だと考えている。そういう意味で、この点もやはり「コロナワクチンそのものの問題」とは違うように僕には感じられるというわけだ。
というわけで、概ね書きたいことは書いたので、後はもう少し細々した批判に触れて終わろうと思う。まずはこちらから。

この批判は正直あまりピンと来なかった。「監督が東大出」という話については、「東大出の理学博士が監督だから、よくある『医療系のドキュメンタリー』とは少し違うかもしれない」と書いてはいるが、「東大を出ているから正しいかも」なんて別に書いていない。また僕は、「いろんなデータを提示しているから信憑性が感じられる」みたいなことを書いてはいるが、「権威が主張しているから」みたいには言っていないと思う。まあ、僕は基本的に「文章を書き終え公表した時点でそれは自分の手から離れ、後は読み手の解釈に委ねるしかない」と考えているので、どう受け取られても「そういう解釈もあるか」ぐらいの感覚なのだが、個人的には「ちょっと誤読(あるいは拡大解釈)じゃないかなぁ」と感じるような批判だった。
あと、先程紹介した批判をもう一度取り上げたい。

これは映画『ヒポクラテスの盲点』の公式Xへのリプライであり、そもそも「(それが薬害だとして)映画の制作陣が薬害をしているわけじゃないだろ」と思うのだが、ここは行間を補って考えると「これからも薬害を続け(るような社会を容認し)たいのか?」みたいな意味なのだろう。そしてその理解で合っているとして、「『僕のレビュー記事を紹介すること』と『薬害を続ける社会を容認すること』にどんな関係があるのだろうか?」と思う。その論理がちょっと僕には理解できなかった。

最初に紹介したこの批判の中にも「このアカウントからは薬害を止める気がさらさらないように感じます」という文章があるのだが、個人的には「どうしてそんな印象になるのだろう」と感じてしまう。今から書くことは勝手な邪推だが、恐らく僕のレビュー記事を全部読んだわけではなく、冒頭に書いた「リスクよりもベネフィットが上回る」の話だけからそう判断しているのではないか、という気がする。まあ、何人かの人が指摘していたように、僕の文章は長いので(今回の文章も長い)、全部読んでもらえなくても仕方ないと思ってはいるが、でも、もしそうだとしたら「全部読まないのに批判しちゃダメじゃない?」とも思う。少なくとも、僕ならそういう振る舞いはしないかな。
というわけで長々と書いたが、これで終わりにしよう。「批判」はこんな風に色々と思考を刺激してくれることもあるので、やはり嫌いにはなれない。さらにん、僕はもちろん「自分の意見・考えが正しい」なんて絶対的な自信を持っているわけではないので、指摘を受けて「なるほど、確かにそれはそうかも」と考えが変わり得ることも重要なポイントである。今回は、なかなか良い機会だったなと思う。
最後に。なるべく不快な気分を与えないように文章を書いたつもりではあるが、不快に感じた方がいたら申し訳ない。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!