【映画】「イノセンツ」感想・レビュー・解説
これはなかなか凄まじい映画だったなぁ。僕は恐らくこの映画、映画館で予告を一度も観たことがなく、上映直前になんとなくこの映画の話題がフッと湧き上がってきた、みたいな印象があった。そんなわけで僕は、予告も観ず、どんな内容なのかもほとんど知らないまま、メインビジュアルと『イノセンツ』というタイトルだけの情報で、この映画を観に行った。
ホントに、中盤ぐらいに差し掛かっても、一向に「この物語がどう展開するのか」が分からない映画だった。もし、まだこの映画を観ていないという人が僕の文章を読んでくれているのだとすれば、とりあえず僕の文章など読むのは止めて、何も知らない状態で映画を観るといいと思う。
僕にとって幸運だったと言えるのは、この映画のタイトルが『イノセンツ』だったということだろう。もし他のタイトルだったら(どうやら、原題をそのままに邦訳した感じのタイトルではあるが)、ちょっとこの物語の意味を掴みきれていなかったかもしれない。
要するにこの物語で描き出しているのは、「子供は、無邪気に残酷だ」ということである。そしてそのことが、「超能力」を実にリアルに丁寧に描き出すことによって浮かび上がらせている。
「超能力」が出てくるという点で「非現実的」なはずなのだが、しかし映画はまさに「現実そのもの」をえぐり取っている感じがして、その辺りのバランスがとても上手い映画だった。また、後でも詳しく触れるつもりだが、「『大人』の存在が完全に『排除』されている」という構成もまた、物語の主題をより強調する感じがあって、よく出来ていると感じた。
まずはざっと内容に触れておこう。
9歳のイーダは、両親と姉の4人で郊外の団地に引っ越してきた。姉のアナは重度の自閉症を患っており、言葉を発さず、自律的な行動も難しい。両親はそんなアナにも愛情を注いでているが、「両親がアナばかりに構っていること」や「時々アナのお守りをさせられること」などに対して、イーダは口には出さないが不満を抱いている。
時期は夏休みで、バカンスにでも行っている家族が多いのか、団地に残っている者は多くない。そんな中イーダは、ベンという少年と仲良くなる。ベンは、軽いものであれば落下する軌道を変えることが出来る不思議な力を持っており、そんな変わった部分もイーダが惹きつけられた部分である。
一方、イーダはアナをブランコに放置してベンと遊んでいたのだが、ブランコに戻ってみるとアナがいない。近くを探すと、アナはアイシャという女の子と仲良くなっていた。アナは喋れないはずなのだが、アイシャはどうもアナと心が通じ合っているようで、「アナの考えていることが分かる」と言う。実際、アイシャといる時のアナは普段よりも穏やかに見える。
次第に4人は一緒にいる時間が増えるが、するとアナにも不可思議な力があることに気づくようになっていき……。
というような話です。
冒頭でも触れた通り、とにかく「どういう展開になるのか」がさっぱり分からない。映画を観終えてから調べて知ったが、この物語は、監督自身が大友克洋の『童夢』にインスパイアされたと公言しているようで、そのことを知っている人であれば話の筋は大まかにイメージ出来たかもしれないが、僕はまったく何も知らずに観たので、とにかく「これから何が起こるのか」がまったく想像出来なかった。先程も書いた通り、中盤を過ぎても、「何を描こうとしているのか」ということが、ストーリーの展開から全然読めずにいた。
かなり後半まで観てようやく理解できたのはが、「無邪気な残酷さ」と「大人の排除」という、この映画の特色である。
「無邪気な残酷さ」の話と少し通ずると思うが、以前ネットで読んだこんな話から始めよう。「自分の子どもがジブリ作品に興味を持ち始めた」と語る親が、子育ての先輩から、「『人間は空を飛べない』ってしつこく教えておいた方がいいよ!」とアドバイスされた、という話だ。
ジブリ作品には、まあ色んな不思議な状況・現象が出てくるが、「空を飛ぶ」というのもその一つだろう。で、ジブリ作品を観た子どもたちの中には、「自分も空が飛べるんじゃないか」と思って真似したがる子もいる、というのだ。まあ確かに、僕は子育ての経験がないから考えたこともなかったが、確かに子どもがジブリ作品を観たら、「自分も飛べるんじゃないか!」と思ってもおかしくないかもしれないと思ったりする。
とそんなわけで、「まだ分別のつかない子ども」は、「正しい/間違ってる」「良い/悪い」「出来る/出来ない」みたいなことを、大人ほどには正しく判定出来ない。もちろん、そのことが時によっては良い方向に働くこともある。大人のような常識に凝り固まっていないが故に、斬新な発想が出来たりするのだ。しかし一方で、やはり「善悪の判断」を誤ってしまうという現実は、色んな問題を引き起こす。
僕らは未だに、「回転寿司店で醤油差しを舐める」みたいな、若者がちょっとしたイタズラぐらいに考えて行う「クソみたいな動画」を目にする機会がある。正直、そういう動画で炎上するのは、もはや「大人」と呼んでも良さそうな年齢の人だったりもするし、そもそもが「どう考えたってダメに決まってるでしょ」みたいなことをやっていると僕には感じられるので、この映画で描かれる「無邪気な残酷さ」とは重ならない。しかし敢えてこのような話を出したのには理由がある。それは、この映画で描かれるのは「超能力の使用に関する善悪」だからだ。
そんなもの、なかなか日常生活の中で誰も教えてくれないだろう。
「回転寿司店で醤油差しを舐めてはいけない」というのは、まあ仮に教えてくれる大人がいなかったとしても、生きていく中で常識的に身につけるべき所作だと判断されるはずだ。しかし「超能力」の場合はそうではない。普通は、超能力を使える人間に出会うこともないし、まさか自分が超能力を有する人間として社会で生きることになるなんて事態に陥ることもない。だからこそ当然、親や教師から「もし超能力者に会うことがあったらこんな風にしなさいね」「もし超能力を持っていると分かったらこうしなさいね」などと言われることなどない。
そして、そういう対象がリアルに描かれるからこそ、この物語では「無邪気な残酷さ」が純粋な形で強調されるのだと僕は感じた。社会の中で「当たり前に身につけるべき」とされる事柄であれば、個々人の倫理観や家庭環境などの問題に集約していく。しかし「超能力」は「当たり前」とはかけ離れた事柄であるからこそ、個々の倫理観や家庭環境ではなく、「子どもという総体が持ち得るもの」としての「無邪気な残酷さ」が描かれることになる。
「超能力」が出てくるという意味では「非現実的」なのだが、しかし「超能力」という「非現実的」なものを描き出すことによって、どんな子どもも持ち得る「無邪気な残酷さ」をより純粋に抽出出来ているというわけだ。
そう思って物語全体を俯瞰してみると、様々な場面でその「無邪気な残酷さ」が描かれていることが分かる。かなり冒頭で、イーダが自閉症の姉の腕をきつくつねる場面がある。「自閉症だから痛みに鈍感だ」という思い込みから来る行動だろう。あるいは、これもかなり冒頭だが、ベンが「ヤバ」と名付けた猫に関する描写もある。ある程度の経験・知識を踏まえた大人であれば普通はしないだろう行動を、子どもたちは「無知」ゆえに行う。そしてそこに「超能力」という要素が加わることで、信じがたいほど状況がカオティックになっていくのである。
さて、もう一方の「大人の排除」の話に触れよう。
これは、「無邪気な残酷さ」をより際立たせるための背景装置と捉えるべきだろうが、『イノセンツ』ではとにかく、「子どもたちの無邪気な残酷さ」が「大人の理屈」と交差することがない。これも意図的な設定だろうし、物語の主題を一層際立たせる効果が非常に大きいものに感じられた。
もちろん、物語には大人も登場する。そのほとんどが、4人の子どもたちの親であり、子どもたちの日常にそれなりに関わりを持つ。
しかし一方で、親たちは、子どもたちの「超能力」のことなど一切知りもしないし、だからこそ子どもたちの間で何が起こっているのかもまったく捉えられずにいる。もちろん、「何かおかしなことが起こっている」という兆候は掴むが、それが何なのかは全然分かっていない。
つまり、主軸の物語から完全に、大人が「排除」されているというわけである。
そのことを象徴するような場面があった。映画全体の中でも、かなり胸に刺さるシーンだ。かなり後半の場面なので、具体的に伝わらないように書くが、イーダがある場面で「もし大人だったら?」と質問する場面があるのだ。
イーダのその質問を聞いた者はもちろん、それを「もしも」の話として受け取った。イーダは9歳で、明らかに「大人」ではないのだから当然だ。しかしイーダは明らかに、「大人である私はどうすべきか?」という意図を持ってその質問をしている(そのことは、その後の行動からも明らかだろう)。
4人の子どもたちの物語に、実際的な形で「大人」が絡んでいるとしたら、イーダがそんなことを口にする必要はなかった。しかしイーダには、それはあり得ないことが理解できていた。イーダの親は決して子どもへの理解が乏しい人物ではないと思うが、それでも当然、「超能力」の話など信じるはずがない。イーダの母親は、「アナが喋った」というイーダの言葉さえ、当初信じずにいるのだ。「超能力」などもってのほかだ。
となれば、誰かが「大人」になるしかない。そしてその役を、イーダが自ら担う決断をしたことが観客に伝わるのが、先のシーンというわけだ。映画の随所で、この「大人の排除」は間接的に描かれていくのだが、イーダの「もし大人だったら?」というこの問いこそが、それを最も象徴的に映し出す場面と言えるかもしれない。
そして、「大人の排除」と、それに伴う「イーダの『大人化』」は、逆説的に、「子どもは大人が思う以上に深く物事を考えている」という気づきを与えもするはずだ。僕は親になったことがないので分からないが、どうも「親」という人種は、かつて自分が「子ども」だったという事実をどうも忘れてしまうようで、「子ども」という存在を思いのほか低く見積もっているように感じてしまうこともある。
徹底的に「子ども側」から描き出すこの物語は、「子どもは子どもなりの事情があって様々な判断をしている」ということが理解しやすいと思う。大人の目からすれば「嘘をついている」「正しいことを言っていない」みたいに感じられる場面でも、子どもには子どもなりに、そういう振る舞いをせざるを得ない状況がある。もちろん、この映画で描かれる「超能力」は、何度も書くが「非現実的」なものであり、その点だけ捉えれば、僕らが生きる現実を照射するようなリアルさを持ち得ないと感じるかもしれない。しかし、やはり何度も書くが、「超能力」というモチーフは「無邪気な残酷さ」をより際立たせるための装置であって、この物語が突きつけるものは、とことんまでに「現実的」だと僕には感じられた。
本当に、思ってもみなかった物語という感じだったが、観て良かった。全体に漂う不穏さが、ジャパニーズホラーを彷彿とさせるジワジワした感覚を与えつつ、「子どもの世界」という現実をリアリティを持って描き出している作品だと思う。
ラストシーンは、色々と考えさせる。想像力を掻き立てるラストであり、観る人によって捉え方は様々だろう。グッドともバッドとも言い難い物語であり終わり方であるが、それでも「まあこれしかなかったか」という感じに着地させているので、物語も上手く閉じているんじゃないかと思う。
なかなか示唆に富む作品だ。
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