【映画】「チェイン・リアクションズ」感想・レビュー・解説

これはなかなかおもしろい映画だった。本作は、映画『悪魔のいけにえ』について、5人のクリエイターがその魅力を語るドキュメンタリー映画である。で、僕はいつもの通り、『悪魔のいけにえ』は観ていない。どうしても『死霊のはらわた』と混同してしまうので、本作を観る以前から『悪魔のいけにえ』の存在自体を知っていたのかどうかさえ覚えていないのだが、何にせよ、僕の人生は『悪魔のいけにえ』とはまったく関係なかったと言っていいだろう。

けど、なかなか面白く観られる映画だった。

その理由、という言い方にすると変化もしれないが、僕が本作『チェイン・リアクションズ』を観て感じたことは、僕が書いている映画の感想を読んでくれる人に感じてほしいことだったりもする。僕は基本的には、「まだその映画を観ていない人が、その映画を観たいと思ってくれること」を期待して文章を書いているつもりだ(そんな文章に感じられているのかは自分ではなんとも判断できないが)。そして僕も、本作を観て「『悪魔のいけにえ』観たいな」と感じた。作中で、「B級ホラー映画だという評判で映画館に足を運んだら、まさかこんなに私の人生に影響を与える傑作だとは思わなかった」みたいに言っている人がいたが、僕もなんとなく、「思ってる感じとはちょっと違うかもよ!」みたいに思ってもらいたくて文章を書いてる気がするな。まあ、それは、書店員時代にやっていたこととずっと地続きって感じではあるのだけど。

さて、本作はこういうドキュメンタリー映画にしては珍しく、5名のクリエイターの話が1章ずつにまとまっている。ドキュメンタリー映画では、あるテーマ(人物でもそうでなくても)に対して様々な人があれこれ語るのだが、通常は、同じ人物の証言をキュッとまとめたりはせずに、色んなシーンに分散させることが多いように思う。

しかし本作『チェイン・リアクションズ』では、1章はコメディアンのパットン・オズワルト、2章は映画監督の三池崇史、3章はオーストラリアの映画評論家アレクサンドラ・ヘラー=ニコラス、4章は作家のスティーヴン・キング、5章は映画監督カリン・クサマというように、章ごとに証言する人物が1人配されるという構成なのだ。僕は割と色んなタイプのドキュメンタリー映画を観ているつもりだけど、こういう構成は結構珍しい感じがする。

で、本作が面白いのは、5人それぞれが語っていることが結構違うということだ。例えば、スティーブン・キングは「人物造形に深みがないのがいい」と言っていたのだが、カリン・クサマは(ちゃんとした表現は忘れたが)「人物がちゃんと描かれているのがいい」と言っていた。「真逆の受け取り方だなぁ」と思うのだけど、でもそれがいいよなとも思う。僕がいつも思っていることは、「創作物はすべて、受け手がどう感じたかだけで十分」だということだ。もちろん、明らかな事実誤認はよくないと思うが、そうでなければ、創作物をどう受け取ろうがその受け手の自由である。5人がそれぞれの視点で『悪魔のいけにえ』について語ることで、『悪魔のいけにえ』という作品の輪郭が膨れ上がっていく。それはもちろん、『悪魔のいけにえ』を観た人もそうだろうし、僕のように観ていない人であれば余計そうなるだろう。

「読書会」なんかで1つの作品の様々な感想を聞くみたいな経験を持っている人はいると思うが、本作『チェイン・リアクションズ』はその映画版という感じで、「同じ作品でも、見方が違うとこうも印象が変わるんだな」みたいな部分も楽しめるんじゃないかなと思う。

それで、個人的にメチャクチャ面白かったのが、三池崇史とスティーブン・キングの話だ。

三池崇史はまず、『チェイン・リアクションズ』と出会った経緯が面白い。元々は「映画好き」というよりも「ブルース・リー好き」だったようで、それから映画が好きになったという。で、ある日、チャップリンの『街の灯』がリバイバル上映されるということで観に行ったのだが、満員でチケットが取れなかったそうだ。でも、40分ぐらい掛けて街まで足を運んだので、このまま帰るのはもったいないということで、やっぱり何か映画を観たいなと思ったという。

で、三池崇史は元々ホラーは苦手だったそうなのだが、何か観る映画はないかと看板を見ていたら『悪魔のいけにえ』が目に入ったという。彼が目にした看板は、ちょっとエッチな感じな雰囲気があったそうで、それで観てみようと思って劇場に入ったら、そのとんでもない作品にぶっ飛んだらしい。

彼はその「ぶっ飛んだ感覚」について、「映画を観てあれほどの衝撃を受けたことは、それ以降ないんだけど、全然別のタイプの衝撃で言えば、ジブリの『火垂るの墓』かな」みたいに言っていた。とにかく、唯一無二の衝撃だったようだ。

彼が『悪魔のいけにえ』の良さとして挙げていたのが「理由のなさ」である。彼が『悪魔のいけにえ』を観た時には、いわゆる「Jホラー」みたいなものはまだなく、日本のホラー映画というのは主に「怪談」だったそうだ。怪談というのは、例えば「恨みを抱いた相手を呪い殺す」みたいに、ちゃんと災難や人死に理由がある。

しかし『悪魔のいけにえ』の場合には、人が死ぬことに理由はない。「そこにそういうヤバい奴らがたまたまいただけ」に過ぎないのだ。そういうホラーは、当時日本には存在しなかったし、そういう意味でも日本の映画人に強いインパクトを与えたと話していた。

そしてそういう感覚の延長線上にあるのが、彼の監督としての指針の1つなのだそうだが、「映像を通じて痛みを感じさせる」という画作りだ。彼はその原点を、「『悪魔のいけにえ』で女性が金具に吊るされるシーン」にあると語っていた。まさにそのシーンを観た時に、強烈な痛みを感じたのだそうだ。だから彼はそれ以降、「観た人がリアルに痛みを感じるような映像」を追求するようになったと話していた。

そしてその「暴力」について三池崇史は、「愛があるかどうかで分類している」とも話していた。本作『チェイン・リアクションズ』には、三池崇史が監督した作品の映像も流れるのだが、その中で、浅野忠信が「痛みを与えるなら愛を込めろよ」「愛がないなぁ、お前の暴力には」みたいなセリフを言っている場面があった。まさにこれは、三池崇史自身の感覚なのだそうだ。

彼は、「(『悪魔のいけにえ』の監督である)トビー・フーパーは、レザーフェイスに愛情を感じていたと思う」と言っていた(レザーフェイスというのは作中に登場する、気持ち悪いお面を被った殺人鬼である)。そしてだからこそ三池崇史は、レザーフェイスによる「暴力」に「愛」を感じたということなのだろう。

彼はインタビューの最後に、「『悪魔のいけにえ』を観ていなかったら、映画監督になることもきっとなかっただろう」という話から、印象的なことを言っていた。彼は、自分が『悪魔のいけにえ』に触発されて映画監督になって色んな作品を撮ったように、自分の作品に触発されて映画を撮りたいと思ってくれる人が出てくれると嬉しい、みたいなことを言っていたのだ。『悪魔のいけにえ』がこれほど愛され、多くの人に影響を与えていることを考えると、そんな風に感じてしまうのも当然だろうなと感じた。

では次にスティーブン・キングの話。スティーブン・キングは、最初の編集者であるビル・トンプソンに「キングの頭には映写機が入っている」と言われたことがある程昔から映画を観まくっていたそうだが、しかし『悪魔のいけにえ』は公開時には観ていなかったそうだ(理由は特に話していなかった気がする)。1982年に初めて観たそうなのだが、その時は若くして既に結婚していて、生活苦の中で執筆をしているタイミングだったらしい。で、アレクサンドラ・ヘラー=ニコラスも同じようなことを言っていたのだが、スティーブン・キングも劇場で観たのがフィルムが劣化したものだったらしく(そんなことあるんだなぁ)、だから余計に生々しく恐ろしく見えたそうだ。ちなみにアレクサンドラ・ヘラー=ニコラスの場合は、オーストラリアでは擦り切れたテープが出回っていて、それで、オリジナルのバージョンよりも大分黄色味がかった雰囲気の映像だったという。

で、スティーブン・キングの場合は物語を生み出す側の視点から色々語っていたので、そういう観点が面白かったのだが、まずは「作り物だと思わせる要素が少ない」という話が印象的だった。

例えば、『悪魔のいけにえ』には墓場に行くシーンがあるのだが、そこにいるのが「ハリウッドの人間でもなく、エキストラの人間でもなく、テキサスに住んでいる人にしか見えなかった」みたいに彼は言っていた(実際に地元の人間をカメラの前に立たせたのかは知らない)。彼は『悪魔のいけにえ』について「ある種の『壁』のようなものがない」みたいに表現していたのだが、その「壁」というのは要するに「現実と作り物の境」という意味である。

この点に関しては、ちょっと違う話だが、僕も近いことを感じることがある。例えば、アメリカやイギリス、韓国なんかの映画を観る場合には、「僕でも知っている役者」が出てきたりするので、そうなると、「その人物が演じている役は、作中で重要な役割を担うんだな」ということが分かってしまう(日本の映画ではもろ分かりである)。しかし、フィンランドやイランなど、「その国の一番有名な役者ももしかしたら知らないかもしれない」ぐらいの国の映画を観ていると、「誰が重要人物で、誰がそうでないのか」みたいなことが全然分からなかったりする。

みたいな話は、スティーブン・キングが言っている「壁」の話とは直接的には関係ないのだが、ちょっと近い部分もあるかなと思って出してみた。恐らく、「役者や演出が否応なしに観客に与えてしまう影響」みたいなことをスティーブン・キングは言っているはずで、そしてそこに「作為性」みたいなものが限りなく低く感じられたからこそ「作り物には思えなかった」みたいな感想になったのだろう。

また彼は「テイストと良識は作り手ではなく、審査する側にある」と言っていて、この話も面白かった。これは要するに、「倫理的に許されないようなことを物語として描くことの是非」みたいな話である。

『悪魔のいけにえ』は、雑に要約すれば「無差別連続殺人」であり、もちろん倫理的に許容されるものではない。そしてさらに、映画内での描写がかなり生々しく、その演出もまた倫理的に受け入れがたいと感じられるものかもしれない。

ただ、スティーブン・キングは「作り手はそんなことを考えるべきではない」と主張していた。彼は、自身も作り手として、「私は上品なものを汚したい。ホラーを書くならそれを目指すべきだ」「不快にさせるのがアーティストの仕事だ」と主張していた。良いか悪いかの判断をするのは作り手ではない誰か(映倫など)であって、しかもその判断基準は時代の変化など様々な要因で変わるのだから、作り手が考えてはいけないというわけだ。彼は、「倫理観と、芸術や映画とは相容れない」とはっきり言っていた。

しかしそんな彼も、作り手として、良識に属する判断を迫られたことがあったそうだ。彼は昔ある小説を書いた。その内容は、学校で少年が銃を撃ち、同級生を人質にして立て籠もるという話である。アメリカでは度々起こる事件だが、彼は、世の中にそんな事件が起こるようになる前にこの小説を書いていたのだ。

で、ある時学校で銃乱射事件が起こった際、その犯人のバッグに彼の小説が入っていたという。しかもその後も何度か同じようなことがあったのだそうだ。それで結局彼は、その小説を絶版にすることに決めたのだという。「自分の責任だと感じたくないから」みたいに言っていたと思う。

ただ彼は、「銃を撃つ映画を観て自分もやろうと感じる人はいるが、『悪魔のいけにえ』を観て自分も人を猟奇的に殺そうとは普通思わない」とも言っていた。銃社会であるが故のややこしさがあるという理解であるようだ。

あと、印象的だったのは、「『悪魔のいけにえ』は時代を映した映画ではない。むしろ早すぎた。ようやく時代が追いついたということだろう」という話だ。どういう点を取り上げてそう言っていたのか忘れてしまったが、『悪魔のいけにえ』が今も多くの人に影響を与えている本質的な理由がここにあるのかもしれない。

で、この点に関連させる形でカリン・クサマが語っていた話に触れよう。彼女は『悪魔のいけにえ』を「若きトビー・フーパーが目撃した未来を覗き見している」みたいに感じているそうだ。彼女は『悪魔のいけにえ』のテーマを「アメリカがいかに狂気であるか」だと捉えているようなのだが、まさに『悪魔のいけにえ』で描かれている狂気は、現代のアメリカを映し出していると彼女は考えているらしい。「悲しいことに、アメリカにとってはまさに今他人事じゃない」という表現を使ってもいた。

とまあ、1つの作品から様々な捉え方が出てくるのが面白いところである。こういう映画はもっとあってもいいかもなぁ。昔、ヒッチコックの映画について語るみたいなドキュメンタリー映画を観た記憶があるけど、僕が今パッと思いつくのはそれぐらいかな。

というわけで、なかなか面白い映画だった。上映している劇場がたぶんかなり少なく、僕が観たシアター・イメージフォーラムはたぶん今日が最終のはず。今日が1日の映画デーだったから観てみたぐらいの感じなんだけど、ギリギリ滑り込めて良かったなという感じである。


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