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「優しさ」は時にしんどい

「月1エヴァ」という企画で最近『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観たのだが(たぶん3回目かな)、その中に、「なんでみんなこんなに優しいんだよ!」と碇シンジがキレながら口にする場面があった。

そう、「優しさ」というのは時に辛さをもたらすものでもある。

その「優しさ」が善意だとしても、というかむしろ善意だからこそ辛く感じられてしまう。「優しさ」を受け取るのにもパワーが必要だからだ。自分にパワーが無い時には、誰かの「優しさ」は「刃」のように鋭く感じられてしまう。それに、「私は、この『優しさ』を享受するに足る人間である」という自己肯定感も欠かせない。お猪口みたいな器に、どんぶりに入った水を注いでも、ほとんど零れてしまう。「受け取れない分が失われていく」という感覚は、やはり辛さに変換されるよなと思う。

あるいは、世の中には「『優しさ』がデフォルト」みたいな人がいたりもする。そしてそういう人に出会うと、「あぁ、自分はそんな風にはなれないよな」という劣等感が刺激されてしまう。それもまた辛いだろう。さらに言えば、これは「優しさ」に限る話ではないが、「切実に求めている」からこそ「手に入ってしまった時の困惑」が増幅されるみたいなこともあるはずだ。

そんな様々な理由から、「優しさ」は辛いものとして受け取られてしまい得る。ただそれはそれとして、「優しい人は他人からの『優しさ』にも敏感だ」とも言えるはずだ。つまり、「他人からの『優しさ』に気づけるぐらいには優しい」と認識しておいてもいいよなとは思う。

さて、僕は「優しい」と言われると「ちょっとマズいかもな」と考えるようにしている。というのは、これは個人的な感覚だが、「優しさ」というのは本来的には「気づかれない」あるいは「10年後ぐらいに気づかれる」ぐらいでいいと思っているからだ。現在進行形の行為を「優しい」と評されると、「本質的な意味での『優しさ』じゃないかもしれない」みたいに感じられたりもする。

だから「優しい」と言われたら、「少し自分の振る舞いを調整しようか」と考えるようにしているつもりだ。そして、自分なりの「優しさ」を発揮しようと思う時には、相手の状況を見極めたり想像したりしながら、相手の「残存パワー」に合わせた調整をしたいと思っている。まあ、上手く行っているかは自分ではなんとも評価しがたいが。

その一方で、「あぁ、これは嫌な『優しい』だなぁ」と感じることもある。「優しい」という言葉を「私にとって都合がいい」という意味で使っている場合だ。本人に自覚がない場合もあったりして、余計に嫌だなと思う。そしてそういう時、「自分も気をつけないとな」と改めて考える。

「優しい」という言葉はどうしても「そうしてくれると私は嬉しい」という気持ちを内包するものだし、ある意味でそれは「呪い」でしかない。発した本人にそんなつもりはなくても、「優しい」というのは「相手を自分の望んだ通りに動かす言葉」でもあるというわけだ。そのことに一層敏感になりながら「優しい」という言葉を使わないといけないなと思う。

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